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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

夏の甲子園名勝負集 その1 

2010年06月15日 | 高校野球名勝負

趣味のブログですから・・・・・
好きなこと、やらせてもらいます。
お付き合いしていただくと、
嬉しいなあ。


ということで、
天下御免の高校野球フリークのワタシ。
今年も夏の甲子園予選を前にして、
胸の高鳴りがMAXとなっています。

生まれてこのかた毎年毎年、
よくも飽きずに見ることが出来るねえと周りには言われ続けていますが、
ワタシからすると
『よくも毎年、こんなに胸高鳴るゲームを生産し続けてくれますねエ、甲子園さん』
といったところ。

高校野球観戦歴も40年にならんとする今年、
やっぱり書きたくなるのは、
【心に残る名勝負】
のことでしょう。

あんなゲームがあった!
こんな凄いゲームがあった!
このゲームははずせない!
知ってもらいたい!

こんな試合の数々を、
思いつくまま気の向くまま・・・・。

まず第1回は、物心ついた昭和46年から49年まで。


【思い出の名勝負】

昭和40年代

①S46 決勝  
桐蔭学園(神奈川) 1-0 磐城(福島)

”小さな大投手”田村力尽き、桐蔭が初出場優勝で神奈川V2

  桐蔭が初出場初優勝を飾ったのだが、大会の主役は磐城高校。”小さな大投手”田村を擁し、初戦で好投手・保坂を擁する東京の日大一を破り波に乗った。あれよあれよという間に田村が無失点で決勝に進出。決勝の桐蔭戦は、桐蔭のエース大塚との投げあいになったが、7回ついに桐蔭主将の土屋(現桐蔭学園監督)に決勝の3塁打を打たれて敗れ去った。
  コバルトブルー旋風といわれた磐城は、【小柄な全員野球のチーム】【炭鉱閉山でチームがばらばらになる危機】【県内有数の進学校】という、高校野球ファンの琴線に引っかかりまくるチームだったため、判官びいきも手伝って、常に大声援を背中に受けての戦いぶりだった。


②S47 1回戦
高知商(高知) 4-2 日大桜ヶ丘(東京)  (延長11回)

高知商、気迫で春のリベンジ。ジャンボ仲根涙で甲子園を去る

  春の選抜で圧倒的な力を見せて優勝した日大桜ヶ丘。エースの”ジャンボ”仲根は難攻不落。ちょっとやそっとでは攻略できない投手だった。その選抜で日大桜ヶ丘を最も苦しめたのが”野球王国”高知代表の高知商。あろうことか、春夏連続出場を決めた両チーム、夏の選手権では初戦で激突した。試合は一進一退。仲根は春に比べると幾分調子を落としていたものの、それでも高知商打線を抑えていく。しかし肝心の打線が火を噴かない日大桜ヶ丘は、先制された1点を追いつけず終盤へ。異様な雰囲気の中、桜ヶ丘が8回に追いつくと高知商が9回に突き放し、それを土壇場でまた桜ヶ丘が追いつくという、手に汗握る展開だった。最後は延長11回、気迫に勝る高知商が2点を勝ち越し、春の雪辱を果たして2回戦に進出した。
物心ついてすぐの試合で、試合の細かな内容はほとんど記憶に残ってはいないのだが、ココロに残っているのは高知代表は恐ろしいということ。その刷り込みは、40年近くたった今でもワタシの心の奥底に眠っている。
  ちなみに日大桜ヶ丘は、”東都のステンゲル”香椎監督に率いられた、この年のみの花火のようなチームで、そこから先は一度も甲子園の土を踏めていない。


③S48 1回戦
作新学院(栃木) 2-1 柳川商(福岡)  (延長15回)

