本日は豊平川のほど近くにたたずむ小さな美術館「HOKUBU記念絵画館」で開催中の2024年展覧会vol.03「伝統とつながった幸福のかたち」鑑賞です。連続開催シリーズ「幸福を考える」としての企画で清水遠流(木版画)、中村美穂(木版画)、平林孝央(油絵)などの作品が展示されています。アクセスは地下鉄東豊線「学園前」から北へ徒歩5分ほどで「中の島通」と「菊水・旭山公園通」に挟まれた住宅街の中にあります(地図)。
「HOKUBU記念絵画館」の外観と2024年展覧会vol.03「伝統とつながった幸福のかたち」のフライヤー。会期は5月23日(木)~6月23日(日)で木・金・土・日曜日が開館日です。
日本人にとって年中の行事は何よりも楽しいイベントです。その行事とともに、竹馬、手、凧上げなどといった郷土的な遊戯が、大人から子供へと伝承されていきました。それらは大人にとっては日常の労働からの慰安の時であり、子供にとっては終わった後の寂しさや名残惜しさなど、心に深く刻みつけるものでした。それは現実的な目的を持つものではない遊びですが、日本をはじめとしたアジアの民族はその遊びを通して伝統と接触することで、四季の変化にも敏感になったと言えるかもしれません。十五夜を見上げて苗を鳴らし、竹とんぼを秋の風にのせて飛ばし、色づいたほおづきを膨らませる。その体験の中に刻みつけられた、忘れ得ぬ伝統の風景こそが、美意識の形成の根底にあるものだと言えます。磁石が北を指すように、我々の心は伝統に向いています。
我々は乳飲み児のように伝統を必要としています。誰も人間的なふるまいのおのずから生じた共同体から伝統を排除したり、当然のように長い歴史を持つ生活のおいたちから自然を取り上げたりはできません。狩猟時代と違って、農耕時代の生活は刺激や興奮の少ないものでしたが、その単調な毎日からの逃避である四季の変化に根付いた伝統的な節句に、普段は物静かな農耕民族は熱狂したのです。それは生活の折り目に見られる行事や、それに応じた衣装などでも同じです。自然とつながった伝統とは、人と人とが手を取り合って生きる術を再確認する場です(館長解説より、以下同じ)。
【清水遠流(3F展示室)】
清水遠流は、北国の長い降雪期や、自然の移ろいと人々の営みを、一途に描き続けた版画家です。厚い唇を固く結び、子供を抱えて吹雪の中を歩く老人など、彼の木版画は、人間味溢れる感情が、力強く再現されています。
そして、胸や竹馬に興ずる子供たちの自然な姿からは、一緒に暮らした親しい人達をたえず思い出させ、その場に漂う幸福さえも蘇らせるようです。
清水遠流《スキー》33.5×25㎝木版画
清水遠流《たばこ屋の店先》46×61㎝木版画
清水遠流《日暮れ》45×30.5㎝木版画
【中村美穂(2F展示室)】
中村美穂は文明と自然とがバランスを取るような形で成長し、発展していく姿を記憶にとどめようとする作家です。うららかな日差しに輝くのどかな映像は、作家の目線と都市の移ろいに対する感情が一体となって画面に漂います。それは、そこには「保存」 と「更新」が対立するのではなく、一体となった共同体としての姿があり、土地の風土にしっかりと根付いた共存の姿があります。彼女の作品は、ある場所や、固有の風土によって、人の心に振動を与え、共感することが、心の支えになることを証明するものです。
中村美穂《光の向こう側》83×107㎝木版画
中村美穂《花笑う》10×12㎝木版画
中村美穂《健やかな風》56.5×74㎝木版画。
以上2人の木版画は『古い秩序や自然の栄養を守ろうとする姿勢』から『幸福のかたち』を考える世界のようでした。少しピント外れですがこんなことを思い出しました。現役時代に仕事の関係でミャンマーに何度か行きました。通訳ガイドの方に案内いただき仏教寺院を見学したときのことです。大きな仏像は敬虔な仏教徒のミャンマーの人達が寄進し貼り付けた金箔でピカピカです。思わず“剥がして盗まれたりしないのですか?”と聞くとガイドさんに“ミャンマーにはそんな悪い人はいません!!”と叱られました。確かに当時は民主化の過程で街中や人々の表情に貧しいながらも皆で豊かになるぞ!という活気と輝きを感じたものです。昔ながらの日本が残っているのでミャンマーが大好きになるという日本人が多いと聞いたのも何となく判る気がしました。
続く1階の各展示室は作家が自らが言う『不思議な世界の少女像を描いた』展示です。現実ではない世界に 『幸福のかたち』を考える作品群です。
【平林孝央(1F ラウンジ、研究室、収蔵庫G)】
平林孝央は道祖神をテーマにして作品を作っています。道祖神とは道の辻にある守護神のような存在です。それが実態を欠いた幻想に過ぎないものだとしても、画家はその雰囲気を巧みに捉えているようです。
例えば作中に自ずと表れるのは異世界と現実との境界線です。それはあの世とこの世であり、彼岸と此岸ともいう、宗教や言語が違っても分かり合える可能性を持った生と死の概念です。その意味では独特の女性像は人生の夢物語にも似た儚さを象徴しているように思えます。それは永遠に躍動する世界との対比でもあります。
平林孝央《湛》45.5×27.3㎝❘油彩。
平林孝央《胎動-φ-膨》53×33.3㎝❘油彩。
平林孝央《岐路1810‐1》53×33.3㎝❘油彩。各作品とも作家は背景がその世界観を表すように、モデルの顔をあえて無表情にしているそうです。
平林孝央《岐路1810‐1》53×33.3㎝❘油彩。
平林孝央《後戸(胎動-φ-模造品- )》162×86.5㎝❘油彩。
解説を読んで絵を観賞していると上掲の作品は照明のせいかも知れませんが描かれた女性たちが死者を天上にいざなう天使に見えてきました。今回は1階➡3階、3階➡1階へと繰り返し見たのですが1階から3階に来て『昔は良かった!』と郷愁を感じるか、3階から1階へ周って『今の現実社会で生きていくしかないか?』と気概を新たにするか好みのような気がしました。年寄りには前者が良いのかも・・そんな本日の鑑賞でした。ありがとうございます。
(2024.6.5)