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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

帝京・前田監督の50年と東東京の高校野球(その2)

2021年09月01日 | 高校野球

96年選抜の敗戦。

前田監督は、
95年の優勝で、一度立ち止まって自分の監督人生を考えたというのを、
手記などで拝見したことがあります。

「あのやり方は正しかったのか?」
「もっと違ったアプローチもあるのではないか?」

そんなことを自問自答する日々だったのかな?
そんな風に思います。

森本が主将だった98年のチームは、
95年ぐらいまでのやり方とは全く違ったアプローチでのチーム作りだったそうですね。

前田監督が長年やってきた、
「選手にプレッシャーをかけて精神的な強さを養う」
「這い上がってきた気持ちの強い選手で戦う」
というやり方から、
選手の自主性に任せたやり方に変えてみたとのことでした。

しかしやはり追い込んでいないというところが苦しい戦いの中で顔を出すからなのか、
帝京はこのあたりから、
90年代前半のあの強さを出すことがなくなりましたね。

99年から01年までの3年間、
東東京の代表は都立城東、日大豊山、都立城東となっていますが、
ほとんど甲子園では活躍できませんでした。
02年の帝京を挟んで03年は都立雪谷が初出場を果たしています。

各年の代表校を見ていて、
ワタシは「帝京が強かった頃や東東京が強かった頃なら、絶対に甲子園までは届いていないチームだなあ」
なんて思っていた時期でした。

東京の高校野球という事に範囲を広げると、
90年代後半からはまさに西東京勢が台頭してきて、
東西の実力バランスが崩れてきたという事が如実に表れてくる時期になりました。

西東京では、
まずは日大三に小倉監督が就任して全く新しいチーム作りを行い台頭。
さらに早実が校舎移転に伴い東から西にお引っ越しをし、
それを機に再度野球部の強化に力を入れ出しました。

ということで、
日大三、早実という”東京の老舗”の2校が本格的に強豪に育っていったのを機に、
東京の高校野球は東から西へという事になっていきました。

00年からの戦績を比べるとそれが顕著に表れています。
この20年余りで西東京は優勝3回、4強3回という実績を残していますが、
東東京は4強2回のみ、決勝進出はなし(うち1回は帝京)という実績にとどまっています。

東東京は、
97年以降の帝京の退潮傾向からの混とんとした時代を経て、
新時代を迎えました。

しかし帝京も完全に力を落とすことはなく、
チームの構成を変えながら、
00年代~10年代初頭にかけては、
チャレンジを続けていました。

ライバルである関東一が米沢監督とともに力を伸ばしてきて帝京との2強時代になりましたが、
帝京は絶対的な強さはないものの、
なかなかいいチームを作り上げてきました。
このあたりが「第2期黄金時代」と言えるかもしれません。

02年には高市投手に強力打線がうまく絡んで、
選手権で4強に進出。

06年のチームは2年生の投の2本柱、大田・垣ケ原を擁して8強へ。
準々決勝では智辯和歌山と壮絶な、球史に残る打撃戦を展開。
12-13と敗れたものの「帝京健在」というものを全国に見せつけました。

このあたりになると、
前田監督のとんがったところが取れて、
いい感じに選手と融合したチームを作ってきていました。

翌年07年は、
大田、垣ケ原の投の2本柱を中心に前年の選手権を経験した選手が多数残り、
久しぶりの全国制覇が十分に期待された年だったと思います。

迎えた選抜では打線が爆発して4強まで圧勝で進出するも、
準決勝の大垣日大戦では先発した高島が乱れビハインドからの戦いとなり、
最後まで追いつけずに敗れました。

ワタシはこの年の帝京は相当力を持ったチームだと思っていた(今でも思っている)ので、
この敗戦はかなり痛恨だったと思います。
全国制覇する力、十分にあったと思います。

夏も順調に8強まで来たものの、
佐賀北の勢いに飲み込まれてのまさかのサヨナラ負けでした。

もう15年も前の事なのでグチを言いたくはありませんが、
なんだかあの大会については、
佐賀北のかかわるこの帝京戦は、決勝の広陵戦同様、
審判のジャッジなどについても佐賀北の勢いに飲み込まれた感が、
しなくもないんですよね。

この07年のチームで敗れてから、
何だか全国制覇というのは、
やっぱり果てしなく遠いものなんだなあと感じることが、
多くなってきてしまいました。

次に出た09年の選手権では、
1年生の伊藤投手の球速が話題になりました。
しかし大田阿斗里といい伊藤といい、
下級生から活躍した投手が最後の夏に、
期待した通りの成長を見せてくれることはありませんでしたね。

期待が大きかっただけに、
残念な思いも大きかったのを覚えています。

10年の選抜での伊藤投手は素晴らしいピッチングをしましたが、
敗れた準々決勝の興南戦は、
鈴木ー山崎のリレーでの完敗でした。

そして翌11年夏。
伊藤が最後の夏という事で、
かなり話題に上ったチームでしたが、
伊藤は初戦の花巻東戦に投げたものの本調子には程遠く、
2回戦は鈴木ー石倉のリレーで臨んで9回に大逆転の満塁ホームランを浴びて敗れ去りました。

その大逆転負けが、
結果的に前田監督の甲子園での最後の雄姿となりました。

この02年から11年まで、
帝京は出場した7回の甲子園で、
初戦負けは一度もありません。
そこは特筆できることだと思います。

黄金時代と定義づけできる90年代でも4度、
その前の80年代でも4度の初戦負けを喫している帝京。

26回の出場で9回の初戦負けを喫しているわけですから、
いかに最後の10年間で安定した成績を残したかがわかろうというものです。

80年代、90年代にとんがったチーム作りと野球で何度も甲子園の決勝に進出し、
全国制覇3回、決勝進出2回を誇った帝京。
最後の10年間で、
温厚になった前田監督がたどり着いたチーム作りで、
頂点は極めなかったものの負けないチーム作りを推進し、
しっかりと実績を残した。。。。。

そういう事が言えるのではないでしょうかね。

11年以降は甲子園には届かなかったものの、
東京都大会や関東大会で何度もその姿をお見受けした前田監督。

近くの学校へ練習試合に来た時などは、
その芸術的なノックを見て、
「ほ~っ」
とため息をついたこともあります。

最後の数年間などは、
かつてのギラギラした前田監督の姿はありませんでしたが、
穏やかにグラウンド全体を俯瞰して見ている姿があったり、
それなりに「名将」のたたずまいを楽しませてもらいました。

ワタシの高校野球の見方。

まずは監督さんを見るのが大好きで、
選手よりもそちらの方に目が行ってしまうことが、
しばしばあったりします。

特に昔から見ている監督さんに対する思い入れは強くて、
見ているだけで楽しくなったりしています。

そんな監督さんの中でも特別だった前田監督がグラウンドを去る日が、
来てしまったんですね。

いつか来る日と思ってはいたものの、
残念でなりません。

そういえば今夏の東京ドームでの東東京大会準決勝、二松学舎大付属戦。
最後なんて思いもせずに、
ワタシはしっかりと試合を観戦しました。

今になって思うと、
「もっとしっかりと目に焼き付けておけば、よかったなあ。。。。あのノック、もう見られないんだなあ」
そんなこと、思っています。

前田監督。
長きにわたる監督生活、お疲れさまでした。

たくさんの激闘が、
頭に思い浮かんできます。

東京の高校野球のレベルを引き上げてくれた功績、
すごく大きいものがあると思います。

今後は渡辺監督、高嶋監督、山下監督らとともに、
解説者としてお耳にかかれること、
楽しみにしています。




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