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マチス

2011年03月05日 20時29分11秒 | パソコン

HenriMatisse

(1869-1954)

フランスの画家。12月31日、北フランスのノール県ル・カトー・カンブレジの母の実家に生まれる。1877年パリに出て法律を学び、翌年、法科資格試験に合格する。しばらくサン・カンタンの法律事務所の書記として働くが、91年、画家を志してふたたびパリに出、アカデミー・ジュリアンに在籍する。翌年G・モローの計らいでエコール・デ・ボザールのモローのアトリエに入る許可を得る。ここにはすでにルオーが学んでおり、さらに未来のフォーブの画家たち、マルケやマンギャンやカモワンもこのアトリエに通うようになる。

1896年、マチスは設立されてまもないソシエテ・ナシオナルのサロンに4点出品、うち1点は国家買上げになるなどかなりの成功を収め、そのままアカデミックな画家としての道を歩むかにみえた。しかしほどなく印象主義的手法を取り入れるようになり、近代絵画の主流に合流し始める。98年には、印象派の画家ピサロの勤めもあり、ロンドンでターナーを研究、ついでコルスカとトゥールーズに半年ずつ滞在して、地中海と南フランスの明るい光の下で制作した。さらに99年に発表されたシニャックのマニフェスト「ウ―ジェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで」がマチスに大きな示唆を与えた。こうして98年から99年にかけて彼は印象主義を消化の結果、1900年前後のマチスの作品は新印象主義的な筆触や色彩の大胆な対比など、一種のフォービスム的様相を呈している。しかし、それも01年ごろにはいったん終息に向かい、ほどなくいわゆる「暗い時代」が始まる。この時期、彼は色彩の問題から離れフォルムに関心を向け、肉づけや構成に意を配るようになる。

マチスがふたたび色彩への道を歩むようになるには、1904年の夏を南フランスのサン・トロぺでシニャックやクロスとともに過ごしてからのことであった。翌年のアンデパンダン展出品作『豪奢(ごうしゃ)・静寂・逸楽』はモザイク状の鮮やかな色彩の単位で構成されており、以前よりもはるかに明快な新印象主義的スタイルを示している。同年夏、彼は南フランスのコリウールに滞在し、新印象主義の規則的な点描を超え、強烈な色彩を並置するフォーブのスタイルへと突き進む。同05年のサロン・ドートンヌはフォ-ビスム誕生の場となるが、彼はこのとき『開かれた窓』 『帽子の女』を出品。赤と緑、オレンジと青を基軸にして多彩な展開をみせる彼の彩色法は、緊張した画面からながら強烈な光を反射するような効果を生み出す。

しかし1907年ごろから、マチスは秩序と均衡のある晴朗な芸術を求めて新たな方向をとり始め、平坦(へいたん)な装飾的スタイルのさまざまな試みを重ねることになる。こうして生まれた『赤のハーモニー』(1908~09)は、フォーブのスタイルに最終的な別れを告げるものである。とはいえ、以前の成果が完全に捨て去られたわけでなく、ロシアの貿易商シチューキンの依頼による装飾画の記念碑的大作『ダンス』 『音楽』(ともに1910)は、フォーブの遺産である激しく豊かな色彩で輝いている。10年代に入ると、幾何学的構成による抽象的・構築的傾向も現れるようになり、そこにはキュビスムの影響とともに、第一次世界大戦による厳しい内省的感情の反映が認められよう。

1917年から30年ごろにかけては、通常「ニース時代」とよばれる。それまでの重苦しさから解き放たれたマチスは、この時期おもに南フランスのニースを制作の場として、優美で官能的なオダリスクをはじめ、いかにもくつろいだ作品を制作。画風は自然主義的なものに戻り、画面もこぶりになるが、そこには「銀色の光」を創出してそのなかにデッサンと色彩を融合しようとする意図が認められる。やがて「ニース時代」の手法から離脱が図られ、光と空間のより抽象的・非物的感覚が求められるようになり、さらに単純化と純粋化が追究される。同時にデッサンと色彩が分離し、両者の葛藤(かっとう)が生まれることにもなるが、それも「色彩でデッサンする」切紙絵によって解消される。晩年のマチスの関心はおもにこの切紙絵に注がれ、有機的かつ抽象的な形態が切り抜かれて、ついては純粋な観念としてのみ存在するイメージにまで到達する。1948年に始まり51年に完成したバンスのロゼール礼拝堂の内部装飾は、聖なる至福の空間を生み出しており、マチス芸術の集大成とも考えられる。54年11月3日、ニースで没。

 


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