わたしんちの医学革命と雑多な情報

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岡田茂吉医学論基礎編3

2020年09月04日 | 岡田茂吉医学論研究会用

 

 

 

 

 病気と医学

 


 前に説明したように、今日は本当の文明世界でなくて野蛮であります。私はその原因として戦争と病気の二つの苦しみを挙げましたが、その外に今一つ貧乏があります。しかしこれは戦争と病気とが解決出来れば自然に解決されるものでありますから書きませんが 先ず戦争の原因から説明してみますと、これはもちろん精神的欠陥、つまり心の病気でありますので、これも肉体の病気さえ解決出来れば一緒に解決されるものであります。

 

 右のように、病気も戦争も貧乏も同じ原因でありますから、本当の健康人つまり霊肉(れいにく=精神と肉体)共に完全な人間を作ればいいのであります。しかしこう言えば至極簡単のようでありますが、実はこれが簡単でないという事は誰でもお判りになる事でしょう。しかし私から言えば決してではありません。何故ならば必ず解決出来るだけの方法を大自然から教えて頂いているからでありますし、この事を実行するのが私の使命でありまして、その実行の第一段階がこの本を書く事であります。

 

 従いまして先ず病気というものから書いてみますが、病といいましても前に説明しました通り、肉体と精神との両方でありますが、現代人は、普通病と言いますと、肉体だけのものと思っている処に間違いがありますので、この精神の不健康者こそが戦争の原因となるのであります。そんな訳で、どうしても人間が肉体と精神との両方が健康にならない限りは、本当の文明世界は決して出来上がらない訳であります。

ではどうすればそれが実現できるのかといいますと、それにはもちろんその根本が解りますと共に実現の出来る方法も発見されなければなりません。ところが私はそれに就いての根本的な原理を発見してその上に絶対的解決の方法迄も掴むことが出来ましたので、それを詳しく、しかも徹底的にかくのであります。

 

 それに就きましては先ず吾々の住んでいるこの地上の実際の状態を説明しますと、もともとこの地上の状態は今日迄の学問では目に見える物質だけの存在であるとされていまして、それ以外は無いとされて来たのであります。

しかしその考え方こそ非常な間違いでありまして、無どころではなく、人類にとりましてこれ程重要なものはないという程のものが確実に存在しているという事であります。


ところが、そういう事がなぜ今日迄分かっていなかったのかといいますと、全く唯物科学だけに頼ってきた結果でありますからで、つまり唯物科学の説明では、見えないものは無いと決めていました以上、これ程進歩したと思われます唯物科学でも掴むことが出来なかったのであります。

 

こんな具合で唯物科学で判らないものは全て無いものであるとしてしまったのです。

その一方的な考え方こそが、学者の頭脳(あたま)の強情な考え方の結果であります。これに就きましては多くを言う必要はない程、人類の幸福が文化の進歩と一致していないという事実であります。その事に就きましてこれから説明してみましよう。

 

 色々と説明したように、精神と肉体との両方共完全な人間を作るのが本当の医学であるとすれば、現代医学は果たして目的通りに進んでいるでしょうかという事を調べて見ますと、

現代医学はまるっきり目的とは逆になっているという事実でありまして、目的とは反対にむしろ病気を作り病人を増やしていると言っても言い過ぎでない程の間違いを犯しているのであります。

 

それをこれから詳しくかいてみますが、先ず医学というものの今日までの根本的に間違った考え方であります。

と申しますのは医学は病気の原因が全然分かっていないのですから、すべてを反対に解釈しているのです。

目に見えるものだけを認めるという唯物科学本位に進んで来たものでありますから仕方がないとも言えましょう。

 


 右の結果、医学は病気の場合、外部に現れた苦痛を楽にすることだけを目的としています。従いまして医学の進歩とは一時的の苦痛緩和法の進歩したものでありまして、その方法として採られているものが彼の薬剤、機械、放射能等の物質の応用であります。

 

なるほどこれによって病気の苦痛は楽になりますので、これで病気が治るものと間達えて緩和法を続行するのですが、事実は苦痛の楽になる事と病気の治る事とは根本的に違うのであります。

 

