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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

最も印象に残った球児   36.岡山

2012年09月12日 | 高校野球名勝負

◇もっとも印象に残った球児

36.岡山



石岡    内野手  岡山東商  1978年 春夏     



甲子園での戦績

78年春   1回戦    ●   4-5    高知(高知)
    夏   1回戦    〇   3-1    取手二(茨城)
        2回戦    〇   3-2    福井商(福井)
        準々決勝  〇   4-2    旭川龍谷(北北海道)
        準決勝    〇   6-5    豊見城(沖縄)
        決勝     〇   0-4    高知商(高知)



岡山の人、
テレビを見るたんびに、
こういいます。
『あ~。この人、岡山出身じゃよ!』

誰彼かまわず、
岡山出身であることにいたく誇りを持っている様子。
それとも、同胞意識がものすごく強いのか。

両親の実家が岡山だったワタシ。
幼き頃より岡山に訪ねては、
いろいろな人からその洗礼を浴びまくっていました。

ワタシの幼き頃、
岡山県の”誇り”は、
水泳の木原美智子さん。

そして野球では、
平松(大洋)、星野(中日)、松岡(ヤクルト)、大杉(ヤクルト)。
もっと古くは、
大洋の秋山-土井のバッテリー。(こういっても、ほとんどの人は『誰、それ??』ってなもんでしょうが)

確かにその頃のプロ野球には、
キラ星のごとく”岡山県出身選手”が散らばり、
大活躍していました。

隣県の広島と中国地方の覇を競う岡山県。
広島に負けじと、
毎年好チームを甲子園に送っていました。

特に岡山東商は岡山では名門中の名門。
昭和40年には平松を擁し、
見事にセンバツを制覇しています。

昭和40年代から50年代にかけては岡山東商の黄金時代。

『いつ全国制覇するんだろう』
と見られていた時期でした。

昭和46年のライト投手、48・49年の土居投手、50年の寒川投手、51年の原投手など、
毎年【大会屈指】の投手を輩出し、
優勝候補の一角に必ず顔を揃えていました。

しかしながら、
勝利の女神はいつも微笑まず。

『あれだけ力がありながら、なぜ・・・・』

と言われていたのを思い出します。


そんな岡山東商が春夏連続出場を果たして、
最後の輝きを放ったのが昭和53年のチーム。

エースは横手から”超遅球”を操る籔井投手でした。

今までの”剛腕エース”の系譜からすると、
とてもレアなチームとしての甲子園登場。
実力は今までの甲子園出場チームと比べて、
一段落ちるのではないかというものでした。

しかし勝負とはやってみなければわからないもの。

このチーム、
確かに投手力は安定せず、
打線も力はあるが大物打ちがそんなにいるわけではありませんでした。

だけどこのチームには、
今までにはなかった武器が。
それは『集中力』と『粘り』でした。

『終盤までしっかり粘り、機を見て一気に集中た攻撃で、相手を崩す』
それがチームカラー。

サッカーのチームによくある【堅守速攻】のようなカラーで、
この年の甲子園を席巻しました。

そのチームにあってラッキーボーイだったのが、
この石岡選手。

彼は当時2年生でしたが、
2回戦の福井商業戦の最終回に、
輝きを見せてくれました。

選抜準優勝校にして、
今大会でも優勝候補に名を連ねる福井商。

エースは下手投げの好投手、板倉です。

8回までその板倉に完全に抑えられていた岡山東商は、
最終回に持ち前の粘りを見せて1死1・2塁のチャンスを迎えます。

ここで登場したのが5番の石岡。

登場した石岡が注目を集めたのはそのバット。
彼の手には、
木のバットがしっかりと握られていました。

当時の高校野球。
金属バットの導入から5年目を迎え、
ほぼ全選手が金属バットを”主武器”としてバッターボックスに向かいました。
木のバットを使っていた選手は、
石岡選手以外に記憶がありません。

しかし彼は『普段から使っていて、感触がいい』ということで、
使い慣れた木のバットを、それまで使っていた金属バットから持ち替え、
バッターボックスに向かっていきました。

果たして板倉の投げた外角球、
その”木のバット”が鋭く振り抜かれたと思った瞬間、
打球は勢いを増して右中間を鋭く抜けていきました。

そして2者が歓喜のホームイン。
岡山東商が、
難敵の福井商を下した瞬間でした。

マウンド上でがっくりとうなだれる板倉投手、
その姿が忘れられません。

石岡選手は波に乗って、
3回戦の旭川龍谷戦でも逆転の決勝3ラン。
見事な活躍でチームを準々決勝に導きました。

そして準々決勝は、
3年連続進出の、栽監督率いる豊見城高校。
豊見城はまさに全盛期。

3年連続の春夏連続出場で、
夏は3年連続の8強。

小柄ながら身体能力の高い選手たちをそろえ、
甲子園を沸かせる”主役”のチームのひとつでした。
指笛と大歓声。
豊見城というチームは、いつも甲子園を沸かせてくれました。

この年のチームの中心は、
プロ野球でも大活躍する石嶺捕手。

豊見城としては、
投打の充実ぶりはこのチームが3年間で最高だったように思います。
この年、
両チームの他の8強進出チームは、
PL学園、天理、県岐阜商、高知商、報徳学園、中京。

どのチームも『ものすごく強い』チームで、
豊見城を応援していたワタシは抽選で、
『岡山東商を引くしかないな』
と考えていたという思い出もあります。

豊見城としても、
『しめた』
という思いがあったことでしょう。

しかし岡山東商は、
この試合でも信じられないような『粘りと集中力』を見せつけます。

試合は豊見城ペースで終盤へ。
2-5とリードされて敗色濃厚だった岡山東商は、
この回の攻撃でまさに”蘇った”様に集中力を発揮。
あっという間に連打で追いつき、
試合を延長戦にもつれ込ませました。

そして延長10回、
疲れの見えた豊見城のエース・神里から1死満塁のチャンスをつかむと、
次打者がピッチャー横へ渾身のスクイズ。

神里投手必死のグラブトスも、
ボールは無情にも石嶺捕手の横をすり抜け・・・・。

そのシーン、
スローモーションのように思い浮かべることが出来ます。

豊見城はこの大会の初戦の我孫子戦でも、
延長10回にサヨナラ犠飛で決着をつける激闘を演じているのですが、
その前のシーン、
スクイズをした球が三塁線上で止まりサヨナラ!の寸前にコロコロとファールゾーンに転がって、
ファールになったシーンも思い浮かんだりします。

豊見城とは、
そういう『激闘の記憶』にたくさんのシーンを残す、
本当に素晴らしいチームだったんです。


おっと、
岡山東商のことでしたね。

この激闘に勝ち4強に進んだ岡山東商でしたが、
そこでは高知商になすすべもなくひねられ、
悲願の決勝進出はなりませんでした。

そしてこの年を最後に、
岡山東商は甲子園の表舞台から、
静かに消えていってしまうのでした。(2回ほど、ちょっぴり顔見せはしてくれましたが)

さらに言えば、
激闘を繰り広げた豊見城も、
栽監督の沖縄水産への転任とともに、
表舞台からは姿を消しました。

この激闘からもう34年。

両校の今が、
気になって仕方がありません。

【古豪復活】
その日を待ち望んでいます。


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