Don’t Dilly Dally

Maybe I’m a wanderer

伊豆七不思議をめぐる

2025-03-18 18:10:44 | 滞在記(6/2024~)

伊豆七不思議というものがあります。私がそれに興味を持ったのは今年の初詣で大瀬神社に行ったときに出会った不思議な池、「神池」がきっかけでした。そんな伊豆七不思議を数日かけてさらっと順番にまわってみました。

【大瀬神社の神池】

神池は、海からもっとも近いところでは20メートルほどだというのに淡水を保っている不思議な池です。

静寂そのもの。

神社についてはこちらから。

『海の神に詣でる』

【石廊崎権現の帆柱】

伊豆半島の先端にある石室神社に江戸時代から伝わる伝説です。Wikipediaによると、海面から30メートル以上の断崖絶壁の上に石室社殿が千石船の帆柱を枕に建てられており、きちんと奉納すれば船は進み、奉納を忘れると暴風雨などで船が進まなくなるとかなんとか。

画像右側に見えるのが社殿です。

社殿から海側を見たのがこちら。

この先にお社があります。ちなみにこちらは縁結びの神様でもあり、一緒に行った友人はある相手を思い描いてお参りをしていました。その後、その相手と結ばれはしたのですが、友人側から交際をお断りしていたので、ご利益があるのかないのかちょっと判断しかねます。

社殿はこのような感じで趣があります。

この神社で引いたおみくじの内容がとても気に入ったので、私はそれを信じてこの一年を過ごすことに決めました。(笑)

【堂ヶ島のゆるぎ橋】

西伊豆の堂ヶ島に伝わる民話的伝承です。

簡単に説明をすると、海賊が大暴れをして村を襲っていた時代のこと。海賊が村の薬師堂に続く橋を渡ろうとしたら大地震のように橋が大きく揺れて、海賊頭はそのまま薬師様の前に差し出されてしまいました。薬師様に諭されたのか、薬師様のお姿を見て勝手に改心したのか、とにかく海賊頭は心を改め薬師様に支えると誓ったそうです。

それ以来、心の汚れた人間が橋を渡ろうとすると揺れるようになり『ゆるぎ橋』と呼ばれるようになったとか。今はその橋も薬師堂もなく石碑だけがポツンと遺されています。

下にチョロチョロと水が流れており、その先にあるこちらの洞窟のほうが神秘的だと思ってしまうのは私だけでしょうか。

この洞穴の向こうは伊豆の海が広がっています。この神秘的な雰囲気は、たとえ薬師堂が存在しなくても、今も変わらず薬師様に守られている土地だということなのかもしれません。

【手石の阿弥陀三尊】

南伊豆にある阿弥陀窟にまつわる江戸時代から伝わる伝説です。

この伝説そのものには諸説あるようですが、この阿弥陀窟は国の天然記念物に指定されています。波の静かな晴天の日の正午頃、この洞窟に小船で入ると、暗闇の中に金色に輝く三体の仏像が現れると言われているのですが、実際には洞窟の奥の光の加減で洞内の岸壁の凸部を照らすことによって、あたかも暗闇の中に金色の阿弥陀像のように見えるものと考えられているそうです。

だいたいこのあたりにあるはずなのですが、海からでないと行けず、しかもカヌーのような小型の乗り物でないと入れない場所のようです。さらに波の静かな晴天の日の正午頃というかなりなピンポイント。もはやそのほうがよっぽど七不思議です。

上の画像の右奥あたりが阿弥陀窟のはずですが、私がそこへ辿り着けることはおそらく一生ないでしょう。

関係ないのですが、こちらは近くにあったトンネルです。なかなか味のあるトンネルなので思わずパチリ。

【修善寺の独鈷の湯】

有名な独鈷の湯も伊豆の七不思議に入っています。

空海(弘法大師)が修善寺を訪れたとき、川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その孝行に感心した大師は、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷秤で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させ、大師が温泉が疾病に効くことを説き、父子は病を完治させることができたという伝承が残っています。これよりこの地方に湯治療養が広まり、修善寺温泉が始まったと言われています。