江川攻略も惜敗。柳川商のバスター戦法に甲子園沸く

  『江川に始まり江川に終わった』といわれた昭和48年の高校野球界。【怪物】といわれた江川は、今で言うと155~158キロ程度の速球を投げ、制球力・変化球のキレ共に抜群の投手。春は新チーム結成から139イニング無失点で甲子園にやってきて、準決勝の広島商戦で相手の足攻と味方のエラーで2失点負け。そしてそこから夏の甲子園まで、またまた140イニング無失点。予選5試合ではわずか被安打3。まあ、とにもかくにも『不世出の大投手』といっていい投手でした。
  勿論、プロの江川は並みよりちょっと上程度の面白みのないピッチャーになってしまいましたが・・・・ね。
  その江川をあわてさせたのが、福岡の雄・柳川商のバスターヒッティング。バントの構えから、江川の投球と同時にタイミングを合わせてバットを引きヒッティングするというやり方は、江川に7安打を浴びせたことからも大成功を収めたといえる。これを考案した若き柳川商の指揮官、福田精一監督は、その後長く”名将”と謳われました。
  最後は作新の底力が勝ったものの、柳川商の勝負への執念が光った対戦でした。しかし、この投球を見ていた他校の選手たちが、『江川絶対ではないぞ』という意を強く持ったのは、想像に難くないですね。そして江川は、悲劇へと向かっていきます。

④S48 2回戦  
銚子商(千葉) 1-0 作新学院(栃木)  (延長12回)

銚子商の執念!ついに4度目の対戦で江川を倒す

  『江川を倒すなら、広商か銚商』といわれていた予言がピタリと当たり、銚子商が執念で江川攻略を成し遂げた。
  江川が大会に入ってから本調子でないのは明らかだったが、実力が伴わなかったのか、それとも巷間言われている”(江川への)つまらない嫉妬”からモチベーションが上がらなかったのか、作新学院のバックが全くエースを援護することなく、まさに『1点取られたら負け』から脱することができなかったのが惜しまれる。
  作新は地方大会のチーム打率が2割そこそこ。甲子園でも2試合27イニングでわずか2得点。伝統のあるチームであるにもかかわらず、こんなチーム状態にしてしまった当時の指揮官は、責を負わされても仕方のないことだろう。よく比較されるのは松坂の横浜高校だが、当時の横浜と作新を比べると、まさにチーム力は雲泥の差。時代の違いもあるが、指揮官のチーム作りに大きな違いがあった。
  作新は、まともなチームさえ作っていれば間違いなく春夏連覇を達成できたチームだったと思う。その当時の監督が何回も復帰したりやめたりを繰り返していた後年、作新のチーム力が落ちていって、昨年まで長く甲子園不出場の”空白期間”を作ってしまったのは、ある意味必然か。
  作新は、サヨナラ負け寸前で走塁妨害まがいのブロックを行って防いで見たり、何かと負のイメージが強くなってしまった試合であった。
  反対に、黒潮打線の銚子商は見事。この年は準々決勝で敗れてしまうが、翌年完璧なチームを作り上げて、悲願の全国制覇を達成する。名将・斉藤監督の猛練習は語り草。練習試合を見学に行ったとき、円陣で見せた斉藤監督のあまりの怖さに小学生ながらぶるってしまい、『銚子商だけには絶対に行くまい』と心に決めた、というばかばかしいエピソードもある。


⑤S48 決勝 
広島商(広島) 3-2 静岡(静岡)

広商野球最後まで!サヨナラスクイズで、熱い夏を制した!

  広島商は、春の選抜準優勝ながら、大会前はエース佃の状態が思わしくなく、本命視されていなかった。勿論本命は作新。しかし、大会に入ってからは見違えるほどの充実振りを見せて随所に”広商野球”を披露。その洗練された攻守は『高校野球のお手本』といわれたものだ。特に日田林工戦で見せた”2ランスクイズ”は、高校野球の戦術に新たな1ページを加えたといわれた。
  対する静岡は、強力打線で相手をことごとく粉砕。ダークホースから一気に駆け上がっての決勝進出。初戦の海星(長崎)戦から始まって、天理・銚子商・今治西と強豪をことごとく退けてきた打線の力が、当時としては破格。
  決勝という舞台にふさわしい、一進一退の攻防が9回まで続いて、最終回の広島商はサヨナラのチャンス。ここで広商ベンチは、やっぱりというかさすがというか、スクイズを選択。スリーバントスクイズを見事に決め、優勝をもぎ取った。
  広島商は、”真剣渡り”(日本刀の刃の上を、裸足になった選手が精神統一して歩く危険極まりない練習)に見られるように、とにかくどんな展開にも動じない精神力と精度抜群の小技・足攻の仕掛け。スクイズは100%の成功と、相手に仕掛けられた場合は100%の外し、というものすごいベンチワークで、この時代の高校野球のエキスをすべて持ったチームだった。春の江川崩し、夏の強打・静岡を破ったサヨナラスクイズと、広商野球を存分に見せた戦いだった。

