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山中城は戦国末期、関東の覇者小田原北条氏が西方に対する防御の要塞として箱根外輪山の西側斜面に築いた城である。山中城は尾根筋を巧みに利用して曲輪を配置し、街道も城域に取り込んでいた。しかし信長の亡き後、天下統一を進める豊臣秀吉は、7万という圧倒的な大軍で4千の城兵が守る山中城を一気に陥落させた。発掘調査で、小田原北条氏が城の要所に施した障子掘の実態が明らかになった。この結果を基に現在、障子堀が復元整備され、小田原北条氏の土造りの築城技術の粋を見ることができる。
場所は静岡県三島市山中新田410−4
東海道(国道1号線)「山中城口」交差点から側道に入ると数分で左手に「山中城跡広場」と、右手に「山中城案内所売店」が見えてくる。
「山中城跡バス停」前でもある。
駐車場はその100mほど手前にあります。
広場から順路に従って登りました。
「三の丸堀」
三の丸曲輪の西側を出丸まで南北に自然地形を利用して、中央に縦の畝を設けて二重の堀としている。
中央の畝を境に、東側は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していた。
「田尻の池」
箱井戸と田尻の池周辺は一面の湿地帯であったが、築城時盛り土によって区切られたものである。山城では水を貯える施設が城の生命線であることから、この池も貴重なため池の一つであったと考えられる。
「元西櫓」
この曲輪は西の丸と二の丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた640㎡の小曲輪である。
西の丸より
土塁
曲輪内は堀を掘った土を1mあまりの厚さに盛り土し、平らに整地されている。
二の丸橋
二の丸橋の下にある障子掘(単列型)
橋の下より堀傾斜
400年前はローム層が露出し、もっと急傾斜面であった。
「西の丸」
西の丸畝掘
西の丸内部に敵が侵入することを防ぐため完全に曲輪の周囲を堀によって取り巻いている。この堀の中は、5本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約2m、さらに西の丸の曲輪に入るには9m近くもよじ登らなければならない。遺構を保護するため現在は芝や樹木を植栽してあるが、当時は滑りやすいローム層が露出していた。
西の丸障子掘(複列型)と富士山
西の丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西の丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末端は谷に連なっている。
中央の区画には水が湧きだしており、たまった水は南北の堀へ排水される仕組みになっている。このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に造られることは非常に珍しく、特異な構造である。
西の丸
3400㎡の広大な面積を持つ曲輪。西端の高い見張り台はすべて盛り土で、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張り台の近いところから南側は盛り土して平坦にならしている。曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にあるため池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められる仕組みである。
物見台
ローム層と黒色土を交互に積んで補強して作られている。本丸の矢立の杉や諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点だったことが推定される。
土塁
左西の丸、右西櫓
西櫓と西の丸の間には、中央に太い畝を置き、交互に曲輪に向かって畝を出しているが、西の丸北側では東西に畝を伸ばして堀内をより複雑にしている。北条流障子掘りの変形であり学術上の価値が高い。
西櫓から西の丸
後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。西の丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の郭に向かって畝を出し障子の桟のように区画されている。
「西櫓」
西の丸から西櫓
後北条氏の角馬出
甲斐武田氏の「丸馬出・三日月掘」に対し、「角馬出」と呼ばれている。
西の丸から障子掘りを越えて、前方に突き出た西櫓(広場)を四角に造り、それに沿って土塁と堀を巡らせている。防御するときは、西の丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には堀の外側の広場(西宇胡坐)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。この馬出の構造により、攻める機能と衛機能が明らかに区分された。
西櫓櫓台
ため池
山田川の支流の谷がここまで伸びてきていたものを盛り土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものである。各曲輪や各堀からの排水も流入する仕組みである。山城の生命は、水の確保にあると言われるが、貯水への異常な努力が伺える。
帯曲輪から北の丸へ
本丸堀、帯曲輪方向より
