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池大雅

2011年04月16日 06時12分13秒 | パソコン

(1723-76)

江戸中期の文人画家。享保(きょうほう)8年5月4日、京都の町人として生まれる。姓は池野、幼名又次郎、通称は秋平。名を耕、勤、無名、字(あざな)を子職、公敏、貸成と変え、号は子井(しせい)、為竜(いりゅう)、葭庵(かあん)、九霞(きゅうか)、九霞山樵(さんしょう)霞樵(かしょう)、大雅、竹居、玉梅、三岳道者などとすこぶる多い。堂号は待賈堂(たいかどう)大雅堂、袖亀堂(しゅうきどう)など。

父池野嘉左衛門(かざえもん)は京都の銀座役人中村氏の下役を務めた富裕な町人であったが、幼いころに死別、教育熱心な母の手で育てられた。数え年7歳のときに早くも宇治万福寺12世紀の杲堂元昶(こうどうげんちょう)からその能書を褒められるなど、神童と評判を得たほどである。絵は初め『八種画譜』などの中国木版画譜を通じて独学、15歳のときには扇絵(おうぎえ)を描いて生計の足しとするなど、若くしてすでに天賊の才能を示している。やがて中国の明(みん)・清(しん)の新しい画法、とりわけ南宗(なんしゅう)画法に傾倒して同好の土と本格的な研鑽(けんさん)を積み、大和(やまと)郡山(こおりやま)藩の文人画家柳沢淇園(やなぎさわきえん)の感化を受けながら、新進の画家として注目されるようになる。

26歳のとき江戸から東北地方に遊んで得意とする指頭画(しとうが)に評判をとり、帰洛(きらく)後さらに北陸地方を遊歴、28歳の1750年(寛延3)には紀州藩に文人画の大家祇園南海(ぎおんなんかい)を訪れるなど、たび重なる遠遊に自然観察を深め、各地の一流の人物と交渉をもち、人格を陶冶(とうや)した。29歳のとき白隠慧鶴(はくいんえかく)に参禅、このころ祇園の歌人百合(ゆり)の娘町(まち)と結婚、真葛(まくず)ヶ原に草庵(そうあん)を結んだ。舶載された中国の画論や画譜、あるいは真偽取り混ぜた中国画蹟(がせき)を通じて独習し、来舶清人伊孚九(いふきゅう)の画法にことに啓発されながら独自の作風を確立した大雅は、30歳代以降、新興の文人画(南画)派の指導者と目されるに十分な目覚ましい活躍期へと入っていく。

大雅の作風は、単に中国の南宗画様式を忠実に模倣したものでなく、桃山以来の障屏画(しょうへきが)をはじめ土佐派や琳派(りんぱ)などの日本の装飾画法、さらには新知見の西洋画の写実的画法までをも主体的に受容し、総合したもので、のびのびと走る柔らかな描線や明るく澄んだ色彩の配合、さらに奥深く広闊(こうかつ)な空間把握をそのよき特徴としている。日本の自然を詩情豊かに写した『陸奥(むつ)奇勝図巻』(1749)や『児島湾真景図』、中国的主題による『山水人物図襖(ふすま)』(国宝、高野山(こうやさん)遍照光院)や『楼閣山水図(岳陽楼・酔翁亭図)屏風(びょうぶ)』(国宝、東京国立博物館)、『瀟湘(しょうしょう)勝概図屏風』などの障屏風、さらに文人画家の本領を発揮した『十便帖(じゅうべんじょう)』(与謝蕪村(よさぶそん)の『十宜帖(じゅうぎじょう)』とともに国宝)、『東山清音帖(とうざんせいいんじょう)』瀟湘八景図扇面画帖)などの小品と、さまざまな主題や形式からなる品格の高い名作を数多く残している。また、おおらかな人柄を伝える俗気ない大雅の書も、江戸時代書道史にひときわ光彩を放つものとして評価が高い。また篆刻(てんこく)家にして画家の高芙蓉(こうふよう)、書家にして画家の韓天寿(かんてんじゅ)ととくに親密に交友し、白山、立山、富士山の三霊山をともに踏破して、その一部の紀行日記とスケッチを残している(三岳紀行)。門下に木村蒹葭堂(けんかどう)、青木夙夜(しゅくや)、野呂介石(のろかいせき)、桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう)らを出し、さらに後進の多くに直接・間接の影響を与えて日本南画の興隆に大きく貢献した。なお妻の町は玉瀾(ぎょくらん)(1728-84)と号し、大雅風の山水画をよくする女流画家として聞こえた。

安永(あんえい)5年4月13日没。池大雅美術館(京都市西京区松尾万石町)は、少年時代から晩年までの作品、関係資料を数多く集め、常時展観している。


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