アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

米東海岸を冬の嵐が襲撃、1400便欠航

2016-05-28 21:24:57 | 自然と天災
米東海岸を冬の嵐が襲撃、1400便欠航

2016/2/16(火) 午後 3:19



米東海岸を冬の嵐が襲撃、1400便欠航

ロイター 2月16日(火)14時21分配信

米高速道路で50台絡む玉突き事故 3人死亡

アフロ 2月15日(月)19時33分配信


米韓潜水艦、日本海で合同訓練=北朝鮮の挑発に備え
時事通信 15日(月)9時43分


<交通事故>米東部の高速道で50台衝突 吹雪で視界悪化写真
毎日新聞 14日(日)12時47分


日本兵の頭蓋骨返還は??

キリスト看板の撤去は??

いつになったらやるんだよ!

あ~許せない

2016-05-28 21:22:43 | 皇室問題
あ~許せない

2016/2/16(火) 午後 2:57

金を返し 長持も返し うちの先祖の墓にわびて かつ 南朝と北朝天皇はいたと

きちんと認めなきゃ。

北朝は正しかったなどと子供に平気で指導してる教職員は首吊って死にたいか??

人肉食う桓公子孫の遺体切断と宗教を支援した北朝勢力を正しいなどと指導すんのは

将来 その子供が南朝人間をバカにし、嫌がらせする原因になる。

こんな重大なことをよくも何十年と隠して学校教育してたのだから

あたしは自分の血でこの関係者を祟り殺してしまうぞ マジで。

それにビクビクしてるのは一部の浜通りの人間。

逆に、あたしが保護してる民族たちは、その桓武から何一つ 恩恵を受けて

いない。武将は死に絶え、墓も粗末なもの それを供養してくれる人もいない。

これ ここらの人間はあたしの顔見てムカつくだろうが、全国的に見ないと。

全国的に南朝武将が 平家が命かけて戦してきたんだから。

その死んだ連中の怨念も含めて あたしが背負ってるのがここらの人間に

わかるか??

数万人規模じゃないから 言っておくけど。

あと南朝子孫だというために、金欠に陥った あるいは身分を剥奪された

あるいは、土地を奪われた。こういう事が起きたのだって、責任あるんだ。

ここらの野馬追い出てる連中が、その無残な南朝派だった人たちへ顔向け

出来んのか??と問う。

少なくとも立谷は自称南朝らしいが、相馬をまつりあげ、せっせとあたしを

ブチギレさせる事を繰り返してきた。これが南朝子孫だと??

南朝で死に絶えた武将に顔向け出んのかコイツ??

全国規模なのに、この連中は目先しか見ていない。

市長と天皇じゃ 立場まったく違うぞオイ??

その天皇が桓武だと野馬追いしても誇らしいか??

飢饉で大量死してる相馬藩 祟り知らんのかお前ら。

あと、お前らがそうやってきたかげで、ちゃんと霊山みたく 心で信仰して

くれてた人たちも大勢いるのな。

今 それが 一体なんだったのか 天皇血筋のあたしが はっきりと提示してる。

金返せ。

あ~許せない

発狂してる

この百済人食い!

「天皇」の画像検索結果←アキヒト

「天皇」の画像検索結果←アキヒトと美智子

「天皇」の画像検索結果←アキヒト

「天皇」の画像検索結果←アキヒト一家朝鮮族

「天皇」の画像検索結果←アキヒトと朝鮮雅子

「天皇」の画像検索結果←昭和天皇ヒロヒトの嫁島津

戦争責任を百済にとらせろ!国費は使うな!

2016-05-28 21:18:25 | 皇室問題
戦争責任を百済にとらせろ!国費は使うな!

2016/2/16(火) 午後 2:35

大日本帝国陸軍←百済が指揮してる陸上軍隊

天皇が百済だから

天皇が陸軍と海軍の総帥だから

大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。したがって、陸海軍(日本軍)の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、帝国陸軍については陸軍大臣(大臣)・参謀総長(総長)・教育総監(総監)が天皇を除く最高位にあり(直隷)、これらは陸軍三長官と呼称された。なお、三長官には陸軍大将ないし陸軍中将が任命されるため、役職自体は帝国陸軍の最高位といえど階級自体は必ずしも最高位の者がなるものではなく、特に歴代の陸軍大臣と教育総監には少なくない陸軍中将が補職されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D

