(小林古径)
(1883-1957)
日本画家明治16年2月11日新潟県に生まれる本名茂。12歳のとき松本楓湖(ふうこ)門したの青木香葩(こうは)に手ほどきを受け、1899年(明治32)に上京して梶田半古(かじたはんこ)に入門した。この年、日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会に『村上義光』が入選、続けて同会に出品して受賞を . . . 本文を読む
(1884-1962)
日本画家。山梨県に生まれる。本名は浩(こう)。号は土筆居、また画蟲斎。1910年(明治43)東京美術学校西洋画科を卒業。初期文展に洋画を出品する一方、読売新聞社に入社して、政治漫画や社会風刺画を描く。その後日本画に転じ、19年(大正8)の第6回院展に『朝の日』 『夕の日』 『霧』の三部作を出品し、21年に日本美術院の同人に推された。翌年渡仏。31年(昭和6)にふたたび渡仏 . . . 本文を読む
(1836-1924)
近代の巨人的日本画家。天保(天保)7年12月19日、京都の法衣商十屋伝兵衛(富岡維釵(これのぶ))の次男として生まれる。名は初めしゅうすけのち道節、さらに百練と改める。字(あざな)は無倦(むけん)。号は初め裕軒(ゆうけん)のちに鉄斎、ほかに鉄崖(てつがい)、鉄道人がある。山本ばいえん(やまもとばいえん)に読み書きを習い、15歳のころ平田篤胤(ひらたあつたね)の門人大国隆正 . . . 本文を読む
川端玉章
(1842-1913)
日本画家。京都の蒔絵師(まさえし)の家に生まれる。本名滝之助。11歳で円山派の中島来章(らいしょう)に師事。また絵論を小田海僊(かいせん)に学んだ。1866年(慶応2)江戸に出、高橋由一(ゆいち)について洋画も学んでいる。82年(明治15)と84年の内国絵画共進会で銅賞を受けて名があがり、89年 . . . 本文を読む
小茂田青樹
略歴
埼玉県川越町(現川越市)に呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。
17歳で上京。当時は川越東京を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速 . . . 本文を読む
奥村土牛
(1889-1990)
日本画家。本名義三。東京・京橋に生まれる。1905年(明治38)梶田半古(かじたはんこ)の門に入り、20年(大正9)同門の先輩小林古径(こけい)の画室に住んでその指導を受ける。23年に日本美術院研究会員となり、翌年初めて院展に出品したが落選、しばらく制作上の迷いが続いた。27年(昭和 . . . 本文を読む
紙本榮一
香山(94m)一帯は香山公園となっている
洞春寺や毛利家墓所、そして瑠璃光寺があるところだ
瑠璃光寺前の駐車場の一面に
紙本榮一の銅像があった
明治から昭和にかけて剣聖と呼ばれた剣道、居合道、杖道の範士である範士とは、大日本武徳会、今の全日 . . . 本文を読む
<瑠璃光寺>
大内家筆頭家老陶氏(陶弘房)の菩提寺で、本尊は陶弘房念持仏の薬師寺如来である。陶氏は大内家筆頭家老で、代々周防国の守護代をつとめた名門の家柄である。この寺は、文明3年(1471)山口市の奥地仁保の地に創建されたものです。当寺は中国三山の一つと言われ、長門の大寧寺、周防の龍文寺と共に江戸末期迄、西日本の僧録司(禅宗の統括、人事)の責務を果た . . . 本文を読む
(1352-1380)
周防・長門ニ国の守護となり、大内氏繁栄の基礎を固める。1360年頃、政庁と館(大内館)を今の龍福寺に移し、憧れた京の都に模して町造りをはじめる。弘世は大内氏中興の祖と呼ばれ、墓は大内御掘の乗福寺にある。 . . . 本文を読む
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