あげちうのブロマガ

それは偉人の声か歴史の絶望

状況は変わりつつある。

ただ、それは何故そうなったか?と言う理由は、相変わらず残ってはいる。

非常に主観的な判断かもしれないが、「PS5」これは、非常にユダヤ教的な思想、それが強く出ている?物として仕上がってしまった、感じは有って。そこに有る、「バベルの塔」この逸話はあらゆる分野に対して「限度」として発生する、それはもちろんゲームとしても、だ。この限度を超えた瞬間、世界は表情を変える。それはたとえ、PCの市場規模を一割は膨らませたWindows8.1であっても、だ。売れたとしても、それがバベルの塔を目指すのなら?それは破壊される。

”ここ”の理解では、バベルの塔が破壊されたのは、最下層の意向を無視したから、だが。自身が最下層でもない限りは、これはいずれは無視される、その瞬間はある。と言う懸念を強く見せ、恐らくは反論し得ないし、また「お金」と言うのがユダヤ教に強い支配を受けている、現状を鑑みるに、「売れる」と言うモノを”ここ”で出そうとするなら、相応の「限度」それは、そこに有る。

混沌は、暫く発生しそうな気は、する。

当り前かもしれないが、イメージとしてPS5で「ガンダムオンライン」を出そうとするなら、最初に配布されるのはGMである、と言う感じの変更だ。どんな形で有れ最初からガンダムに乗ってはいけない、そんな感じ。日本的な文化に慣れてると、この感覚は実はショッキングでさえ有る、何の為にこのゲーム買ったと思うんだ?!それが満たされない。ビギナーズラック、そんな物は無い、と言う様な、どうもそんな感じが今の、PS5にある倫理観ではある。

だから、ドラゴンクエストをPS5でリメイクするなら、かつて言われた「数多の勇者と名付けられた一人」に過ぎない、と言う”それ”を導入する感じになってしまうのかもしれない。そんなもんドラクエか?と言われても、ともかく日本の当たり前、「生まれつき天皇に成る運命」それは、無い。

非常に競技性を強調される、そこにも理由は有るだろうか。”ここ”は「全て」が平等に扱われるフィールドである、その具現。特権は居ないし?それを要求するなら外に出す位の、「管理側の」感覚。正論ではある、現実が違うとしても、正論はやっぱり優先される。

勝者は神が決める事だ、その神判に逆らう事も、理由を考える事も正しくない。

常に問われる話だ、貴方は神様か?違うなら、規約に逆らうべきでは無い。

そう言う意味では残念さはある、最終的にはPS5は野球場だ、ヒーローは居るし、感動もあるし、熱狂もするにしろ、そこに立つのは試練を超え神に選ばれた連中に過ぎない。漫画の様な”それ”は、ここには無いのである。

”ファミコンから始まった”「テレビゲーム」とは、そんなだったろうか?

テレビゲームは、もっと昔からあるのだ。

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