大日本帝国陸軍 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/大日本帝国陸軍 - キャッシュ
大日本帝国陸軍
大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん、だいにほんていこくりくぐん、旧字体:大 日本帝國陸軍、英: Imperial Japanese Army)は、1871年(明治4年) - 1945年(昭和 20年)まで日本に存在していた軍隊組織...
名称-概要-意匠-軍旗


天皇が百済だと、皇民化教育の天とは百済になり、百済に仕える軍隊もみんな百済から

の身分差別を徹底的にやられる。

だからみろ、餓死大量発生だから。

百済は能無しなのに、それを信仰に使って法律を適用させて国民を大虐殺した百済皇族

を日本から追い出さないと。

百済の下だからカニバリストが出るんだよ。そもそも桓公は人食い民族の子孫だから。

兵隊をイケニエにするとか、殺害しておいて遺体をバラバラにして信仰に使うという、

それが百済だって、天皇がカニバリストの子孫なわけがないだろうが。

警察も自衛隊もよ-く覚えとけ。そういう扱いをあの百済たちがいることによって、

そういう目にあわされることを。

それが今度俺は嫌だ、アイツにしろとたらい回しになるから。

戦前の皇室の財産>|越えられない壁|>(当時の)三井財閥、三菱財閥、住友財閥の総資産の合計。

餓死


太平洋戦争戦跡地-戦没者の60%強140万人は餓死であった - Biglobe

www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html - キャッシュ
フィリピン戦での大量餓死①揺れ動く決戦構想②餓死への道程③フィリピン戦の特徴④ 住民への加害行為 7.中国戦線 ... 第2次大戦(日中戦争を含めてアジア太平洋戦争) における日本軍の戦没者の総数、その中での戦死、戦病死などの割合は、 戦争が日本 ...

太平洋戦争戦跡地-戦没者の60%強140万人は餓死であった - Biglobe

www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html - キャッシュ
出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行 第5頁~第 9頁 目次 第1章 餓死の実態 1.ガダルカナル島の戦い①無謀な陸軍投入②餓島の 実情③ガダルカナル戦が示したもの④ガダルカナル以後のソロモン群島⑤孤立した ...

ガダルカナル島で人肉を食べる兵士達|太平洋戦争史と死後の世界を ...

ameblo.jp/zipang-analyzing/entry-11321335541.html - キャッシュ
ガダルカナル島で人肉を食べる兵士達 ... ガダルカナル島で補給の断たれた兵士たちは 飢えに苦しみましたが、その最後の食糧確保の手段として、やむを得ず ... 現代でも同じ 、後先何も考えない原発推進で、国民が餓死ならぬ「放射能死」


ラバウル大要塞 - かつて日本は美しかった

d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20101128/1290923082 - キャッシュ
昭和18年3月以来、連合軍のラバウル上陸作戦は必至とみて、地下要塞を建設してい ましたが、10月になると敵の空襲 ... こうしてラバウルは占領せず、空爆だけ行い、孤立 化して餓死させる作戦が取られましたが、自活のため餓死することは ...

日本兵の戦死原因のトップは「野垂れ死に」? - 歴史 締切済 | 教えて!goo

oshiete.goo.ne.jp > 教えて!goo > 学問・教育 > 歴史 - キャッシュ
餓死者が多発した戦域はビルマ(インパール作戦)・フィリピン・ガダルカナル・ ポートモレスビー攻略戦です。 ... 戦闘でありながらクリミア半島での犠牲者の8割は餓死 か戦病死でしたし、第二次大戦後の朝鮮戦争でも米軍以外ではかなりの餓死者が出 ています。


インパール作戦 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/インパール作戦 - キャッシュ
インパール作戦
イギリス軍の予想兵力10個師団に対して著しく少ないが、ビルマ戦の経験からはこの 戦力比でも勝算があると考えたのである。 ..... 断たれて飢える兵が続出、極度の飢え から駄馬や牽牛にまで手をつけるに至るも、死者・餓死者が大量に発生する事態...
日本軍作戦立案の経緯-二十一号作戦-武号作戦-ウ号作戦

