弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

スケーリングクエスチョン、状態評価、そして活動記録ーそれでも点滴

2018-10-23 13:16:56 | メンタル
この時期のこういう天気の日が一番調子が悪い。
10段階でいったら、2ぐらいでまともな活動は出来ないだろう。

さて、スケーリングクエスチョンというものが短期療法にはある。そして、短期療法のみならず、状態評価という一種のスケーリングは行動活性化と大きく関わり、大概の入院施設、デイ・ケアでも活動記録表にその時の状態を記録する。
つまり、どのような状態で、その日のうちに何をしたか、出来たか、その結果、どういう気分状態になったのかを把握する。
そのうちに何をすれば良くなり悪くなりのパターンが分かり、生活におけるリズムも作っていけ、活動を増やしていけるだろう。

以上がセオリー的なもの。
有効なのはうつが重度でなく、慢性化していない場合に限られると思う。

慢性化した私でも、カウンセラーと、
朝起きた時に大体状態を把握して、1日の現実的な活動量に決めていこう
という話にもなっている。
それをクリアすれば、自己効力感の低下は防げるのだと思う。

・・だが、こういう季節的な要因が原因で、一気に調子を崩すとそれも難しい。
加えて、日中にも波が存在すると、1日の活動目標など設定するのが困難だ。
もはや、ほぼ何も出来ない。

こうやってスマホから文字を打つのも億劫で骨が折れるが、光療法の器具を使い、お香を焚きながら、寝転がりながら打っている。
これは活動に入るのだろうか。。

活性がかなり低いと言っても、自殺念慮やイライラに顕在化していないだけまだ去年よりマシ。
でも、じわじわと来る。

今週末に無理をして予定を入れてしまったので、明日、今シーズン初めてのアナフラニール点滴をしたいと思う。
今年は大丈夫と思いきや、やはり、一年のうちこの季節は点滴をした方がよさそうだ。
まあ、人工透析みたいな拘束時間はないが、きっと一生必要なのだろう。

今の病院はベッドが空いていれば、医師の許可があればいつでも点滴をしてもらえる。
自宅から遠いのが難点だが、病院そのものは便利だ。

やはり、実家から離れて病院を探すのはかなりデメリットだろう。

逃避と焦燥・憔悴-趣味の問題2ーdead end job

2018-10-22 00:17:54 | メンタル
とりあえず、来春から大学院生になれると仮定しよう。
まだ手遅れではないとはいえかなり年増だし、色々なものを迅速に吸収していかなくてはならない。
そして、病気は根治はしない。

要は、やるべきことは幾らでもあるのに、体力気力の制限がある。
そんな時に趣味だの息抜きだのにうつつを抜かしている場合なのだろうか。

百歩譲って、不安障害に対する曝露のために趣味の領域で他人と交わることを許容したとしよう。
その場合、やはり、社交的な趣味が必要になる。念頭にあるのはフルート。
自己完結的なオタク系の趣味は不必要だ。

だが、趣味とは必要不必要で選ぶものでもない。煮詰まった時に上手く気晴らしが出来ればいい。

それでも、いやしくもこれから研究者を目指すなら、一日中専門書に立ち向かうくらいの気概でなければならないのだろうか。
理系で実験が毎日ある、とかとは違い、人文系の学問は単純に積み重ねればいいというものでもないだろう。
ただ、ある意味で、実験結果とか明確な数値が出ない,
単純な成功や失敗が測れないため、一生終わらない知的営為だ。

つまり、dead end jobー一生終わらない仕事だ。

それでは、人文系の研究者は趣味も持たず、一日中ー毎日専門書を読んだり思索しているかというとそれも違うのだと思う。
どこまでを自由な時間と割り切って気晴らしにあてているのかは分からないが、適宜気晴らしはしているはずだ。

そんな時、「必要」と思って、趣味を選択するのだろうか。
社交的な趣味で交友関係を拡げなければいけないのか。
答えは、Noに違いない。
でも、あくまでも私の場合だが、自己完結的な趣味の時間を設けて憔悴しても本末転倒だ。

不安障害であるが、強迫観念もあるのだろう。

特性、能力、制限、色々なものを考えて研究者しかもう目指すべきものがない。
これは動かない。
だが、ずっと不安と強迫観念に駆られて動き続けると、また自分を潰してしまうだろう。

認知の割り振りだけではなく、自己制御と自己効力感をいかに高めていけるかが鍵となる
安直に言えば、バランスの問題。それが崩れたからここまで悪化した。
何とか、しなければ、結局待っているのは大学院中退か自殺だろう。


逃避と焦燥・憔悴-趣味という問題1

2018-10-21 23:57:16 | 趣味(全般
何だろう、オタク系の趣味(アニメ・ゲーム)は飽きもあるし、年齢的にも離れるべきなんだろうと思って遠ざかっていた。
まあ、年齢にかかわらず、好きなものを楽しめばいいと思うが、そもそもそういうオタク系に興味を無くしていた。
それは失望であり、納得であり、諦めでもあった。

今は、待機期間中で、本当に焦って行動を起こすべきではない時。
そして体調的にも無理して動くべき時ではない。
つまり、自由に時間を使っていい時。
それは周りもそう言うし、自分でもそう思う。

だが、いざ、時間を使おうとした時に、やはりアクティブなことは気力と体力の問題で出来ないので、かなり出来ることに制限があった。
プロ野球もみていたが、何か無駄に疲れた。
フルートは軽い運動にもなるので、少し気持ちが晴れた。

