東海大相模が、春の選抜大会で10年ぶりに優勝を飾りました。
選手権では小笠原投手を擁した15年に優勝していますが、
選抜はあの震災直後の大会である11年大会以来となります。
あの大会も通常の大会とは違うモードで、
「復興大会」の雰囲気の色濃い大会でしたが、
今年の大会も昨年の選抜大会中止を受けての2年ぶりの大会とあって、
ブラスバンドの生演奏はなしで、
観客数も1万人以下に限定されての大会となりました。
その両大会で、
東海大相模が優勝を飾ったという事に、
ワタシはなんだかとても深い因縁を感じずにはいられません。
しかも両大会ともに、
例年の東海大相模よりも戦力は一段下がるといわれたチームが一歩一歩着実に勝ち上がり、
栄冠を手にしたものです。
選手を含めた関係者の喜びはいかばかりでしょうか。
前回の大会後にワタシもこのブログで、
東海大相模のチームとしての歩みを書きましたが、
その後の10年間、東海大相模はどんな歩みを経てきたのかという事を少し書いてみようと思います。
前回のブログ ⇒ 東海大相模高校 長い苦闘の歴史乗り越えた先に、栄光が待っていた!
門馬監督が東海大相模を指揮して20年あまり。
当時はまだ、東海大相模は「完全復活」とは言えず、
神奈川県では横浜高校がチームとしてのピークを迎えている時期でした。
横浜高校は高校野球の名将、渡辺監督が指揮を執り高校野球界の代表チームの一つでしたが、
98年に松坂で甲子園春夏連覇を成し遂げるまでは、
甲子園で勝利を挙げることがなかなかできずに苦しんでいました。
80年代中盤~90年代は毎年のようにプロ野球に好選手を送り込み、
甲子園にも毎年のように出場を果たしていたものの、
81年~97年まではなんと甲子園では4勝9敗。
もちろん優勝はおろか8強進出もままなりませんでした。
神奈川県勢としても80年代半ばからはなかなか甲子園で好成績を収めることが難しく、
神奈川の高校野球ファンとしてもやきもきしていた時代ではありました。
しかし東海大相模は、
その横浜に夏の県大会ではいつ勝ったかわからないぐらい連敗を続けていて、
春は時折出場するものの、夏は重い扉を開けることができませんでした。
そんな「苦難の時代」を経てきた両チームですが、
98年からは全く明暗が分かれます。
横浜は松坂を中心とした「史上最強」とも言われるチームで、
ドラマチックな春夏連覇を達成。
その後つきものが取れたかのように横浜は甲子園で勝ちだして、
愛甲の初制覇から18年間でわずか甲子園で4勝しか挙げられなかったのに、
松坂の98年からはおよそ10年で32勝、優勝3回、準優勝1回という輝かしい成績を上げることに成功しました。
横浜高校、そして渡辺監督にとって、
まさにチームがピークを迎えた「輝かしき10年間」でした。
ワタシは全国制覇を短期間の間に複数回成し遂げるチームには「チームのピークの期間」があると思っています。
これは智辯和歌山の高嶋元監督がよく言われることなのですが、
彼曰く「チームのピークというのはおよそ10年」という事のようです。
もちろん各チームごとに事情は大きく異なるので一概にどのくらいの期間なのかを言い切ることもできないのですが、
名将といわれる監督さんが気力も体力も充実し、そこに経験則からくる独自の『甲子園で勝利するためのメソッド』というものが加わり、
最も輝ける時というのが10年ぐらいなのかなあ……そんな気もしています。
いくら全国から好選手を集めて鍛え上げても、
チームを運営して指揮する監督さんが魅力的で『甲子園で勝てる監督』でないと、
一度は頂点に立っても2度、3度とは続かないと思っています。
そんな観点からチームを見ていくと、