ガダルカナル島の戦い←いったい、何をやってんのアンタ達は。

2016-05-28 21:03:26 | 日記
ガダルカナル島の戦い←いったい、何をやってんのアンタ達は。

2016/2/16(火) 午後 2:25

日本陸軍は日中戦争解決を重視

仮にヒロヒトではなく、うちを崇拝してる軍隊がいたら

旭日旗は使わないだろうな

陸軍総帥も一応ヒロヒトになってるじゃねぇか



大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は

軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。

したがって、陸海軍(日本軍)の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、帝国陸軍

については陸軍大臣(大臣)・参謀総長(総長)・教育総監(総監)が天皇を除く最高位

にあり(直隷)、これらは陸軍三長官と呼称された。なお、三長官には陸軍大将ないし

陸軍中将が任命されるため、役職自体は帝国陸軍の最高位といえど階級自体は必ずしも

最高位の者がなるものではなく、特に歴代の陸軍大臣と教育総監には少なくない陸軍中将

が補職されている。




日本海軍は侵攻で連合国の分断狙い

大日本帝国海軍総帥「昭和天皇」ヒロヒト朝鮮人



そもそも百済だからコイツは↑




ガダルカナル島の戦い


このように海軍は積極的な侵攻作戦によって、連合国の反攻拠点であるオーストラリアと

アメリカの分断を考えたが、日本陸軍は、あくまで日中戦争(支那事変)解決を重視して

おり、東南アジアの占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の

作戦担当地域であるという認識に立っていたため、戦線拡大には否定的であった。


大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、ガダルカナル

島において戦闘能力のある人員は、設営隊と護衛の海軍陸戦隊(第18警備隊基幹)を合わ

せても600名足らずであった。アメリカ軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了

している。なおこれに先立つ1942年(昭和17年)5月3日のMO作戦時に、近接するツラギ島

には水上機基地が設けていた。ガダルカナル島の防備について、井上成美中将

(第四艦隊司令官)は「第八根拠地隊(南東方面の地上部隊)に兵器をやりすぎた」

と言うほど、楽観的であった[6]。

しかし、日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦となるウォッチ

タワー作戦を発令した。米国陸軍マッカーサー大将は、ウォッチタワー作戦の目標を

フィリピンにより近いラバウルとすることを主張したが、海軍作戦部長アーネスト・キング

大将は太平洋艦隊の空母戦力が充実していないことを理由に反対したため、当時飛行場建設

が行われていたガダルカナル島を攻略することで双方一応の決着をみた。

そして7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への準備が進められた。

13日、捕虜となったある日本兵が米海兵隊に対して「日本軍には投降する意志がある」

と証言し、また海兵隊の偵察隊もマタニカウ川西岸に「白旗」が掲げられていると報告した

ため、(実際には日の丸が折り重なって赤丸の部分が見えなくなっていただけだった)

第1海兵師団のD-2(情報担当幕僚)のフランク・ゲデッジ中佐率いる24名の偵察隊が現地に

向かった。ところが実際には日本軍の攻撃を受け、伝令2名と川に飛び込んで逃げた1名のみ

が生還した。「白旗」を囮に攻撃を加えるという日本軍に多くの海兵隊員は激怒し、

彼らの多くが日本兵は捕虜にせず、その場で殺害することを心に誓ったという。[要出典]

この戦闘による川口支隊の戦死者・行方不明者は約700名で、一木支隊と比べれば損耗率

は低かったが、激戦となったのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけであり、国生少佐、

水野少佐を含め中隊長クラスの中堅将校が戦死した。

また、再起を画してアウステン山からマタニカウ川西岸にかけて負傷者を含めた5,000名

余りが駐屯することになり、兵站線の細い日本軍は、以後食料・弾薬の補給不足が

深刻化し、以後ガダルカナル島(ガ島)はさながら「餓島」の様相を呈することになる。

第二次総攻撃[編集]