つまり前者は一時的であり後者は永久的であるからです。しかもその苦痛緩和法それそのものが病を作り病を悪化させる結果となるのでありますから、問題は大きいということであります。

 

何しろ唯物的医学でありますから、人間の体も単なる物質とみるばかりか人間と人間以外の動物をも同じように見るのであります。その為に動物を研究資料として病気の原理を発見しようとして、時々何らかの効果が出ますと直ぐに人間に応用するのでありますが、これが非常な間違いであります。

何故ならば、人間と動物とは形も本質も内容も全く異なっていることで、これに気が付かないのであります。この原理から人間の病気は人間を相手として研究されなければならないことは余りにも明らかなことでありまして、これ以外に人間の病気を治す医学の確立はない筈であります。

 

 そうして今一つこういう事も知らなければなりません。それは動物には人間のような神経作用はありませんが、人間には大いにあるという事です。人間は神経作用の為にどのくらい病気に影響を与えるか分かりません。例えば一度結核と宣告されますと、この一言で患者の神経は大打撃を受けまして目に見えて衰えるという事実は医者も一般人もよく知っている処でしょう。ところが動物にはそういう事が全然ないことからみても判ることでしょう。

 

 以上のように見て来ますと、現代医学の間違いは霊と体とで出来上がっている人間を、霊を無視して、体だけを相手にするという事と、人間と動物とを同じに見ているという事で、これが間違いの重要点である事を知らなければなりません。

 

 

   医学の解剖

 

 私は前の項迄に医学の間違いを大体かいたつもりですが、なお進んでこれから鋭いメスを入れて徹底的に解剖してみましょう。と言いましても別に医学を悪く言う考えは少しもありません。ただ間違いは間違いとして、本当の事をそのまま言うだけの事でありますから、あっさりした楽な気持ちで読んで頂き度いのであります。

 

 それには先ず実際の例を挙げまして説明する方が早いでしょう。先ず何よりも医師が患者からその病気について質問された場合、断定的な答えはしません。大変いい加減のその場限りの答えであります。例えば患者に対する言葉でありますが、何の病気に就いても言い切る事が出来ません。

「貴方の病気は治ると思います。」「治る訳であります。」「医学上そういう事になっています。」「この療法が効果があるとされています。」「この療法以外の方法はありません。」「養生次第で治らない事はありません。」「貴方の病気は万人に一人しかありません。」などと言うかと思えば、「貴方は入院しなければいけません。」と言われるので、患者は「入院すれば治りますか?」と訊ねると「それは請け合えません」というように、実に掴つかまえどころのない言葉であります。又、予想と実際と違う事が多いということも医者は知っているでしょう。

 

 そうして最初の診察の場合、一応、打診、聴診、呼吸計、体温計、レントゲン写真、血沈測定、注射反応、顕微鏡検査等々と機械的種々な方法を行いますが、本当に医学が科学的であるとすれば、それだけで病気は確実に判る筈であります。

処が、両親や兄弟の死因から祖父母、曽祖父母に迄及びますのはもちろん、本人に対しても病歴、既往症等、こと細かにわたって質問するのであります。これも間違いないようにと注意をするからのことでしょうが、実をいうと余りにも科学性が少ないと言えましょう。

 

ところがそれまでしても予想通りに治らないという事は、全く診断が確実でないのか、又は治療法が間違っているのか、あるいは両方かでありましょう。

 

事実本当に治るものは恐らく百人中十人も難しいかも知れません。何故ならば仮に治ったようでも、それは一時的でありまして安心できません。そのほとんどは再発するか又は他の病気となって現われるかで、本当に治るものは果して幾人あるでしょうか。疑問であります。この事実は私が言う迄もありません。医師諸君もよく知っている筈であります。

この例としまして主治医という言葉がありますが、もし本当に治るものならばそれで済んでしまうのですから、主治医などの必要はなくなる訳であります。

 

 この事実からも判りますように、

若し病気が本当に医学で治るものでしたなら、段々、病人は減って、医師の失業者が出来、病院は閑になり、経営も困難になりますので、病院の売物が続出しなければならない筈でありますのに、事実はおよそ反対であります。

 


