明るいサロン パソコン長吉川辺教室

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歴史の散歩道を行く

2004-06-30 | 歴史の散歩道を行く
『歴史の散歩道』 上町台地を歩く 15

 源聖寺坂
 

松屋町筋に源聖寺坂と書かれた石標。
上り口に源聖寺というお寺があります。
ここが 東から西へ通り抜ける 最後の坂です。

 最初は石畳ですが途中からは階段状になっていて少し右へ曲がっています。

 犬を散歩させながら坂道を下ってくる男性と出会ったきりで
上りきるまで ほかに人はありません。
 見た目より 上りのきびしい坂道でした。
途中の壁に こんな 表示を見つけました。
坂の途中で 東は 生玉町7丁目、
西は 下寺町1丁目に変わります。

 今日は 愛染さんの宵宮です。
 ここから 大阪の夏祭りが始まります。
 
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歴史の散歩道を行く

2004-06-29 | 歴史の散歩道を行く
『歴史の散歩道』 上町台地を歩く 14

 下寺町付近

 

口縄坂の石段の終点に 旧夕陽丘女子高等学校跡の碑。
たらたらと続く緩やかな坂道を経て下寺町へでます。

 逢坂へ通じる自動車の往来の激しい松屋町筋。
オートショップとお寺が仲良く軒をを並べる大通りです。
 
上町台地の西側、松屋町筋沿いは下寺町、
谷町筋沿いに並ぶ寺々、坂の東へ下ると 上本町筋に寺町。

北から南へ 3本の通りに挟まれ連なる寺院町は 
豊臣秀吉の大阪城築城の頃からさらに江戸時代にかけ、
寺院移転・統合等により この地に寺院が集められ
現在に至っていると言われています。
 
 大相撲の時期には これらの道筋にに相撲部屋の旗が
誇らしげに翻っていたことを、
懐かしく思い出すのは 私だけでしょうか・・・
今は そんな光景も 殆ど見られなくなりました。
「タニマチ」と言われる言葉も ここから生まれたのでした。




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歴史の散歩道を行く

2004-06-28 | 歴史の散歩道を行く
『歴史の散歩道』 上町台地を歩く 13

 口縄坂

 

七坂のうち私が一番心安らぐ坂がここです。
以前読んだ「新撰組血風録」の一節にも書かれていました。
 
「十三まいり」で知られている太平寺の手前を左折し
しばらくすると現れる石畳の坂です。
 
 下り口には織田作之助の『木の都』の一節が書かれた文学碑。

坂の名前の由来は
 
蛇のように道の起伏がうねっていることから。
 大阪では蛇のことを 蛇(くちなわ)と言います。

 大阪城築城のとき、縄打ちを始めた地。


 坂の上り口にある 称名寺の
「海中出現口縄正観世音菩薩」の名からきている。
などなど・・・

 
 私が坂に向かって歩いていると タクシーが一台。
坂の手前で止まりました。車の中から女性が降り立ち、
坂道を下っていきました。ここもまた 生活路・・・



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歴史の散歩道を歩く

2004-06-26 | 歴史の散歩道を行く
『歴史の散歩道』 上町台地を歩く 12

 天王寺区 六万体町

 

学園坂から 坂をめぐって逢坂まで 。
天王寺七坂のうち 
4つの坂、とその周辺を歩いてきました。

谷町9丁目方面に歩くと 残る3つの坂があります。
口縄坂 (この間に学園坂) 聖源寺坂 真言坂 。
それぞれに 天王寺方面の坂と 少し趣を変えます。
また ご一緒に歩きましょう。

 写真は 谷町へ行く道路の東側
最初に ご紹介した歴史の散歩道の 道しるべがあった付近です。
 
義士の墓で有名な
六万体町(ろくまんたいちょう) 吉祥寺(きっしょうじ)です。
ここは 赤穂義士の墓所。
毎年 12月14日には 討ち入りの姿をした子供たちの義士行列が催されることでも知られています。

六万体町。変わった町名です。これは 聖徳太子が戦勝のお礼に
仏像六万体を建立して ここに祭られたところから由来しています。



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歴史の散歩道を行く

2004-06-25 | 歴史の散歩道を行く
『歴史の散歩道』 上町台地を歩く 11

 一心寺

 

ここは浄土宗の寺院と言うより
一心寺シアターという劇場があるお寺、
毎年夏になると怪談が上演されることで有名。

 全国的には 納骨寺として知られています。
納められたお骨で10年毎に阿弥陀仏が作られお祭りされています。
私たちが行った当日も 本堂では納骨の法要が行われていました。

 このお寺の表門は大阪城三の丸玉造口の黒門を移したものです。
 
 本多忠朝(ほんだただとも)墓所もあります。
 この方は 大阪夏の陣で天王寺口の東軍の先鋒。
 この戦いで 戦死。
  
 生前 酒癖が悪く 死ぬ間際に
 「墓に詣でる者を酒嫌いにさせてやろう」と言ったため
 酒封じ願掛けの墓 としても 知られています。

 境内には
 鳥羽伏見・戊辰戦争で亡くなった 東軍の招魂碑があります。    

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