つまり出雲族と安曇族は一緒だと過去書いてるはずで、ここでまた符合するって事。
そしてその連中は殷だと書いてるけども、漢族ではない。
扶余かもしれない。
それが天孫族だと?? 今 この世にしてそれが通用しない事をやっと証明できる。
伊那谷の塩竃神社の御祭神は、
「神話・伊弉諾から生まれた神々で、阿曇連(阿曇氏)の祖神の海神(わたのかみ)」
というのが違うと書いておこう。カッコ内が違う。
出雲のシャーマンと安曇のシャーマンは同族で塩釜神社の祭神も同じという
こじつけがまったく違う。塩釜神社は志波姫まつってる斯波系で、司馬だから。
その斯波たち勢力が多賀国府ぶっつぶしたんだから。
はい~ここ追加↓
斉(齊、せい、Qí、紀元前1046年 - 紀元前386年)は周代、春秋時代、戦国時代初頭に亘って現在の山東省を中心に存在した国(諸侯)。周建国の功臣太公望によって立てられた国である。
斉の建国と発展[編集]
その後も領土を拡大し、春秋時代に入る頃には東の強国となっていた。斉は海に面していることより塩の生産が行われ、鉄の産出地でもあったため、大いに富み栄えた。
その後の紀元前532年に晏嬰が宰相となり、軍事面では司馬穰苴を登用し、国政を安定させた。←斉と司馬の関係 司馬は斯波、あるいは志波姫の志波 塩釜神社に志波姫神社作ってあったじゃないか!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
出雲族は夏代入り口を追いかけてきて陣取った他民族だという認識は書き出した時からの
直感であり、ほぼ間違いない。
あと志賀海神社 住吉大神の看板は海神 まぁ 海の神を信仰するっていうのは別に
いいんだけども・・・・
http://utukusinom.exblog.jp/i4
大御食神社
またこれよりすぐに中沢の【熊鰐(くまわに)】に、
山の麁物和物(あらものにぎもの)を菜らしめ、
川戸幸をして川の魚(まお)捕らしめ、
また野彦には 野つ物を取らしめて、
大御食大御酒 種々物を御饗(みあえ)たてまつれり
山の獣あえものを採り集め、川土工をして川魚を採り集め、野にあるものを採り集め
たくさん食べたくさん飲み、色々なものを提供し、たてまつってきた
↓この単語を使ってるのは天孫族を自称する連中のほうで八幡サイドではないなぁー
和邇[編集]
「和邇」を特定の実在生物に比定する説を以下にあげる。
サメ説[編集]
因幡国(現・鳥取県東部)を含む山陰地方の方言ではサメをワニと呼ぶ[10]。歴史学者の喜田貞吉は、隠岐島の刺し身が「ワニ」と呼ばれることから、古事記神代巻のワニとはフカ(サメ)を指すとする説[要出典]に賛成し、国定教科書編時に、因幡の白兎のワニをワニザメと表記した[11]。中国地方の山陰では浜でも山間部でもサメを「わに」と呼び、山間部に伝わる「わに料理」はサメ・エイ等の魚を煮た料理である。
『古事記』「山幸彦と海幸彦」の段に、山幸彦が「一尋和邇」(ひとひろわに)の首に小刀をつけて返し、佐比持(サヒモチ)神と呼ぶ話がある。サヒは刀の意味で、シュモクザメの頭部が、刀を持っている様であることを表したと考えられ[独自研究?]、「和邇」でサメを意味するとみられる[独自研究?]。シュモクザメは古来から日本近海に生息している[12]。
『日本書紀』でも山幸彦と海幸彦の物語がある第十段一書の第四において、「海神 所乘駿馬者 八尋鰐也 是 竪其鰭背 而在 橘之小戸[13][14]」とあり、海神の乗る駿馬は「八尋鰐[15]」で、その鰭(ヒレ)を背に立てて橘之小戸にいると記され、サメと読むことができる[誰?]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E3%81%AE%E7%99%BD%E5%85%8E
伊那谷に住んでた熊鰐氏
熊鰐(わに)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/熊鰐-1122106 - キャッシュ
デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 熊鰐の用語解説 - 「日本書紀」にみえる豪族。筑紫 (つくし)の岡県主(あがたぬし)の祖。仲哀天皇8年天皇を周防(すおう)の沙麼(さば)(山口 県防府市か)にでむかえ,魚と塩をとる地域を献上,海路を案内した。干潮のため神功( ...