ファンとしてはとても面白いですね。
そんな横浜高校の輝ける10年間の間、
東海大相模は煮え湯を飲まされ続ける存在でした。
春の選抜では00年に筑川投手を擁して全国制覇を達成したものの、
神奈川に帰れば横浜には苦杯を飲まされ続けるという構図は変わらず。
新たなるライバルの出現もあって、
東海大相模はワタシの知る限り、
98年~09年まで、
必ず神奈川の夏の大会の優勝候補の1番手~3番手までに位置していたにもかかわらず、
ただの一度も夏の選手権に届くことはありませんでした。
その流れが「変わったかな?」と思い出したのが10年夏。
この年の東海大相模は一二三という全国屈指の剛腕を擁して勝負をかけた年。
秋の関東大会を制し明治神宮大会でも優勝にほど近い準優勝。
打線も活発で、選抜での優勝が期待されていました。
しかしながら春の選抜では初戦に一二三が乱れ、
打線も決して打ち崩すのが困難とは思われない投手を打ちあぐんで完敗。
帰ってからも一二三が完全に投球を見失って絶不調。
春の遠征試合などでは彼の大乱れのニュースばかりが伝わってきました。
30年間も甲子園まで届いていない夏の選手権に向けて、
暗雲が立ち込めてばかりの東海大相模でしたが、
そこで本人、チームが下した大英断が、
チームの景色をガラッと変えました。
それは剛腕・一二三の投球フォームの大転換。
もともと「ドラ1候補」と言われた剛腕、一二三の腕を下げて、
あろうことかサイド気味の投球フォームに。
「今年の夏に勝つということ以上に、ドラフト候補のフォームをあんなにいじっちゃって、大丈夫かな?」
なんてワタシは思いましたが、
それが結果的には大成功。
安定感を取り戻した彼の投球は見事で、
県大会決勝で激突したライバル・横浜打線を見事に抑えて、
東海大相模は77年以来33年ぶりに「夏の甲子園」へと返り咲くことになったのです。
本当にこの年は東海大相模のとって大きな年でした。
チームは甲子園ではつきものが取れたようにのびのびと躍動し、
決勝で春夏連覇を成し遂げる興南に敗れたものの堂々の準優勝。
この快挙から流れは一気に変わっていくのです。
その準優勝メンバーが打線にたくさん残った新チーム。
軸になる投手が一二三ほどの信頼感はなかったものの、
打線の破壊力は見事だというチームで挑んだ翌11年選抜。
東海大相模は自慢の打線が甲子園で大爆発。
初戦から強豪に対して打つわ打つわのお祭り騒ぎ。
終わってみれば圧勝で頂点まで駆け上がったのでした。
1年の間に甲子園で優勝と準優勝。
これ以上ない成績を残した門馬・東海は、
新たなステージへと昇る足掛かりを完全につかんだという事が言えるでしょう。
しかしそこで黙っていなかったのがライバル横浜。
選手の質、層では東海大相模を上回るといわれるこの「神奈川の盟主」は、
その後も東海大相模の前に立ちはだかる存在として、
神奈川県内では君臨していました。
相模は10年夏の決勝では一二三の好投などで横浜を撃破したものの、
その後は一進一退を繰り返します。
11年夏、
選抜優勝の東海大相模は夏の選手権5回戦で横浜と激突。
春に全国制覇した東海大相模に対し、
横浜は選抜には出場していたものの、
初出場校に何もできず初戦で完敗を喫していました。
夏の激突を前にして、
世間は「東海大相模が1枚も2枚も上」という評価を下していましたが、
ふたを開ければそうはいかない現実が待っていました。
2年生エースの柳(中日)が登場してきてエースになっていた横浜。
東海大相模の打線を完全に分析して完全に抑え込み、
完勝で東海大相模の春夏連覇の夢を砕きました。
相模原球場に漂った何とも言えない試合後の空気は、
忘れることができない思い出です。
