弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

自殺したら・・負け??ー2、私個人の話

2018-10-19 22:49:50 | 思考
過去にあった悲劇や不運の類いはここでは語らない。
そして、来年から大学院生になると仮定してそれが手遅れだとも思わない。

それでも、深淵には自殺念慮がある。

前の日記で書いた、農業アイドルやブラック企業における過労死という、外面の地獄に身を晒したことはない。私は・・自滅だ。
強いて言うなれば、メディアが作ったイメージに引き金を引かれそうになったことはあるが、今は関係ない。

自殺は土俵を降りることであり、死んだら全てが終わり。そしていつか絶対に死ぬ。
それは確かに呪いではあるのだが、だからと言って、私の自殺を肯定する根拠としては薄弱だ。
(死んだら終わり、というものも本当は分からないのだが。)

お金があるにこしたことはない。物欲がない訳ではないから。
名声や社会的承認も欲しいのだろう。事実、他者に認められるとそれなりに嬉しい。
恋愛、結婚も出来るかはともかく、相手が見つかればしたいのだろう。性欲も恋慕の情も少しはある。

まとめると、現世的な利益への欲求は少なからずあるのだ。
そして、それらを満たす手段や方法も可能性が低いが、ゼロではない。

だが、それらがインセンティブとして機能しない。
学問をやっていく以上、そういう外発的な誘因だけでなく、知的好奇心という内発的な動機もある。

だが、何故だろう。
それらに触発されない。うつ状態と言えばそれまでだが、何かもっと根本的な所でそれらの価値を否定している。
いかに現世的な利益を享受したとしても、死後どころか生前にもそれは持続しない。
自分の生だけでなく、全てのものは終わるもの。
仏教的な生々流転という観点に立たなくても、それは理。
それを空しいと感じ始めたのは幼少期から。

ならば、覆すのは難しい。
むしろ、全身麻酔伴う手術によってその信念は強化された。

だが、ここまで書いてきて、収穫が見つかった。
終わるということを何度も書いてきたが、逆に、何が終わるのだろう。そして、終わらないとは何であろう。
死、それは確かに肉体的には化学組成が変わる。その意味では、確かに終わる。
だが、そもそも、生物はすべからく、絶えず、生成と消滅を個体レベルで繰り返している。
代謝とはそういうこと。

つまり、常に終わって常に始まっている。

この思索が何か私の役に立てばいいが。

自殺したら・・負け??

2018-10-19 22:21:45 | メンタル
農業アイドルといい過労死といい、
自殺したら負け
だとかいう言葉が反響を呼んでいるが、半生、波はあれども自殺を考えてきた私には引っ掛かるものがある。

一体、誰に、何に負け、いや、そもそも勝敗などあるのか。

社会、他者、集団、これらは時として、人間を圧殺する。それは事実だろう。
外界の過酷さが視野狭窄を引き起こし、衝動として自殺を図って既遂してしまう。
それはとても悲しいこと。
であるが、繰り返すと誰に何に負け、その基準はどこにあるのだろう。

自殺衝動に負けた、というのはおかしな話。そもそも、自殺とは自殺衝動と生存本能とのせめぎあいの結果、自殺衝動が「勝って」しまうことだが、そこには主体の統制が及ばない。
つまり、「死んだのは誰か」という問題。

では、彼らは他者や社会、集団に負けたのか。
それも違う。そもそも、生きる死ぬで彼らと生存競争をしている訳ではないのだから。
それらー彼らがいかに個人の内面を圧殺しようと、それに負けたのではない。

強いて言うなれば、彼らが設定したルールに負けたのだ。
だが、これも完璧な答えではない。
ルール自体が歪んでおり、正当性がないから。そんなものに負けるというのは不適切だ。

自殺は負けではない。というのが私の結論。勝敗ではなく、勝敗の土俵ー価値観ルールから根本的に「降りる」ことが自殺だ。そして、降りた先のことは誰にも分からない・・

宗教がそこを偽造して、
自殺したら地獄に行く
などの価値観を植え付けても同じこと。それを含めて土俵から降りること。
勝敗の彼岸。善悪の彼岸。それが自殺。

仮に自殺しなかったら、現世的な利益ー快感情をもたらすものの獲得が見込まれていたとしても、それが勝ちだとは思わない。

いずれにしてもいつかは死ぬのだから。

という訳で、私は他者の自殺にも私の自殺念慮からも距離を置くようにしているし、もはや、対人援助職の就こうとも思わない。
ただ、個々人の人間性を圧殺する諸々のもの、そしてそれによってもたらされる視野狭窄、それには抵抗していきたい。他者のそれにも。
本質的に抵抗というものも勝敗はない。それは姿勢であり矜持であり・・何より人間性の最後の寄る辺だろう。それすら放棄する時が私が自殺する時だ。