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美術館(26)

2010年07月02日 05時44分38秒 | パソコン

  

  日本画家。蒔田(まきた)良三郎(質商)の二男として東京浅草に生まれる。本名栄一。のち母方の速水姓を名のる。1908年(明治41)松本楓湖(ふうこ)に入門、10年に巽(たつみ)画会に初めて出品する。翌年今村紫紅(しこう)、安田靭彦(ゆきひこ)らの紅児会に加わり、ことに同門の先輩紫紅の感化を受けて画才を伸ばした。14年(大正3)の日本美術院再興には院友として参加、17年の第4回院展で『洛外(らくがい)六題』が認められて同人に推された。19年に交通事故で左足首を切断するが、不幸にめげず精進し、翌年の院展に細密描写の大作『京の舞妓(まいこ)』を作品している。写実の追究はさらに続き、中国院体画にも注目して主観性を強め、25年の『樹木』『炎舞』にみられる象徴味をたたえる画風を開いた。その後、細密描写を離れ、琳派(りんぱ)にも関心を向け、伝統的な装飾美と西洋近代術の融和を図って苦心を重ねた。『衰苔緑芝(すいたいりよくし)』(1928)、『名樹散椿(めいじゆさんちん)』などがその成果である。30年ローマ日本美術展覧会に美術使節としてイタリアに渡り、ヨーロッパ各地を巡って帰国した。帰国後は表現の単純化を目ざし、『女二題』『花の傍』『青丘婦女抄』『サーカスの少女』などを制作している。チフスのため40歳で急逝。

 


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