あんなに悔しい負けも、ワタシはなかなか味わったことはありませんでした。
しかし横浜は、
このころから次第に「神奈川県大会では勝てるが、甲子園に出ると弱い」
という【松坂登場以前の姿】にまた戻ってしまったような戦い方をするようになっていました。
ワタシが「横浜高校のピーク」と評した08年以降、
横浜は甲子園には何度も登場するものの、
戦績はなんと5割を切る7勝9敗。
1度8強に行っただけで、4強以上への進出は全くない状態となっています。
神奈川県大会での盤石な戦いぶりを見ているワタシ達にとっては甲子園での最近の横浜の戦いぶりは「信じられない」の一言に尽きるのですが、
考えてみれば松坂の登場前までの横浜の戦いぶりにはそっくりです。
プロ注目の好選手をチームに配するものの接戦を取り切れず、
最後は全国の高いチーム力の学校に振り切られるという事です。
やはり98年からの栄光の10年間は、
小倉部長の相手チームへの高い分析力があったからこそ、
甲子園で勝ち上がっていけたという事、
言えるのかもしれませんね。
本当に難しいですね、高校野球というのは。
それでも毎年毎年、
これでもかというほどドラフトでプロ野球に行く選手を、
横浜は輩出し続けていますけどね。
何かチームとしての歯車がかみ合わないのでしょうかね。
一方の東海大相模は、
そんなやや「内弁慶」な横浜と反対に、
神奈川県大会を突破しさえすれば、
甲子園では伸び伸び戦いいい結果を出すという事が、
常態化されてきた10年ですね。
「外弁慶」とでも、言いましょうか。
それはとりもなおさず、
「相手チームを細かく分析して丸裸にすることで優位性を保ち、その試合を絶対取りに行く」
という戦い方よりも、
「自分らの野球を甲子園では貫く」
という戦い方をしているからなのでは?
とワタシは思います。
そういう感じの門馬監督の戦い方だから、
予期せぬ相手が出てきたときとか、
全く予想しない投手などが出てきたときにも、
何とか対応して戦うことができるという事ではないでしょうか。
しなやかな対応力を持っているという事が言えそうな、
門馬監督の野球ですね。
そして様々なタイプの相手と連戦をこなさなければならない全国の大会で勝ち上がるには、
そういった対応力の高い野球でなければ難しいという事なのではないでしょうか。
神奈川県大会では、
まだこの10年においても東海大相模と横浜は互角の戦いを繰り広げています。
10年に33年ぶりに夏の神奈川県大会で横浜を破った東海大相模は、
14,15年と県大会で横浜を連破。
そしてその勢いをかって甲子園に連続出場し、15年には全国制覇も成し遂げています。
しかし17年には県大会決勝で激突し、
その時は横浜が圧勝。
門馬監督の長男である門馬選手(現東海大)は甲子園に届かず、
涙にくれました。
そんな「勝ったり負けたりのライバル関係」は続いているものの、
2010年夏からの甲子園での成績は横浜の7勝9敗に対して、
東海大相模は23勝4敗で優勝2回、準優勝2回と圧倒しています。
横浜は渡辺監督の勇退から若干迷走が続きましたが、
村田監督ががっちりと指揮を執る態勢を固めて、
巻き返しを図っている今日の状況です。
ところで、
東海大相模にとって、
この選抜での優勝というのは後々振り返ると、
とても大きな出来事ではなかったかと思います。
今までの相模の「打力と走力を駆使して、アグレッシブベースボールで打ち勝つ」
というチームカラーとはかなり違う、
例年より力が劣るといわれたチームが守って守ってつかんだ栄冠。
「こういうチーム、そして試合内容でも勝ち切ることができるんだ」
ということの証明ができ、
相模はまた一歩階段を上がったんだと思います。