以前は入浴可能だったように記憶してますが、さすがに今は風紀の問題なのか入れなくなっています。公衆わいせつ罪に該当してしまうのでしょうか。まあ観光地のど真ん中でスッポンポンの人なんて見たくないですけど。

【函南のこだま石】

函南の山中にある大きな石にまつわる伝説です。

おくらと与一という貧しい母子がおりました。おくらと与一はこの大きな岩で一休みをすることが多かったそうです。おくらが病に倒れてあの世へ逝ってしまったのを悲しんだ与一は、おくらといつも語りあっていたこの岩に向かって母親を呼び続けました。すると、岩から「与一〜、与一〜」と母の声が聞こえてきたそうです。与一は母の声を聞くためにこの岩に通い続け、それを見た村人たちが『こだま石』と呼ぶようになったとか。

たぶんこの石なのですが、あまり自信がありません。

もし違う石だったらゴメンナサイ。とても辺鄙なところにあるので、この石だということにしてこの日は帰宅しました。(笑)

【河津の鳥精進酒精進】

河津の来宮神社の氏子に伝わる風習です。

伝承に由来して、河津では命が災難にあったとされる12月18日から12月23日まで

・鳥を食べない

・卵も食べない

・お酒を飲まない

という「鳥精進酒精進」が守られており、この禁を破ると火の災いに遭うと信じられています。今でも給食のメニューから鶏肉・卵が外されるなど風習が守られているそうです。

ところで、河津といえは河津桜も有名なので最後はこちらで。

こちらが河津桜の原木とされています。

河津桜は濃いピンク色が特徴で毎年バレンタインの頃に咲き乱れ、菜の花の黄色とのコントラストを楽しませてくれます。ソメイヨシノも美しいですが、河津桜の可愛いピンク色もまた心を和ませてくれます。

春ですね。

 


夜の灯りと海

2025-03-14 06:12:14 | 滞在記(6/2024~)

先日、ドライブを兼ねて夜景を見に行きました。

この土地とも残すところ3ヶ月を切りました。その後はアメリカで2ヶ月を過ごし、帰国後はまたどこかは他の土地に行く予定です。しかし、この土地とも離れがたく、この土地に愛着すら感じ始めています。

アメリカの彼と小さな家を購入する話も出たのですが、気に入った物件は条件の折り合いがつかずに断念。そもそも売りに出ていない物件の交渉だったので仕方ない話ですが。

この夜景を見たとき、まるで自分の心の状態を映し出す鏡のように思えました。と言うと誤解を招きそうですが、自分の心が美しいという意味ではなく、この夜景を見たときに未知なることへの期待と不安を感じとりました。

自分の内面を正しく理解することで、人生の新たな展開が見えてくるのかもしれません。

私の今の内面を言葉に表すとしたら、

・精神的な成長

・旅立ちの期待と不安

・人生の転換期

自分が成熟していく過程を実感してはいるのですが、波のように揺れ動く状態でもあります。これも実は成長の証なのでしょう。日々の経験を通じて、着実に前進していることも事実。

と、ウンチクを述べていますが、要はblogの更新が滞っていたことへの言い訳です。(笑)

穏やかな夜の灯りと海。これまでの経験を通じて得た知識が、私を支えてくれるはず。内なる力が充実してきたときこそ、旅立ちのときです。

 


元気になれる映画 #02

2025-03-02 06:31:06 | 映画

バタバタと忙しい日々を過ごして、気がつけば3月です。

すっかりブログの更新も途絶えていましたが、忙しい日々の中で就寝前や食事中に繰り返し流していた映画があります。それがこの映画『ナイアド ~その決意は海を超える ~』です。

ご存知の方も多いこの映画は、64歳でフロリダ海峡を泳いで渡るという偉業を成し遂げたスイマー、ダイアナ・ナイアドの実話です。

マラソンスイマーを引退して約30年が経ったダイアナ・ナイアド。60歳を迎えた彼女は、ずっと思い続けていたひとつの挑戦、フロリダ海峡の横断に挑みます。フロリダ海峡にはサメや毒クラゲ、激しい湾流など最難関とされ、そこを泳ぎ切るには想像を絶する困難を乗り越えなければなりません。しかし、それでも世界初の称号をかけ、サメよけのケージも使わずに泳ぎ切ることを決意したダイアナ。親友でありコーチでもあるボニーらと共に4年に及ぶ波乱に満ちた挑戦に乗り出します。

