今朝、
大沢親分こと大沢啓二氏がなくなりました。
78歳でした。
大沢親分というと、
若い人たちはTBSの番組内での張本氏との掛け合い『喝!あっぱれ!』が思い浮かぶでしょうが、
パ・リーグをこよなく愛してやまない私にとっては、
やはり日ハムの監督時代のユニフォーム姿が思い浮かびますね。
キップのいい采配で、
東映時代から弱小だった日ハムを強豪に仕立て上げました。
特に光ったのは昭和55年ごろから。
スーパールーキーの木田勇を擁して、
近鉄との後期最終決戦(その当時のパ・リーグは2期制でした)に臨んだあたりから押しも押されぬ強豪となり、
翌56年には念願の初優勝(日ハムとして)を成し遂げました。
野球が大好きだった日ハムの大社オーナーと共に、
ビールかけで樽を割りながら雄たけびを上げていた姿を、
今でも思い出します。
ちなみに、
55年の近鉄との決戦は、
パ・リーグ始まって以来とも言うべき盛り上がり方を見せました。
後楽園球場は超満員。
『こんなに日ハムファンっていっぱいいたんだ!』
と驚いたのを思い出します。
翌57年は、
西武が広岡監督を招聘。
企業の勢いそのままに『球界の盟主を目指す』と堤オーナーが高らかに宣言していたライオンズに対して、
歯をむき出しにして対抗意識を燃やしていたのが、
この年にディフェンディングチャンピオンでもあった日ハムの監督・大沢親分でしたっけ。
広岡監督が、
『プロ野球選手のコンディション作りのために、選手は玄米食を食べろ』
と提唱し話題になると、
すかさず大沢親分は、
『てやんでえ。プロ野球選手は体が資本だが、朝から晩まで葉っぱみてえなもん食ってる【やぎさんチーム】に負けるわきゃあねえんだ。』
と鋭く噛み付いていました。
当時のパ・リーグは、
スポーツ紙の一面を飾ることはほとんどない時代でしたから、
こうやって意識的に盛り上げていたんでしょうね。
だけど、
生粋のパ・リーグ育ちであった親分は、
やっぱりセ・リーグ、それも巨人から来た管理野球の広岡さんには負けたくなかったという面も多分にあったとは思います。
この年は西武が初優勝。
日ハムは後期を制しましたが、
プレーオフで頼みの守護神・江夏が西武のプッシュバント攻撃の前に撃沈。
この年を持って大沢親分も一線から退き、
日ハムの黄金時代は去ったのでした。
55~57年の黄金時代の日ハムは、
大沢親分の性格そのままの、
キップのいい野球を見せてくれました。
打線は島田誠、高代の俊足にして小技の利く1・2番でチャンスを演出。
3番”カリブの怪人”ソレイタ。4番”チームリーダー”柏原。5番はチャンスにめっぽう強いクルーズと素晴らしいクリーンアップで得点を重ね、下位にも古屋・大宮・菅野などのひと癖もふた癖もある面々が並ぶ、なかなかの強力打線でした。
投手は日替わりでしたが、
高橋一、高橋里、岡部、間柴、工藤、木田などその年その年で調子のいいピッチャーをローテーションの中心にすえて”守護神”江夏につなぐというパターンを確立しました。
球界は西武の参入で新時代を迎えつつありましたが、
まさに”古き良き”パ・リーグの残り香を強烈に放ちながら勝ち進むチームでした。
そして、
中心にはいつも大沢親分がデンと控える【大沢親分のチーム】でしたね。
オーナー、監督があそこまで情熱を傾け、
一枚岩となって突き進んでいくチーム、
もう出て来ないかもしれません。
いいチームでした。
忘れられません。
ワタシはそのころから【西武命】の大ファンでしたが、
日ハムのことは【敵ながら天晴れ】といつも思っていましたよ。
実際には日ハムのチームカラーは好きでしたね。
そして、
あの頃のパ・リーグファンは、
どこが出場しようとも日本シリーズでは、
パ・リーグのチームを強烈に応援していました。
特に日ハムの出場した56年は相手が巨人だったこともあり、
必死に応援していたことも思い出します。
(あの頃は強烈にアンチ巨人でしたからねえ。今じゃ考えられないけど・・・・)
大沢親分とあの青っぽいユニフォーム。
まぶたに焼き付いています。
神奈川出身なのに江戸っ子そのもののような大沢親分。
実はワタシの兄の家のご近所さんで、
酒席を共にしたことも何度かある兄の話では、
イメージそのままの、飾らない素晴らしい人柄の人だとのことでした。
ワタシもいつかいろんな”面白ばなし”聞いてみたいなあと思っていたのに、
早すぎますよ。
沢山の思い出を残してくれて、
ありがとうございました。
そして、
さようなら、大沢親分!!