でも、やはり読書は厳しかった。

ので・・・昔観たアニメをprime videoで観直していたら、手術で記憶が飛び忘れていた部分もあり、面白い。
ただなので、一気に見てしまうこともできる。

結果、残ったのは焦燥と憔悴。
「こんなことをしている場合ではない」
とか、
「やはり先を見越して勉強しておくべきだ」
という感情が渦巻き、逃避してしまったことへの自己嫌悪と自己効力感の低下が著しい。

今、メールを待っている大学院に確定できればよし。
あとは社会生活のリハビリをしていくだけ。
もし、万が一トラブルがあっても、春季の入試に向けて11月から頑張ればよい。

そう、認知的な割り振りは出来ている。
それでも、
「有意義な時間を過ごさなければいけない」
という半ば強迫観念みたいなものが身を焼き尽くす。

これは・・これからどうしたらいいのか。
次の日記で考えたい。

どこにも居場所がないー非定型ではなく非典型

2018-10-21 00:19:15 | メンタル
今まで診断名が移り変わってきた。
そして、今も診断名には疑いを持っている。どこかがおかしく治らないということを除いて。

神経衰弱(敏感関係念慮

神経症性うつ

うつ・うつ状態

非定型うつ

双極性スペクトラム

反復性うつ病性障害(双極性障害2型疑い)+社会不安障害←入院時

双極性障害2型+社会不安障害(現在の診断)※軽躁状態はまだ出ていない

入院時からようやく不安に焦点が当たり、
不安症状が前面に出た気分障害
ということで納得した。ただ、結局、気分障害の何に当たるかがよく分からない。
不安も社会的場面に限らないので、全般性を疑っている。
更に、睡眠障害に関しても不眠症と過剰睡眠が混じっている。

前から診断名ではなく、症状で、というのも書いてきたが、それでも他者ー典型的な病像の人と分かち合えることがない。mECTにすら偏見を持つ精神障害者は少なくないのもある。一方、無理して健常者と付き合うと病状は軽く扱われる。
友人には2人を除き、障害者年金受給というのは伏せているから。

客観的な指標という意味では、
光トポグラフィーも三回受けたが、健常者の波形は出ていない。
睡眠時無呼吸ではない(入院検査した
電気痙攣療法の適用かの検査でCT.SPECT.fMRIも受けたが、器質性のものではない(ただ、前頭葉への血流は減少していた
心理検査の結果も芳しくない。

自分の中に他者に説明する「物語」はある。上で述べたような悪化の経緯を踏まえた。
ただ専門的なものもあり、理解してくれる人がいないし、そもそもそんな時間もない。親友でさえ。カウンセラーでさえ。

大学院に行くのなら病気ー症状を言い訳に出来ない。
ましてや、そのような物語を語る機会も時間もない。

結局、根本的な所で孤立している。

大学院を受かったことを褒めてくれる友人は沢山いる。
でも、本当に褒めて欲しいのは・・症状に耐えて生きていることだ。

だが、そんな想いは届かないだろう。
そんな想いが届く同士が欲しい。

自殺したら・・負け??ー2、私個人の話

2018-10-19 22:49:50 | 思考
過去にあった悲劇や不運の類いはここでは語らない。
そして、来年から大学院生になると仮定してそれが手遅れだとも思わない。

それでも、深淵には自殺念慮がある。

前の日記で書いた、農業アイドルやブラック企業における過労死という、外面の地獄に身を晒したことはない。私は・・自滅だ。
強いて言うなれば、メディアが作ったイメージに引き金を引かれそうになったことはあるが、今は関係ない。

自殺は土俵を降りることであり、死んだら全てが終わり。そしていつか絶対に死ぬ。
それは確かに呪いではあるのだが、だからと言って、私の自殺を肯定する根拠としては薄弱だ。
(死んだら終わり、というものも本当は分からないのだが。)

お金があるにこしたことはない。物欲がない訳ではないから。
名声や社会的承認も欲しいのだろう。事実、他者に認められるとそれなりに嬉しい。
恋愛、結婚も出来るかはともかく、相手が見つかればしたいのだろう。性欲も恋慕の情も少しはある。

まとめると、現世的な利益への欲求は少なからずあるのだ。
そして、それらを満たす手段や方法も可能性が低いが、ゼロではない。

だが、それらがインセンティブとして機能しない。
学問をやっていく以上、そういう外発的な誘因だけでなく、知的好奇心という内発的な動機もある。

だが、何故だろう。
それらに触発されない。うつ状態と言えばそれまでだが、何かもっと根本的な所でそれらの価値を否定している。
いかに現世的な利益を享受したとしても、死後どころか生前にもそれは持続しない。
自分の生だけでなく、全てのものは終わるもの。
仏教的な生々流転という観点に立たなくても、それは理。
それを空しいと感じ始めたのは幼少期から。

ならば、覆すのは難しい。
むしろ、全身麻酔伴う手術によってその信念は強化された。

だが、ここまで書いてきて、収穫が見つかった。
終わるということを何度も書いてきたが、逆に、何が終わるのだろう。そして、終わらないとは何であろう。
死、それは確かに肉体的には化学組成が変わる。その意味では、確かに終わる。
だが、そもそも、生物はすべからく、絶えず、生成と消滅を個体レベルで繰り返している。
代謝とはそういうこと。

つまり、常に終わって常に始まっている。

この思索が何か私の役に立てばいいが。