⑥S49 2回戦  
東海大相模(神奈川) 4-3 土浦日大(茨城) (延長16回)

延長15回の熱闘。東海大相模、剛腕工藤をついに打ち崩す


  ”ポスト江川”のこの年、江川に鍛えられた関東の豪腕トリオが、揃って高校野球界に君臨した。まずひとりめは、前年の選抜を制した豪腕・永川(横浜)。そして、前年江川を破った怪腕・土屋(銚子商)。最後にポテンシャルは一番とも言われた、剛球・工藤(土浦日大)。
  3人共に180センチを優に超える長身のガッチリした体からものすごい球を投げる右腕で、【関東3羽ガラス】と呼ばれた。選抜では3人が揃って出場。しかし、3人とも『小粒ながらぴりりと辛い』西日本の野球に足元をすくわれ敗退。夏の最後のチャンスに捲土重来を期していた。
  銚子商、土浦日大は予選を危なげなく勝ち上がり甲子園へ。優勝候補の1・2番手と言われたが、横浜は永川の奮闘むなしく、予選の決勝で東海大相模に苦杯を喫してしまう。その東海大相模には、こののち3年間高校野球界を席巻する、原・津末の豪打コンビにエースの村中が1年生としてメンバーにガッチリと座っていた。
  果たして、甲子園での初戦。土浦日大と東海大相模は激突する。戦前の予想は、圧倒的に土浦日大。その予想通り、8回に主砲・荒川のHRでリードを奪った土浦日大が、工藤の好投でそのまま逃げ切るかに思われた。9回も簡単に2死。しかしここから、東海大相模の素晴らしい勝利への執念を見ることになる。四球のランナーが2盗成功。すかさず次打者がタイムリーを放ち、同点に追いついたのだ。
  そこから先16回までの間、東海大相模は1年生の左腕・村中を立てて必死の防戦。土浦日大・工藤も大会屈指の実力を発揮して、サヨナラを許さない戦いとなった。日も暮れなずんできた16回、東海大相模はついに工藤を捕らえて、1死満塁から歓喜のサヨナラヒット。
  東海大相模は、この後の大活躍を暗示する素晴らしい勝利で、高校野球界の中心へと駆け上がっていきます。しかしワタシは、もし土浦日大が勝利していたらと言うことを、つい考えてしまいます。そうなっていたら・・・・・そして決勝で銚子商と対戦していたら・・・・・いまだかつてない豪腕同士の痺れる決勝だったのになあ・・・なんて、空想の世界に遊んでしまいます。


⑦S49 2回戦  
平安(京都) 5-4 上尾(埼玉) (延長13回)

押しに押す上尾に勝利の女神はついに微笑まず


  生まれてから高校生の頃まで、埼玉県に住んでいたワタシ。当然高校野球においても、『何はなくとも埼玉代表を一番に応援!』
  ということで、熱狂的に応援する埼玉代表ですが、いまだにこの目で大優勝旗を手にしたところを見ることはありません。しかし、昭和40年代終わり~50年代にかけて、何度かワタシを熱狂の渦へと巻き込んでくれたチームがありました。その代表格が、なんといっても野本監督率いる上尾高校。
  このあたりの年代では、埼玉代表は関東大会に行くと、その当時バカ強だった千葉、神奈川代表をはじめ、栃木、群馬、東京代表などにいいように蹂躙され続ける悲哀をイヤというほど味わされてきました。(その頃埼玉、山梨、茨城は弱小県として
相手にされていませんでした)。
  だけど、前年の昭和48年に小粒ながらピリリと辛い川越工業が甲子園ベスト4に進出して、明らかに流れが変わってきたのを感じました。この49年、上尾高校は夏の甲子園初出場。しかしその打線の力と、エース松久の下手投げの安定感はかなりのもので、ワタシの期待も高まっていました。
  甲子園1回戦に快勝して臨んだ2回戦。相手は選抜ベスト4の強豪・平安でした。この年の平安は長らくの低迷期を抜け、エース山根を中心としたしぶとい攻守で、候補の一角に上がるほどの戦力。しかし上尾ナインの目がギラギラしていたのを覚えています。
  実はこの前日、ワタシは初めて甲子園で高校野球を生観戦。土屋・篠塚(銚子商)、定岡(鹿実)らを見て興奮していました。(本当は上尾の試合を見たかったんですが言えず。)
  朝からTVの前に陣取り、やいのやいのと応援に熱が入りました。印象に残っているのは、上尾のエース松久の好投。1回戦で当時の高校野球記録である6連打を記録した強力打線の平安を向こうに回し、下手からキレのいい球で打ち取っていく姿、まぶたに残っています。磐城の【小さな大投手】田村を髣髴とさせるものでした。
試合は延長13回、押しに押す上尾の猛攻を堪えた平安が1死三塁のチャンスを掴みます。スクイズかと思われたバッターは強攻。打球は鋭くセンター前へ・・・・・・と思われた瞬間エースの松久が好捕。その瞬間、心底ほっとしたのを覚えています。しかしながら、次の打者の詰まったなんでもないピッチャーゴロが、鋭い回転によって松久のグラブをはじき、無念のサヨナラ負け!  ワタシも朝から、涙に呉れてしまいました。 
  この後次々に甲子園に【印象に残る試合】をつむぐ上尾高校。その最初の戦いが、この試合だったといえるでしょう。