畝と畝の間隔は一定ではないが、ここでは西下がりの地形に合わせて、畝の上部も階段状に西に下がっている。ここの本丸堀は畝を作ることにより、用水池も兼ねている。
「二の丸」
二の丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部にあたる正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いている。この斜面を削ったり盛り土して、山中城最大の曲輪二の丸は作られた。本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる。
空堀
櫓台
同
本丸西橋
二の丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を建てた柱穴が発見された。復元した橋は遺構を保護するため、盛り土して本来の位置より高く架けられている。
「本丸」
周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛り土にとって兵糧庫側から2m前後の段差を作り、二段の平坦面で築かれている。虎口は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は二の丸(北条丸)に続く。
天守櫓台
標高586m、天守櫓の名にふさわしく、山中城才一の高地に位置している。天守は独特の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。基壇は一辺が7.5mのほぼ方形となり、盛り土によって50㎝~70㎝の高さに構築され、その周囲には、幅の狭い帯曲輪のような通路が一段低く設けられている。天守台には、井楼、高櫓が建てられていたものと推定される、本丸から櫓台への昇降路は基壇より南に伸びる土塁上に、1m位の幅で作られていたものと推定される。
本丸堀
本丸と二の丸との間の本丸西堀は土橋によって南北に二分されている。北側の堀止の斜面にはV字状の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていた。堀底や堀壁が二段になっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。
橋の南側は畝によって八区画に分けられ、途中屈折して箱井戸の堀へ続いている。堀底から本丸土塁までは9mもあり、深く急峻な堀である。
本丸西橋
堀の二の丸側には、幅30㎝~60㎝の犬走が作られ、土橋もこの犬走によって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。一般的に本丸の虎口はこのように直線的ではないが、特別な施設が認められなかったので、通行の安全上架橋とした。(※模擬橋)
櫓台
東西12m×南北10mの櫓台を復元
矢立ての杉(市指定天然記念物)
推定樹齢は500年前後と言われている。出陣の際に杉に矢を射立て、勝敗を占ったためと「豆州志稿」の中の記述にある。
兵糧庫跡
中央を走る幅50㎝、深さ20センチの溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を二つの区画に分けていた。西側の区画からは二棟の建物の柱穴が確認された。このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、野の上に建物があったと考えられる。
駒形諏訪神社
「北の丸」
標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地位置し、面積も1920㎡と大きな曲輪である。この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛り土して平坦面を作り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいる。
同、本丸より
空堀
400年の歳月は堀底は2m以上埋めているので、築城時は現状よりさらに要害を誇っていた。城の内部に敵が侵入するのを防ぐため、この外堀は山中城全体を包むように彫られ、水の無い空堀となっている。石垣を用いずこれだけの急な堀を構築した技術は見事である。
土塁と空堀
山城の生命は堀と土塁にあると言われる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪に造られる土塁が高く堅固なものとなる。
本丸北橋
本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので復元整備した。
木製の橋は土橋に比べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防御には有利である。
空堀
「岱埼出丸(だいさきでまる)」
天正17年(1589)秀吉の小田原征伐に備えて、各曲輪の修築と共に、この出丸の増築を始めたが、短期間の為完成できず、途中で放棄したようですが、発掘の結果諸所に現れたのも興味深い。この出丸を守ったのは、副将間宮豊前守康俊と言われ、壮絶な戦闘を繰り広げ全員が討ち死にしたと伝えられている。その墓は三の丸にある宗閑寺に苔むして建てられており、来る人の涙を誘っている。
出丸箱根旧街道分岐
箱根旧街道石畳
江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である「東海道」のうち、小田原淑富島宿を結ぶ、標高846mの箱根峠を越える箱根八里(約32K)の区間。三島市は発掘調査で出土した石畳を平成6年度に復元整備しました。