上記でも言いましたが、
「しなやかな戦いぶりができない限り、甲子園のトーナメント戦は勝ち上がっていけない」
という事に対する一つの解が、
導き出されたともいえる勝ちっぷりだったのではないでしょうか。
まあ、
それもこれも超絶なピッチングでマウンドに君臨してくれた石田クンあってのことではありましたがね。
これまでの東海大相模は、
「ど派手な勝ちと、地味な負け」
のチームだと思っていました。
しかし今大会、
ともすると地味だと思われがちないわゆる「しのぎあい」の戦いを制したことで、
しなやかさの中にもう一つ「負けにくい」という鎧を身に着けることができたかもしれません。
「大阪桐蔭にあって、東海大相模にないもの」
それは「しぶとさと負けにくさ」だったのではないかと思います。
これまで東海大相模にはなかった「負けにくい戦い」ができるようになったなら、
ますます甲子園での白星は積みあがっていくのではないでしょうかね。
それこそ「西の大阪桐蔭」に名実ともに肩を並べる「東の正横綱」という存在まで駆け上がっていく可能性も、
十分にありますよ。
そして、今年の東海大相模のチームに限って言うならば、
まだまだ伸びしろはありそうな気がします。
何しろ選抜ではあれだけ打てなかったんだから、
夏の大会までにいつもみたいに打てるようになれば、
また春とはガラッと景色の変わった戦い方ができるはずです。
そしてその時は、
「東海大相模の春夏連覇 可能性十分にあるよ!」
なんていわせてもらおうかな。
今後のチームの成長、楽しみですね。
さてさて、
ついでなんですが「時代を作ったチーム」(10年間で2度以上全国制覇を達成した、甲子園ファンに忘れることができないチーム)は、
いったいピークの時期にはどんな戦績を残し、
その後はどうなったのかについてまとめました。
まずは東海大相模の甲子園戦績。
◇東海大相模の甲子園での戦績
~70年代(原貢時代) 出場9回 選抜2回 選手権7回 12勝8敗 勝率.600 優勝1回 準優勝1回 4強0回 8強2回 初戦敗退4回
80年代 (複数監督) 出場0回
90年代 (村中監督) 出場2回 選抜2回 選手権0回 5勝2敗 勝率.714 優勝0回 準優勝1回 4強0回 8強0回 初戦敗退0回
≪門馬監督時代≫
00年代 出場5回 選抜4回 選手権1回 11勝4敗 勝率.733 優勝1回 準優勝1回 4強0回 8強0回 初戦敗退1回
10年代~ 出場6回 選抜3回 選手権3回 19勝3敗 勝率.863 優勝3回 準優勝0回 4強1回 8強0回 初戦敗退1回
◇門馬・東海大相模 夏の選手権の扉をこじ開けて(10年夏)からの戦績
10年夏 ○○○○● 準優勝
11年春 ○○○○○ 優勝
14年夏 ●
15年夏 ○○○○○ 優勝
18年春 ○○○● ベスト4
19年夏 ○● 3回戦
21年春 ○○○○○ 優勝
23勝4敗 .851 優勝3回 準優勝1回 4強1回 初戦敗退1回
2010年代になってからの活躍はすさまじいものがあります。
が、まだまだ。
もっとできる・・・・・・はずです。
◇横浜高校の輝ける10年間の戦績(98年~08年)
98年春 ○○○○○ 優勝
98年夏 ○○○○○○ 優勝
99年春 ● 1回戦
00年夏 ○○● 8強
01年夏 ○○○● 4強
03年春 ○○○○● 準優勝
04年夏 ○○○● 8強
06年春 ○○○○○ 優勝
06年夏 ● 1回戦
08年春 ● 1回戦
08年夏 ○○○○● 4強
81~97年 4勝9敗
98~08年 32勝8敗 .800 優勝3回 準優勝1回 4強2回 8強2回 初戦敗退3回(11年間)
08年~ 7勝9敗 .437 8強1回 初戦敗退4回
