弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

毒を以て毒を・・・

2017-01-29 23:12:55 | 思考
去年の手術以来、酷く自己本位なものの考え方をするようになった。
自己中心的ではなく、夏目漱石流のそれだ。

自分の苦しみや痛みが対人援助で得られる喜びに勝るなら、それをすることはない。
そして、自己犠牲が快感に感じられるほどマゾでもないらしいし、他人の苦痛が居たたまれないものであっても、その現場に居合わせないなら、自分が何とかする必要も義務もない。
周りでお世話になっている人は別として。

これは、結局は、昔から考えている「必要性」の契機の放棄だ。
自分である必要も無ければ、自分がする必要もないことはしない。したくない。
必要とされたい、そんな考えからサヨナラをしたのだ。

同様に自分がしてきた経験、特に負の経験をアイデンティティとしていた部分もあった。
そこから、その経験を活かしたり、他の人とは違う特殊な職業に就く、そんな考えに至る。
それは、昔から考えている「独自性」の契機だ。だが、それも放棄した。
病人や経験者、利用者としての経験が長すぎるとそちら側の視点に偏り、対人援助として望ましくない方向になる場合もあるということが分かり、提供者と利用者両者にとってマイナスになる場合がある。
もっと、有体に言えば、利用者から提供者になった場合に、同族嫌悪の危険性がある。
利用者という身分で同族嫌悪するのは勝手だが、提供者が利用者に根幹の部分で嫌悪してはいけない。
それに、そこまでオリジナリティを汎用化出来るとも思わない。
オリジナリティだという誤認の可能性すらある。

ここで、独自性→必要性、という流れは入院期間に崩れ去り、もはや「独在性」という契機しか自分の存在には残ってない。
それは、1カ月で10回の全身麻酔。
それと、自分の意識状態、感情状態について、他人にうまく説明できなかった・できない、というものが結露したものだ。

そうなると、ここにポツンとある意識だけを寄る辺にしなくてはいけなくなった。
この意識だけが、他人の意識とは別格として存在し、言語化も困難で、ただ在るものとして受け入れざるを得なくなった。

これは毒であり、社会的には退化だ。だが、思想・哲学的にはどうなのだろう。

・・・大学在学中の頃から、永井均という哲学者の著作に強く惹かれた。
特に、倫理学の本での命題に衝撃を受けた。
全ての人間は利己的で利「今」的だ。
というもの。
詳しい説明は省くが、上の「独在性」という観念は永井氏の著作の影響も大きい。(恐らく、氏からすれば、私は本当に理解してはいないのだろうが)

ただ、独在性というのは、何ら生き方を示すものでもなければ、お金になるものでもない。
よって、そこから価値を組み立て直し、また自分の中での規範や標を作っていかなければならない。
しかし、おそらく、ただの純然な主観的事実でしかないのだから、それは困難だろう。

今、一番の難点は、独在性はいいとして、
何故、「私」がいずれは消失しなければならないのか。
という不条理に対する怒りと恐怖である。(消失が、ただの肉体的死のことではないことは分かるだろう。)
意識がその活動を潜める睡眠の前に、得体の知れない恐怖を感じる。眠る前と寝た後で断絶を感じる。(手術と薬のせいもあるだろう)

正確に言うと、消失するのは「この私」ではない。
一瞬一瞬変化しているとも言い難いが、少なくとも、私は毎日死んでいる。それとは区別しなければならない。
だが、死自体が一般的に意識を恒久的に消失させるとはいえ、何がどうなるかも分からない。
死は一回性の真に固有な経験というが、それすら分からない。死者は語らないという意味でも無く、その時の私に何を意味するかも分からない。
無宗教、無神論者なのも大いに関係する。

今、死について語りうるとすれば、その時その時において自死を選ぶか。それしかない。
(駅で電車が通り過ぎる時に、一歩踏み出せば・・・という想いがよぎることがある。)

ともあれ、哲学的思考がもたらす毒には毒で対抗するしかないのかもしれない。
今後の生き方を模索して進む前に、多少世離れしようと、哲学書を読むしかないのかもしれない。

生きている間に、価値の体系を組み立て直し、それが不可能なら、価値基準を生み出さなければならない。
結局のところ、鬱屈した感情に負けているだけのようなら、消極的ニヒリズムに浸っているだけだ。
元の元を言えば、最初に読んだ哲学者であるニーチェに準拠した能動的ニヒリズムに至らなくてはいけない。
(だが、それは「強者」の枠組みだ・・・)

考えているだけでは先に進めないとは思う。
だが、行動は不安障害という枷で制限される。
何をどうしたらいいのか。