1942年9月17日、陸軍参謀総長杉山元陸軍大将は、大元帥である昭和天皇にガダルカナル

島の戦いについて以下のように上奏している。

川口支隊の攻撃不成功の要因はジャングルを利用した奇襲に重点を置きすぎ、連絡不十分

なまま戦力を統合運用しなかったためであること連合軍の防御組織、とりわけ物的威力が

予想以上であり、同島では今後まったくの力押しによる戦闘が求められることこの戦いを

受けて第17軍に、関東軍・支那派遣軍などから20個単位の戦車、砲兵戦力を転用・編入

して戦機である10月中にガダルカナル飛行場を奪回するべきこと

ガダルカナル島の戦いにおいては、陸海軍戦力を統合発揮する必要があること

11月12日にガダルカナルより大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎大佐が帰京し

次のように第二次総攻撃の失敗について、東條英機内閣総理大臣兼陸軍大臣に報告して

いる[34]。

敵は完全に制空権を掌握し、熾烈巧妙な火力準備により裸の我が軍を迎え撃った。

敵は地上攻撃と空中攻撃を併用し、我が軍の航空支援は皆無だった。

我が軍の大隊長級の能力薄弱。

兵の士気は麻痺しており、さらに顧慮すべき衛生は劣悪。高い発熱、下痢、栄養失調に

より第2師団の戦力は4分の1に低下。戦傷兵の後方担送には1人につき4から8人が必要な

状況にある。

現地の火砲は十五榴12門、十加2門、野砲4門、山砲8門、高射砲12門の計48門で、

弾薬不十分。

糧食は非常に不足し、揚陸物資も搬送手段無く、末端には届いていない。

軍司令官は健康。「やる」と言っているが第一線を把握していない。

敵は白昼堂々と船団輸送しているが、我が軍は潜水艦でコソコソ揚陸するも10隻で僅かに

2日分の糧食を輸送できるに過ぎない(この時期に潜水艦による輸送は始まっていない

ため、駆逐艦の誤りと推測される)。

日本海軍連合艦隊は日本陸軍第17軍の総攻撃支援のために近藤信竹中将指揮下の第二

艦隊(第三戦隊:戦艦金剛、榛名、第二航空戦隊:空母隼鷹、飛鷹)および南雲忠一中将

指揮下の第三艦隊(第一航空戦隊:空母瑞鶴、翔鶴、瑞鳳等)を派遣する。

10月26日、これによって発生した南太平洋海戦で日本側は搭乗員の多数を失ったが、

空母1隻沈没、同1隻中破の戦果を挙げ一時的にアメリカ太平洋艦隊が展開する空母戦力

が無くなることとなった。

山本五十六連合艦隊長官は「海軍の大戦果に呼応し、このさい一挙に敵を撃滅されたし」

と陸軍に連絡したが、陸軍は予備兵力なしとして断ったという[36]。

日本海軍では下士官兵はおろか将校までが陸軍を批判していたのが目撃されている[36]。

ともかくこの報告を受け名古屋第38師団約1万名の輸送が決定した。


12月6日には閣議において、参謀本部作戦部長の田中新一中将が支援に必要な16万5000

トンの艦船をガダルカナルに送り込むよう訴えたが、その半分の増援も認めなかったた

め、東條首相ら政務側に対し「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ事実上更迭された。

その理由は、元々東條はこの方面の作戦には反対であったこと、過去に投入した船団も

ことごとく全滅状態となったことであった。また参謀本部や海軍の要求を通すと南方から

の資源輸送・南方への物資輸送が滞り、戦時経済そのものに悪影響を与えるためでもあった。

12月31日の御前会議において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの

撤退が決定された。この決定からさらに1ヶ月を経た1943年2月1日から7日にかけて、

撤退作戦が行われた。各部隊のほとんどは予定通りに撤退地点まで到着することが出来

たが、身動きの出来なくなった傷病兵を自決させ、あるいは「処分」することが大規模

に行われていたという。

ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前

に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘

での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。

一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった[55]。

ガダルカナル島最後の撤退作戦に参加した海軍輸送部隊指揮官の言によると、撤退するの

が難しい傷病兵の多くは捕虜になることを防ぐため、手榴弾などで自決するか、

戦友達の手(手榴弾・銃・銃剣など)によって葬られた[58]。
日本軍撤退作戦終了後、

ガダルカナル島はソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用され、

また、日本軍の残兵掃討を行い部隊の練度を上げることが行われたと言われる。戦後刊行

されたグラフ雑誌『ライフ』には、米軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、戦車の前

に一列に並べられ、キャタピラでひき殺されている様子が掲載されたという[59]


日本[編集]

ガダルカナル島の戦いは日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、11月24日には

ある将校が「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が死んで腐って蛆がわいて

いる」旨を大本営に報告したが、撤退は未だ決まらなかった。


1ヵ月後の12月31日になって

日本軍はようやく撤退に向けて動き始めたがこの間にも多くの将兵が餓死していった

(これはガダルカナル以降補給の途絶えた各戦場で見られた現象で、ある生存者はジャン

グルを「緑の砂漠」と表現した)。ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士は

すべて食糧の搬送に当たり、陣地を「守る」のは、立つこともできなくなった傷病兵という

状態に陥っていた。そういう中で、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後

の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って

米を強奪する兵士も現れる状況になった。また、戦いも末期になると孤島に封じられ、

食糧の欠乏が深刻になると軍紀の荒廃は極まり、飢えた兵士の中からカニバリズムも発生

したと言われ、書籍[61]では、ガダルカナルからの帰還兵の話として、日本兵狩りについ

て触れられている。
こうした軍紀の乱れは「遊兵」と呼ばれるどの部隊にも属さない兵を

生み出し、日本軍の組織的戦闘能力の減耗を加速させた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84