この映画の素晴らしいところは、もちろん60歳を過ぎたダイアナが果敢に目標に挑む姿にも感動しますが、実在の主人公ダイアナと彼女の親友ボニーとの友情、そして彼女の夢の実現を助ける航海士たちの熱意ではないでしょうか。

失敗を繰り返しながら何度も挑むダイアナ。自分の夢にひたすら挑むダイアナは一見自己中心的なようにも映りますが、その夢は関係者みんなの夢になっていきます。

そして青い青い海。泳ぐダイアナの姿とそれを船上で見守る仲間たち。



アネット・ベニングがダイアナを演じ、ボニー役をジョディ・フォスターが演じているのですが、この二人の掛け合いも本当に素敵で羨ましくなりました。本音をぶつけ合える友達。強さも見せれば弱さもさらけ出します。

傷ついた過去を持つダイアナ。「あなたは泳いでも泳いでなくても強いわ」と肩を抱く親友のボニー。

この2人の友情の素晴らしさに感動しつつ、私が目が離せなくなってしまったのは南国風のインテリアとボニーのカジュアルなファッション。

ジョディ・フォスターは、アカデミー主演女優賞を受賞した『告発のゆくえ』の頃から大好きで、若い頃からずっと憧れの女性です。

60代とは思えない締まった体つきを見て、背筋を正されたような気分になりました。とはいえ、なかなか彼女のようにトレーニングにまで辿り着けないのが実情ですが…。

映画の中で、「私にもやりたいことはあるのよ」とダイアナとの言い争いのなかで言うボニー。「それは何?」とダイアナに訊かれて、「I don't know.」と答える場面があります。誰かの夢が、いつしか自分の夢となり、そしてその夢を叶えるべく共に挑む。そんな〝誰か〟に出会えたことはボニーにとって幸運なことで、またダイアナにとっても理解者であるボニーに出会えたことはやはり幸運なことではないでしょうか

いまの職場も残すところ3ヶ月。それを思うと、やはり寂しい気持ちも強く、「戻ってこい」という職場の方々の有難いお言葉に揺れ動いてしまいます。家の購入を検討しましたが、金額の折り合いがつかず断念。6月7月はアメリカに滞在予定ですが、帰国後自分がどこの土地にいるのか自分でもわかりません。しかし、今の職場での経験はこの先も絶対に忘れることはないでしょう。

この映画の人間関係とは少し違いますが、それでも素晴らしい指導者(板前達)に出会えたこと、心から感謝します。

 


難しい問題

2025-02-12 11:53:47 | 滞在記(6/2024~)

ちょっと難しい問題に巻き込まれています。

先日、ある女性から「セクハラの被害に遭っている」と相談を受けました。私は相手の男性も知っており、二人が仲良く話しているのを何度も目撃していました。だから私は単に〝仲良し〟なのだと思っていました。

男性は50代後半の既婚者、女性は40代前半で二度の離婚経験があり現在は別の男性と暮らしています。言うなればどちらも大人なわけです。私の目から見れば、この被害を訴えている女性は男性に対して態度の変わる典型的な〝女〟で、相手の男性もそれが満更ではない様子でした。正直私は「この二人はそのうち行くところまで行くのではないか」と密かに思っていたくらいです。

状況が大きく変わったのは先月のこと。その男性主催の飲み会が開かれることになったのですが、その男性はその女性を呼ばなかったのです。しかし私は「ははーん、すでに二人で密会しているから飲み会にわざわざ呼ぶ必要がないのだな」と勝手に妄想していました。

しかし私の妄想は間違っていました。誘われなかった女性のプライドは大いに傷つき、それが怒りと変わり、「私は前々からあの男性からセクハラを受けている」と言い始めたのです。

「え?あれだけ仲良くしていて、こう言ってはなんだけれど媚びを売っておいて、今更セクハラはないでしょー」というのが私の率直な意見でした。ですから「自分の態度をまず改めたほうがいい。嫌がっているようには私には見えない」と正直に本人に告げました。

