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福沢諭吉

2010年09月04日 02時45分37秒 | パソコン

                福沢諭吉

明治時代の啓蒙(けいもう)思想家、慶応義塾の創立者。天保(てんぽう)5年12月12日、大坂の中津(なかつ)藩蔵屋敷で、13石二人扶持(ぶち)の藩士福沢百助(ひゃくすけ)とお順(じゅん)との間に次男として生まれる。2歳のとき父と死別、母子一家は中津(大分県中津市)へ帰る。母の手一つで育てられたが、彼もまた母をよく助けたという。

1854年(安政1)長崎に蘭学(らんがく)修業に出、翌年大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)塾に入門。1856年兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、洪庵塾に戻り、1858年藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。1859年横浜に遊び蘭学の無力を痛感、英学に転向。よく1860年(万延1)咸臨丸(かんりんまる)に艦長の従僕として乗り込み渡米、1862年(文久2)には幕府遺欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6か国を歴訪、1864年(元治1)に幕臣となる。1866年(慶応2)これら洋行経験をもとに『西洋事情初編』を書き刊行、欧米諸国の歴史・制度の優れた紹介書として洛陽(らくよう)の紙価を高める。1867年幕府遺米使節に随従するが、その際かってに大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3か月の謹慎処分を受ける。

1868年(明治1)4月、これまでの家塾を改革し慶応義塾と称し、「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とする。上野戦争のさかなに彼が経済学の講義をしていたエピソードは有名。この年8月幕臣を辞し、中津藩の扶持も辺上、明治政府からのたびたびの出仕要請も断る。1871年の廃藩置県を歓迎した彼は、国民に何をなすべきかを説く『学問のすずめ初編』(1872刊)を書き、冒頭に「天は人の上に人を造(つく)らず人の下に人を造らずと云(い)へり」という有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876)まで書き続けられ、総発行部数340万といわれるベストセラーとなった。彼はここに啓蒙思想家としての地位を確立した。1873年、当代一流の洋学者たちの結集した明六社(めいろくしゃ)に参加、『明六雑誌』など舞台に文明開化の啓蒙活動を展開。また演説の重要性を指摘し、明六社や義塾で演説会を催した。1874年母死去。翌年『文明論之概略』を刊行、日本文明の停滞性を権力の偏重にあるとし、西洋文明を目的とし自由な交流と競合こそが日本を文明国にすると説いた。本書はわが国最初の文明論の傑作であり、西洋文明を相対化する視点も示した。

そのほか、雑誌『民間雑誌』『家庭叢談(そうだん)』などを刊行して民衆啓蒙に努めるが、しだいにその情熱を失い、1881年の『時時小言』では「天然の自由民権論は正道にして、人為の国権論は権道なり、我輩(わがはい)は権道に従ふ者なり」と宣言し、1885年には「脱亜論」を発表、「亜細亜(アジア)東方の悪友を謝絶する」というに至る。彼は朝鮮の開明派金玉均(きんぎょくきん)らの亡命を保護したりしたが、基本的にはアジア諸国を犠牲にしても日本が欧米列強に伍(ご)していく道を選ぶのである。その間、東京府会議員(1878)、東京学士会院初代会長(1879)、名望家のサロン交詢社(こうじゅんしゃ)の結成(1880)、そして1882年には新聞『時事新報』の創刊に携わる。日清(にっしん)戦争に際しては、文明と野蛮の戦争と断じ、献金運動に奔走。勝利には感涙にむせんだという。晩年には『福翁百話』『福翁自伝』『女大学評論・新女大学』などを著述。明治34年2月3日、脳溢血(のういっけつ)で死去。常光寺(東京都品川区上大崎1丁目)に葬られた。法名大観独立自尊居士。

福沢諭吉については、自由主義者、民主主義者、合理主義者、女性解放論者などの高い評価と西洋崇拝、政府への妥協、一般民衆の非情、権道主義への転向を批判する考えと、その評価はさまざまである。

 

 


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