⑧S49 準々決勝  
鹿児島実(鹿児島) 5-4 東海大相模(神奈川) (延長15回)

カクテル光線に照らされて。球史に残る戦いの結末は鹿実へ

  好勝負の多かった今大会。そして、たくさんの大選手を生んだ大会でもありました。その中で、忘れられない好勝負といえば、この準々決勝が思い起こされます。カクテル光線の中で、両軍の選手がこんなに輝いていた試合も珍しい。ワタシは、ナイターでの名勝負といって真っ先に思い浮かぶのが、54年の箕島-星稜戦と、この試合です。
  東海大相模は、初戦で優勝候補の土浦日大を破り、一躍優勝候補に名前が躍り出ていました。県の決勝でも横浜を下し、関東三羽烏のうち2つを破っての進出。ベスト8を迎えるときの展望としては、銚子商と東海大相模の評価が圧倒的でした。対する鹿実は、好投手定岡が好調。打線の破壊力はないものの(2試合戦ってわずか得点が2。)、好勝負が期待される一戦でした。
  試合は東海大相模がまず初回に2点。これを見たとき、だれもが『この試合は相模の圧勝』と思ったことでしょう。しかしながら、すぐに3点を返した鹿実がリードを保ち最終回2死までこぎつけます。
  だが、ここからが東海大相模の真骨頂。土浦日大戦に続き、2死から見事に同点に追いつき、試合は延長へ。この頃の東海大相模はとにかく粘り強く、原監督のカラーがにじみ出る『気迫あふれる』チームでした。この大会の土浦日大、鹿実、翌年の選抜・豊見城戦と3試合も9回2死から追いつく粘りを見せています。
  延長は14回に鹿実が1点を勝ち越すと、すぐその裏東海大相模が追いつき、サヨナラのチャンス。バッターの打った打球はセカンドを超えてセンターへ。サヨナラだ~と思った瞬間、セカンド中村選手の高校野球史に残る超ファインプレーが出てサヨナラを防ぎ、15回に1点を勝ち越した鹿実が東海大相模の反撃を振り切って、準決勝に進出しました。
  とにかく感動の一語に尽きる凄い戦いでした。
  ちなみに、両チームの地元以外では、この試合はテレビ放送が終わってしまい、ラジオでの観戦でした。14回の中村選手の超ファインプレー、興奮したアナウンサーが何を言っているのかがよくわからず、ちょっと経ってからようやく事の次第がわかったものでした。(今と違ってラジオの高校野球放送はアナウンサーひとりだけ。解説者はいませんでした。)
  それにしても、この対戦を見ていた長嶋監督が、周りの反対を押し切って定岡をドラフト1位で指名するのはこの秋のことです。対戦相手の1年生5番、原辰徳も巨人入団。やはり、キラキラ輝く選手は巨人へ・・・・・という磁力が働いていたんでしょうなあ、あの頃は。
  いずれにしても、忘れることの出来ない名勝負です。


⑨S49 準決勝  
防府商(山口) 2-1 鹿児島実(鹿児島)