本人曰く、「態度に出すと相手の機嫌が悪くなるから出せない」と言います。実際の被害内容も聞いたのですが、「え?その程度?」と思ってしまうのは私が50を過ぎたオバサンだからでしょうか。

そして昨日、ここはもう相手の男性本人の耳に入れておこうと思い、私は全てを相手の男性に話しました。髪や手に触れたのは事実のようでしたが、「ふざけてもいたし、本人も嫌がっていなかった」と驚きを隠せない様子でした。

今回の件で、あらためてハラスメントの見極めの難しさを思い知りました。厳しい指導はパワハラになりますが、厳しいと感じる度合いは人それぞれ違います。セクハラにも言えることで、何を持ってセクハラと言うのでしょう。

今回の場合、当事者の女性はそのときは嫌がっていなかったはずです。しかし自分の面白くない状況になったのでセクハラを持ち出した、としか私には思えません。そうなると、この男性は今後どのように対応していけば良いのでしょう。

ハラスメントという言葉で相手を攻撃し、自分をプロテクトして、その結果として何を得ることができるのか。とても疑問です。


初恋ではないけれど

2025-02-02 07:23:39 | 雑記

バタバタと一月が終わり、気がつけば二月を迎えてしまいました。

二月といえばバレンタイン。初恋ではないけれど、幼なじみの男の子M君のことを思い出しました。実家があった辺りにも当時は畑がまだ少し残っていました。畑を挟んだ向こう側に二軒の家の建築が始まりました。当時の私は小学校3年生。ひょっとするまだ2年生だったかもしれません。私はその家が出来上がっていく様子を毎日眺めていました。

ちなみにこちらの画像は横浜の異人館。

私の実家は決してこのようにお洒落な家ではありませんでしたが、数年前に訪れたとき、このレトロな雰囲気から当時の記憶がよみがえりました。ある夕暮れ迫る頃、父が帰宅しました。

私は父に「お帰りなさい」と言い、「あの家の職人さんたちもさっき帰って行ったよ」と窓から見える畑の向こう側の建築中の家を指差しました。そして父に訊ねてみました。「どんな人たちが引っ越してくるのかな?」

私は新しいご近所さんが増えることにワクワクしていたのです。自身も建築職人だった父は窓から建築中の家を眺めると、「上に三部屋ある。子供が2人いるか、もしくはその予定か、そんなところだろう」と答えました。

「どうしてわかるの?」

「柱を見ればわかる」

「下の方が柱がいっぱいあるね」

「どの家もそうだよ。下の方が柱がいっぱいあるんだ」

「下の方が部屋がいっぱいあるように見える」

「台所と、風呂場だろ」

そんな会話をしながら、窓から建築中の家を父と並んでしばらく眺めていました。

「この辺りに子供が増えるね!」と私が勝手に想像を膨らませて喜んでいると、「子供の年齢にもよるけどな」と父が笑いました。

いよいよそのニ軒が完成し、そのうちの一軒であるオレンジの屋根の家に引っ越してきたのがM君でした。

M君が転校してくる前日のこと。やはり夕暮れ時に帰宅した父が鼻歌まじりに母と楽しそうに話していたので、不思議に思った私は「どうしたの?」と声をかけてみました。すると母が笑顔で答えました。

「お父さん、男の子に声をかけられたんですって」

男児を待望していた父ですが、残念ながら生まれてきた子供は続けて女の子。さらに父は子供が話しかけやすい雰囲気では決してなかったので、子供のほうから話しかけてくるなんてとても珍しいことでした。

手を洗う父に、「だからあなた、嬉しそうなのね」と母も嬉しそうに話していました。そして手を洗い終えた父が私に言いました。

「あのオレンジの屋根の家に引っ越してきたらしいぞ。明日から学校だって言ってた。自分から名前を教えてくれたけど、ちょっと変わった苗字の子だったな。こちらの名前も聞かれたから〝おじさんの娘は〇〇だよ〟ってお前の名前を教えておいたよ」

