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浦上玉堂

2011年06月12日 07時14分06秒 | パソコン

(1745-1820)

江戸後期の南画家。名は考弼(こうひつ)、字(あざな)は君輔、通称を兵右衛門といい、穆斎(ぼくさい)玉堂と号した。岡山藩の支藩鴨方(かもがた)池田藩士の家に生まれ、7歳で父を亡くし跡目を相続。玉堂は主君池田政香(まさか)を敬愛し、その夭折(ようせつ)(1768,25歳)に際しては大きな打撃を受けたといわれる。武士としては大目的にまで上ったが、43歳のときは罷免され閑職についた。学問初め藩校で儒学を学び、江戸詰(1774~75)の際には崎門(きもん)学派の玉田黙翁(たまだもくおう)に師事して朱子学を修めたが、のちには古学や陽明学に接近する。一方、10代のころから七絃琴を学び、江戸詰め際しては多紀藍渓(たきらんけい)についているが、琴は玉堂のもっとも愛するところであった。

1779年(安永8)明(みん)の顧元昭作の琴を手に入れ、のちその銘「玉堂精韻」によって号を玉堂とした。このころより文人墨客との交遊が多くなり、画(え)を描き始めるなど自身の生活の中心も琴や詩文に傾いてゆく。94年(寛政6)、2児春琴、秋琴を伴い、旅先で、突然脱藩。その動機は不明であるが、寛政(かんせい)異学の禁の身に及ブのを避けたためともいわれる。以後、画筆と愛用の琴を携えて諸国を放浪。晩年は京に住んだ。玉堂の画はおもいに独学であり、作品のほとんどが脱藩以後、60,70代に集中している。50代の様式模索期を経て、60代には独自の水墨山水画様式をつくだした。冬の山中を微妙な墨の階調(かいちょう)と繊細な筆致で優愁を込めて描き出した『東雲篩雪図(とううんしせつず)』(国宝)、秋の明るく澄んだ山中をわずかな色彩を添えることによって表現した『山紅於染図(さんこうおせんず)』、また『煙霞帖(えんかじょう)』『鼓琴余事帖』(いずれも重要文化財)など、揺れ動く自らの心象を鋭い詩的感性をもってうたい上げた画面は、近年とみに高い評価を得ている。


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