大沢親分こと大沢啓二氏がなくなりました。
78歳でした。
大沢親分というと、
若い人たちはTBSの番組内での張本氏との掛け合い『喝!あっぱれ!』が思い浮かぶでしょうが、
パ・リーグをこよなく愛してやまない私にとっては、
やはり日ハムの監督時代のユニフォーム姿が思い浮かびますね。
キップのいい采配で、
東映時代から弱小だった日ハムを強豪に仕立て上げました。
特に光ったのは昭和55年ごろから。
スーパールーキーの木田勇を擁して、
近鉄との後期最終決戦(その当時のパ・リーグは2期制でした)に臨んだあたりから押しも押されぬ強豪となり、
翌56年には念願の初優勝(日ハムとして)を成し遂げました。
野球が大好きだった日ハムの大社オーナーと共に、
ビールかけで樽を割りながら雄たけびを上げていた姿を、
今でも思い出します。
ちなみに、
55年の近鉄との決戦は、
パ・リーグ始まって以来とも言うべき盛り上がり方を見せました。
後楽園球場は超満員。
『こんなに日ハムファンっていっぱいいたんだ!』
と驚いたのを思い出します。
翌57年は、
西武が広岡監督を招聘。
企業の勢いそのままに『球界の盟主を目指す』と堤オーナーが高らかに宣言していたライオンズに対して、
歯をむき出しにして対抗意識を燃やしていたのが、
この年にディフェンディングチャンピオンでもあった日ハムの監督・大沢親分でしたっけ。
広岡監督が、
『プロ野球選手のコンディション作りのために、選手は玄米食を食べろ』
と提唱し話題になると、
すかさず大沢親分は、
『てやんでえ。プロ野球選手は体が資本だが、朝から晩まで葉っぱみてえなもん食ってる【やぎさんチーム】に負けるわきゃあねえんだ。』
と鋭く噛み付いていました。
当時のパ・リーグは、
スポーツ紙の一面を飾ることはほとんどない時代でしたから、
こうやって意識的に盛り上げていたんでしょうね。
だけど、
生粋のパ・リーグ育ちであった親分は、
やっぱりセ・リーグ、それも巨人から来た管理野球の広岡さんには負けたくなかったという面も多分にあったとは思います。
この年は西武が初優勝。
日ハムは後期を制しましたが、
プレーオフで頼みの守護神・江夏が西武のプッシュバント攻撃の前に撃沈。
この年を持って大沢親分も一線から退き、
日ハムの黄金時代は去ったのでした。
55~57年の黄金時代の日ハムは、
大沢親分の性格そのままの、
キップのいい野球を見せてくれました。
打線は島田誠、高代の俊足にして小技の利く1・2番でチャンスを演出。
3番”カリブの怪人”ソレイタ。4番”チームリーダー”柏原。5番はチャンスにめっぽう強いクルーズと素晴らしいクリーンアップで得点を重ね、下位にも古屋・大宮・菅野などのひと癖もふた癖もある面々が並ぶ、なかなかの強力打線でした。
投手は日替わりでしたが、
高橋一、高橋里、岡部、間柴、工藤、木田などその年その年で調子のいいピッチャーをローテーションの中心にすえて”守護神”江夏につなぐというパターンを確立しました。
球界は西武の参入で新時代を迎えつつありましたが、
まさに”古き良き”パ・リーグの残り香を強烈に放ちながら勝ち進むチームでした。
そして、
中心にはいつも大沢親分がデンと控える【大沢親分のチーム】でしたね。
オーナー、監督があそこまで情熱を傾け、
一枚岩となって突き進んでいくチーム、
もう出て来ないかもしれません。
いいチームでした。
忘れられません。
ワタシはそのころから【西武命】の大ファンでしたが、
日ハムのことは【敵ながら天晴れ】といつも思っていましたよ。
実際には日ハムのチームカラーは好きでしたね。
そして、
あの頃のパ・リーグファンは、
どこが出場しようとも日本シリーズでは、
パ・リーグのチームを強烈に応援していました。
特に日ハムの出場した56年は相手が巨人だったこともあり、
必死に応援していたことも思い出します。
(あの頃は強烈にアンチ巨人でしたからねえ。今じゃ考えられないけど・・・・)
大沢親分とあの青っぽいユニフォーム。
まぶたに焼き付いています。
神奈川出身なのに江戸っ子そのもののような大沢親分。
実はワタシの兄の家のご近所さんで、
酒席を共にしたことも何度かある兄の話では、
イメージそのままの、飾らない素晴らしい人柄の人だとのことでした。
ワタシもいつかいろんな”面白ばなし”聞いてみたいなあと思っていたのに、
早すぎますよ。
沢山の思い出を残してくれて、
ありがとうございました。
そして、
さようなら、大沢親分!!