◇最強・大阪桐蔭の戦績
最強伝説を作った05年~(17年間)
05年夏 ○○○○● 4強
06年夏 ○● 2回戦
07年春 ○○● 準々決勝
08年夏 ○○○○○○ 優勝
10年春 ○● 2回戦
12年春 ○○○○○ 優勝
12年夏 ○○○○○ 優勝
13年春 ○● 2回戦
13年夏 ○○● 3回戦
14年夏 ○○○○○○ 優勝
15年春 ○○○● 準決勝
16年春 ○● 2回戦
17年春 ○○○○○ 優勝
17年夏 ○○● 3回戦
18年春 ○○○○○ 優勝
18年夏 ○○○○○○ 優勝
21年春 ● 1回戦
55勝10敗 .846 優勝7回 準優勝0回 4強1回 8強1回 初戦敗退1回
◇強打で甲子園を席巻した智辯和歌山の戦績
初優勝~猛打爆発の08年まで(15年間)
94年春 ○○○○○
96年春 ○○○○●
96年夏 ●
97年夏 ○○○○○
98年夏 ○○●
99年夏 ○○○●
00年春 ○○○○●
00年夏 ○○○○○○
02年春 ●
02年夏 ○○○○○●
03年春 ○○●
03年夏 ○●
05年夏 ●
06年春 ○●
06年夏 ○○○○●
07年夏 ●
08年春 ○○●
08年夏 ○○○●
47勝15敗 .758 優勝3回 準優勝2回 4強2回 8強3回 初戦敗退4回
09年~ 16勝13敗 .552 準優勝1回 8強2回 初戦敗退5回
◇高校野球の代名詞、PL学園の戦績
準優勝の76年~春夏連覇の87年まで(12年間)
76年夏 ○○○○● 準優勝
78年春 ○○● 8強
78年夏 ○○○○○ 優勝
79年春 ○○○● 4強
81年春 ○○○○○ 優勝
82年春 ○○○○○ 優勝
83年夏 ○○○○○○ 優勝
84年春 ○○○○● 準優勝
84年夏 ○○○○○● 準優勝
85年春 ○○○● 4強
85年夏 ○○○○○ 優勝
86年春 ● 1回戦
87年春 ○○○○○ 優勝
87年夏 ○○○○○○ 優勝
63勝7敗 .900 優勝7回 準優勝3回 4強2回 8強1回 初戦敗退1回
88年~09年 28勝14敗 .667 4強4回 8強3回 初戦敗退2回
◇あの蔦監督の池田高校戦績
イレブン時代~87年まで14年間
74年春 ○○○○● 準優勝
75年春 ● 1回戦
79年春 ○● 8強
79年夏 ○○○○● 準優勝
82年夏 ○○○○○○ 優勝
83年春 ○○○○○ 優勝
83年夏 ○○○○● 4強
85年春 ○○○● 4強
86年春 ○○○○○ 優勝
86年夏 ● 1回戦
87年春 ○○○● 4強
87年夏 ○● 2回戦
36勝9敗 .800 優勝3回 準優勝2回 4強3回 8強1回 初戦敗退2回
88年~ 5勝4敗 .556 8強1回 初戦敗退1回
◇逆転の箕島・箕島高校の戦績
尾藤監督の采配時代(68年~84年)
68年春 ○○○● 4強
70年春 ○○○○ 優勝
70年夏 ○● 2回戦
72年春 ● 1回戦
73年夏 ● 1回戦
77年春 ○○○○○ 優勝
78年春 ○○○● 4強
78年夏 ○○● 3回戦
79年春 ○○○○ 優勝
79年夏 ○○○○○ 優勝
80年夏 ○○○● 8強
82年春 ○○● 8強
83年夏 ○○● 3回戦
84年夏 ● 2回戦
34勝10敗 .772 優勝4回 準優勝0回 4強2回 8強2回 初戦敗退3回
どの学校も、ホントすごい戦績です。
一世を風靡するというのはこういう事なんだと、
またまたワタシ、なんだか認識を新たにしました。
これからの高校野球、
果たしてどうなっていくのか知る由もありませんが、
いつまでもこの熱狂が続いてくれると、
楽しいなあと思っています。
夏は東海大相模と大阪桐蔭の対決、
見たいなあ。