定岡に悲劇が襲う。防府商、感激の決勝へ

  鹿実が夜になった試合で劇的な勝利を収めた翌朝、今度は悲劇が襲うんですから、甲子園の女神というのは気まぐれなもの。しかし、その後の”定岡人気”を決定付けた試合も、名勝負に加えなきゃならんと思います。
  前日の疲労が色濃く残る鹿実のマウンドには、前日15回を投げきった定岡。相手は初出場の防府商です。
  防府商は、初出場ながら山口代表らしいしぶとさを持ったチーム。甲子園では接戦を”負けない野球”で勝ち抜いての進出でした。山口代表といえば、2年前の準優勝・柳井、60年に果敢に最強・PLに挑んでいった宇部商など、とにかくしぶといチームが多い印象です。この”実に山口代表らしい”防府商も、この大会に一陣の風を吹かせてくれた存在でした。
  試合は淡々と、しかしやや重苦しいムードで同点となって後半へ。ここで信じられないアクシデントが起こります。2塁ランナーで出塁していた鹿実のエース・定岡が外野へのヒットでホームに突っ込み滑り込んだ際に、右手首を捻挫して交代。病院送りになってしまったのです。鹿実はやむなく甲子園では登板経験のない2年生の堂園投手をマウンドへ。(しかしこの堂園投手とて、後年はドラフトされてプロへ進むほどの逸材なのですがね。)
  堂園投手の好投に、8回ぐらいからは包帯を巻いた痛々しい姿で病院からベンチに直行して復帰した定岡が、檄を飛ばしていました。しかし悲劇は9回裏。2死2塁のピンチを背負った堂園。牽制球を2塁ベースカバーのショートへ。そして、この送球がそれてがセンターの前へ。誰もが『2死3塁か』と思ったそのとき、ボールはバックアップに入ったセンター森本の股間を、あざ笑うかのように抜けて外野を転々。大喜びのランナーが、球場全体の悲鳴と共にホームを駆け抜けたとき、鹿実の、そして定岡の長い甲子園は終わりを告げたのでした。
  応援団へのあいさつの後、長身の定岡が泣きじゃくる森本の肩を抱きかかえるようにベンチ方向へ帰ってき姿、痛々しいと共に『判官びいき』の日本人の琴線に強く触れ、その後空前の『定岡フィーバー』へつながって行きます。

  かのいう私も、その頃は定岡のファンでした。チョッピリひ弱さを残しながらの投球、結構好きでしたね。(後年『とんねるず』の番組に出演していじられまくった定岡の情けない姿を見るまでは・・・・・ね)
  この49年の大会、完璧なまでの強さを誇った銚子商が宿願の優勝を飾るのですが、記憶の中には鹿実、東海大相模(更にワタシにとっては上尾)が強く残る大会になりました。

 


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3 コメント

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いいですねえ (ゴッド抗菌)
2011-01-03 16:00:25
恐らく同世代だと思われます。ほとんどの試合はテレビ中継にかじりついてました。特に鹿実‐相模は忘れられません。ただセカンド中村の超美技は12回裏ではなかったかと。間違ってたらごめんなさいね。あれは『フライングキャッチ』と名付けたい。翌日の防府商とのあの悲劇はもう涙涙。『俺のせいで負けた~』と泣きじゃくる四番センター森元をかばう負傷の定岡。『お前が打ってくれたからここまで来れたんじゃないか』の慰めが胸に響きます。定岡が、きゃしゃで普段から泣きそうな顔立ちというのも余計に拍車をかけたんですよ。あの頃はよかった。
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ありがとうございます (まめちち)
2011-01-06 08:12:08
コメントありがとうございます。
ワタシにとっては、40年代後半~50年代が高校野球の黄金時代。記憶に残る勝負もたくさんあります。そんな試合を、思いつくまま気の向くまま書いていければ・・・・と思いますが、現時点まで追いつくのはいつのことになるやら。
気長にやっていこうと思っています。
またコメントください。
返信する
Unknown (はまっ子)
2011-07-31 16:41:02
⑤広商迫田監督の采配が光った大会でしたね。佃も宿舎でシャドーピッチングを続け、集中力を培ったとか。その佃投手も何年か前に亡くなりました。
⑧⑨この試合を見て定岡のファンにならない女子がいるのかと思うほど、母性本能をくすぐりまくりでした。東海大相模戦の延長は、ラジオだったか、教育テレビだったか忘れてしまいましたが、興奮しました。東海大相模は伊東と村中のリレーに対し、鹿実は定岡一人で投げてましたね。
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