何より結核だけについてみましても療養所が足らない、ベッドが足らないと言って、年々悲鳴を上げている現状であります。政府の発表しました結核に関しての予算は、官民合わせてザッと一ケ年に一千億に上るというのでありますから、実に驚くべき数字ではありませんか。これ等に就いてみましても、現代医学の何処かに大きな間違いがなくてはならない筈であります。

にも拘らず、それに気が付かないということは不思議であります。といいますのは全く唯物科学を信じ切って、他の方法を考えないからでありましょう。


(注:当時は結核が第一の死因だった。現代はさらに悪疾かした癌が一位)


 そうして診断に就いてその科学性の有無をかいてみますが、これにも大いに疑わしいものがあります。

例えば一人の患者を数人の医師が診断を下しますが、その結果は区々(まちまち)であります。といいますのは、科学性が乏しいからだと言えましょう。何故ならばもし一定の科学的基準があるならば、その様な事はない筈であります。

もし果たして医学が効果のあるものであるとするならば、何よりも医師の家族は一般人よりも病気が少なく健康であり、医師自身も長生きが出来る筈であります。

ところが事実は一般人と同じどころか不健康者が多いという話で、これは大抵の人は知っているでしょう。しかも医師の家族であります以上、手遅れなどということはないばかりか、治療法も最善を尽くすことはもちろんでしょうから、どう考えても割り切れない話であります。そればかりではありません。医師の家族が病気の場合、その父であり夫である医師が直接診療に当たるのが常識でありますが、友人とか又は他の医師に診せるという事はどうした事でしょうか、これも不思議な事であります。本当から言えば、自分の家族としたら心配で他人に委せる事など出来ない筈であります。


それに就いてよくこういう事を聞きます。自分の家族となるとどうも迷いが出て、診断がつけ難いというのであります。としましたら、全く診断に科学性がないからで、つまり、こうなるだろうという予測が多く手伝うからでしょう。

 

 私は以前某博士の思い出話を聞いた事があります。それは、「なかなか確実に病気は判るものではありません。何よりも大病院で解剖の結果診断と異なる数はちょっと口に出せない程多いという事や、治ると思って施した治療が、思った通りにゆかない処か反って悪化したり、果ては生命迄も危うくなる事がよくあります。こういう場合、どう説明したら患者もその家族も納得して貰えるかを考え、夜も寝られない事さえしばしばありますので、これが一番吾々の悩みであります。」と言いますので、私も成る程と思った事があります。

 

 このように医学が大いに進歩したと言いながら、診断と実際とが余りに食い違うので、医師によっては自分自身あまり医療を信用しないで、精神的に治そうとする人もよくあり、老練の医師ほどそういう傾向があります。


彼の有名な故入沢達吉博士の辞世に「効かずとは思えど これも義理なれば 人に服ませし薬 吾服む」という歌は有名な話であります。

(注;入澤達吉博士 生年月日:1865年1月5日
明治時代;大正時代の医学者。東京帝国大学教授;宮内省侍医頭~大正天皇侍医 1938年没 )

 

また、私のじっこんの医博でありますが、時々、自分及び家族が病気になった場合自分の手で治らないと私の処へよく来ますが、すぐに治してあげますので喜んでいます。

 

 以前有名な某大学教授の医博でありましたが、自分の神経痛も令嬢の肺患も私が短期間で治してあげた処、大いに感激して、医師を辞めて本療法に転向させようと極力勧めましたが、地位や名誉、経済上などの関係から決心がつかず、今でもそのままになっている人もあります。もう一つこういう面白い事がありました。

 

 十数年前、ある大実業家の夫人で顔面神経麻痺の為、ふた目と見られない醜い顔となりましたのを頼まれて往った事があります。その時私は何にも手当をしてはいけない、と注意しました処、家族の者が余り五月蝿いので某大病院へ診断だけに行きましたが、その際懇意である某病院の医長である有名な某博士に面会した処、その医博が言うことには「その病気二年も放っておけば自然に治りますよ。だから電気なんかかけてはいけませんよ。ここの病院でも奨めやしませんでしたか」と言われましたので「おっしゃる通り奨められましたが、私はお断りしました」と言いますと「それはよかった」という話を聞きました。私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事がありました。その夫人は二カ月程で全快しました。

 

 さて、いよいよ医学の間違いに就いて解説に取りかかりましょう。

   

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