出丸下段
岱埼出丸は標高547m~557m、面積20400㎡に及ぶ広い曲輪である。地名の岱埼(だいさき)をとり、岱埼城と呼ばれることもある。
出丸御馬場堀
畝の高さは、堀底から約2m、頂部の幅約0.6m、馬の背のように丸みを帯び、堀を遮るように直角に造り、ローム層を台形に彫り残して作られた。畝の傾斜度は50度~60度の急峻で、平均した堀底の幅は約2m、堀底から曲輪までの高さは、平均9mに及ぶ。
すり鉢曲輪
出丸の最先端を防御する重要な位置にある曲輪である。そのためか、曲輪の構築方法も、本丸側の曲輪と全く異なり、中央部を凹(久保)増せて低くし中心から緩やかな傾斜で土塁まで立ち上がり、中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。上方から見た様子が、すり鉢によく似ていることから通称「すり鉢曲輪」とよんでいる。この曲輪への虎口は南に造られているが、さらに東側に接続して、幅8mの長方形の曲輪が作られており、防備のための「武者だまり」と推定されている。
武者だまり
すり鉢曲輪見張り台
土塁の一角をやや広げて、土塁と兼用させたものである。すり鉢状曲輪南側の樹木を低くすることにより、三島・沼津方面から韮山城まで手に取るように眺望できる。
見張り台直下北側の平坦部からは、非常に傾斜が強くこの堀底から見張り台までは8m以上もあり、武具を付けた敵がよじ登ることは不可能と思われる。
岱埼曲輪
出丸御馬場曲輪
土塁で東側と北側を守り、西側は深い空堀に続き、南側は急峻な谷で囲まれた岱先出丸最大の曲輪である。曲輪内は、本丸と同様式の二段構築で作られている。
岱埼出丸一の堀
出丸全体を鉢巻のように巡るのではなく、先端の摺り場と曲輪から西側の中腹を箱根街道の空堀まで続くものである。約15mの間に、17か所の畝を確認することができる。完堀された一の堀の第三区画はローム層を掘り下げて畝を残し、70度前後の計射角をもって立ち上がっている。堀底からすり鉢曲輪の土塁までは、斜距離18~20m前後の急峻な
同
同
周辺
旧箱根街道
駒形諏訪神社・山中城址
三の丸跡 山中公民館
箱井戸
箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であった。箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水口によって繋がれていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐ工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場等として利用していた。
宗閑寺(浄土宗)
ここには山中城落城の際、北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと佇んでいる。豊前守康俊兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫、群馬県の蓑輪城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓碑が恨みを忘れたように並んでいる。
同、武将の墓
同
芝切地蔵尊
「山城からの眺望」
西の丸障子堀より
西櫓より
西の丸より
岱埼出丸より
今回の静岡遠征の目玉企画である「山中城跡」は、SNSの投稿サイトやお城関連のTV 番組でも紹介され、一度は行ってみたいと思っていた史跡です。
城跡がある島田市は静岡県の東の端で神奈川県に近い場所。あと30kmも行くと小田原城という位置関係で、じつはこのまま小田原城へ行こうか迷いもしましたが、日程の関係で欲張りは禁物!後ろ髪を引かれる思いで城址を後にしました😿
この日は天候にも恵まれ(天気予報とにらめっこした成果)、「障子掘」という世にも不思議な空堀が美しく整備され、富士山との見事なコラボを演じている光景が忘れられません。
生きててよかった~ヽ(^o^)丿
改めて
環境を整備されている皆さんに感謝です<m(__)m>
※参考、、、現地説明板、公式パンフレット他
【山中城】
《小田原防備の要となった箱根口の関門》
名称(別名);やまなかじょう
所在地;静岡県三島市山中新田字下ノ沢ほか
城地種類;山城
標高/比高;m/m
築城年代;永禄元年(1558~70)ころ
廃城年代;
築城者;小田原北条氏
主な改修者;
主な城主;小田原北条氏
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;曲輪、土塁、掘、障子掘り、馬出
近年の主な復元等;橋
地図;
【御城印、百名城スタンプ】
取扱店;山中城案内所・売店
住所;〒411-0011 静岡県三島市山中新田410−4(山中城駐車場向かい、山中城バス停前)
定休日;月曜日、年末年始
営業時間;10:00~16:00(1月~2月は10:30~15:30)
時間外に訪れた場合の御城印購入方法は、、、①備え付けの申込用紙に所定の記載事項を記入の上、②現金(単価×枚数+送料)を添えて、③備え付けのナイロン袋に同封の上、④店舗前の「御城印時間外受付ポスト」に投函する。
後日自宅(自分で記載した郵送先)にゆうメール(スマートレター)で送付されます。
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