翌日、休み時間に一人でポツンと席に座っていた転校生の少年に声をかけてみました。

「昨日うちのお父さんと話したでしょ?」

するとその少年はキョトンと私の顔を眺めてから、次に私の名札を見て、

「あ!昨日の〇〇さんの子供なの?そーだ!子供の名前は〇〇だって言ってた!今日一緒に帰ろう!明日も一緒に学校に来よ!」

なんとまあ素直で明るいこと。それがM君との出会いでした。

転校初日、学校から帰るとM君とM君のお母さんが我が家へ挨拶に来てくれました。

「M君ね、今日は男の子のお友達が出来なかったんですって。あなたと仲の良い男の子のお友達を誰か紹介してあげたら?」と私の母。

「いいよ!」と私がM君を連れて行ったのはワンパク坊主でガキ大将だったH。すぐに2人は仲良しになり、学校の行き帰りも、下校後の遊びもいつも一緒。女の子と登校している私を後ろから追いかけて来て「おはよう!」とスカートめくりをして駆け抜けていくガキ大将のH。「やめてよ!」と怒る私。Hの後ろを追いかけるように駆けてきたM君が立ち止まって「おはよう」と笑顔を見せ、再びHを追いかけていくというのがこの頃の朝の日課。

私が小学校5年生のときに父は病に倒れ、建築職人の生活に別れを告げて、入退院を繰り返しながら自宅で闘病生活に入りました。その頃は、私とM君はクラスも離れ、お互いの家を行き来することもなくなっていました。

ある冬の日。父が母に話していました。

「あの子を見かけたよ。すっかり大きくなってた」

「そりゃそうよ。この子(私のこと)と同い年ですもの。あの子だって来年は中学生になるんだから」

「あのこももう中学生か…。俺のこと、まったく覚えてないみたいだったよ」

父が少し寂しそうに笑うと、

「仕方ないわよ。大人にとっての3年はあっという間だけど、子供は3年で一気に大きくなるんだから」と母が優しく父に微笑みかけていました。

さらに3年が経過し、再びM君と同じクラスになりました。すでに二人とも中学校3年生。生意気盛りといえど、M君の素直さは変わらず、思い出話に花が咲く日々。M君の隣の家のお兄さんが私の家庭教師だったこともあり、再び私たちの距離は縮まりました。

高校受験が近づき、進路を迷っていたときにM君が真剣な眼差しで私に言いました。

「同じ高校に行こうよ」

その言葉を聞き、そしていつもと違うM君の眼差しを見て、私はなぜか涙が出そうになりました。しかし、やはりなぜか担任の教師は同じ高校を受験することに猛反対。

ある晩、父と母が話していました。

「いいじゃないか。S高校を受験させてやれよ。あの子だろう?〝同じ高校に行こう〟なんてなかなか言えるものじゃないぞ」と微笑む父。

「無理よ。いくらお願いしても担任の先生が願書にサインしてくれないわよ」とため息をつく母。

結局、私たちは別の高校に進み、向こうからの歩み寄りがあったにもかかわらず、私はM君を遠ざけてしまいました。素直なM君の思いに逃げ腰になり、自分の恋心を認めようとせず、私はそのままM君の存在を封印してしまったのです。

それからおよそ30年後、横浜の異人館で『ある男の子の部屋』を見たとき、M君のことを思い出し無性に会いたくなりました。M君の名前を検索してみると、Facebookですぐに見つけることができました。

そして悩みに悩み、思い切って「私のこと憶えてる?」とメールをしてみました。すると「もちろんだよ!」と即返信があり、お互いの近況報告を終えると「こんど会おうよ!」と相変わらず屈託のないM君。

いくら幼なじみといえど、既婚者のM君とまさか2人でいきなり会うわけにもいかないので、M君のご両親と奥様を交えての30年ぶりの再会。うちの両親が生きていたらどんなに喜んだだろうと心の底から思ってしまいました。父とM君を再会させてあげられなかったのが本当に残念です。

頻繁に会うことはなくなったけれど、M君とは今でも友達です。ついでにワンパク坊主のHともFacebookの繋がりで再会して、今も当時と同様にHは私にとって頼もしい存在。「俺は〝ついで〟かよ」というHの声が聞こえてきそうだけれど。(笑)