≪選抜出場校の思い出 その3≫
関東代表 浦和実(埼玉) 初出場
夏出場なし
浦和実業が甲子園に初めてやってきます。この浦和実、長いこと埼玉県の高校野球界で、中堅の位置を占めてきました。「いつか甲子園に出場することがあるかもしれないな?」と思っていた学校で、出場することに驚きはありません。浦和実と言ってワタシがまず思い浮かべたのは、西武ライオンズのリリーフ投手である豆田投手。決して長身ではない彼ですが、その投じられる投球は、球がぐ~ンと伸びてくる感覚の球で、見て衝撃を受けました。そしてそれまでなかなか勝てなかった浦和学院を、2安打で完封していたのには驚きましたね。埼玉県の高校野球界は、最近新興勢力も多く現れて、本当に上位まで進出するのは難しくなってきています。浦和学院や花咲徳栄も、少し気を抜けばすぐに足元をすくわれるような、混戦の大会が毎年演出されています。そんな中での浦和実の初めての甲子園。埼玉の新顔というと、古い話ですがワタシは伊奈学園総合とか西武台、秀明あたりがパッと浮かんでくるんですけど、最近では山村学園とか狭山ヶ丘、細田学園なんかも実力を伸ばしてきていて、ホント中堅どころから甲子園を狙うチームが群雄割拠です。浦和実には、この出場だけで終わるわけでなく、どんどん甲子園にコマを進めていくチームに脱皮してもらいたいと思っています。
関東代表 千葉黎明(千葉) 初出場
夏出場なし
千葉黎明も、浦和実と同じく、春夏通じての嬉しい甲子園初出場。千葉も埼玉と同じく、群雄割拠の高校野球界で、夏の大会はホント、明日をも知れない厳しい大会です。千葉黎明は正直、ワタシは多分一度も試合を見たことがない学校です。それゆえ、インプットされた思い出はなく、今年の選抜をまっさらな気持ちで見ることができる学校ですね。千葉もここ10年ほど振り返ってみると、従来からの強豪校である習志野、木更津総合、市船橋、拓大紅陵、成田などの強豪に、専大松戸、中央学院などが実力を上げてきて、予想するのすら難しい県大会にいつもなっています。そして千葉の各校は、応援に力を入れている学校が多くて、マリンで行われる夏の千葉大会の準々決勝以降などは、両校の応援が本当に華やかです。思わず昭和の時代のアルプスを思い出してしまいますね。神奈川の高校野球熱とはまた違った熱が、千葉には流れています。そんな千葉からの初出場ですから、楽しみな学校ですね。「新興強豪校」である中央学院は、2度目の出場であった昨年、快進撃で準決勝まで駆け上がりましたから、千葉黎明にも期待は高まっています。
東京代表 二松学舎大付 8度目(2年ぶり) 準優勝1回
夏5度出場 甲子園通算10勝12敗
二松学舎が、2年ぶりに春の出場を決めました。この二松学舎、前にも触れましたが、2014年に夏の初出場を決めるまでは「悲劇のチーム」として知られた学校です。何しろ東東京大会の決勝に進出すること10度、そしてそのことごとくで敗れ去って夏の甲子園出場なし・・・・というところからついた、ありがたくない異名でした。春の選抜では現監督の市原監督が現役でエースだった82年に準優勝。それなりに名前を売りました。しかし。。。。その後低迷の次期を経て、2014年に夏の初出場を果たすと、なんだかものすごくその流れは変わりましたね。なにしろ。。。。夏は初出場から5回出場、そしてそのことごとくで初戦を突破するという輝かしい成績を残しています。しかしながら、もともと”名を売った”はずの選抜では、82年の決勝進出以来、5度の出場がありながら何と全部初戦負け。これはどうしたことなんでしょうか。これほど春と夏でわかりやすいコントラストを奏でているチームは、ちょっとほかには見当たりませんね。さて、今年はセンバツ6連敗阻止を狙って、甲子園に乗り込みます。果たしてその成果はいかに。。。
前回の記事 ⇒
かつては春の二松学舎だったのが、最近は夏の二松学舎に代わり、昨年まで5回の大会(2020年のぞく)で4回の選手権出場と、夏の出場の仕方を完全に把握したかのごとく快進撃が続いています。そしてその4回を含め5回の選手権では、常に初戦を突破するという実績を作り、東京の高校野球を引っ張っています。しかしながら、昨年までは1勝した後必ず2戦目で敗れるというのが続いていましたが、昨夏悲願の甲子園2勝を達成し、新たな気持ちで臨むセンバツとなります。選抜では2度目の出場になった82年に快進撃で準優勝に輝きましたが、それ以降4回の出場では1勝もできずに4連敗中。さて、今年のセンバツでは久しぶりの「春1勝」をあげることができるのか。注目してみたいと思います。
その前の記事 ⇒
二松学舎といえば、少し前までは「夏の選手権では、決勝で何度も壁に跳ね返されている悲劇のチーム」という認識で、何度東東京大会の決勝に進出しても、その都度跳ね返されてしまうというチームでした。しかし2014年に1年生の大江(現巨人)をエースに立てたチームで長かったその呪縛から解き放たれ、その後は「夏のチーム」として完全に生まれ変わっています。最近でも17年、18年、21年と4大会で3度の甲子園をつかんで、さらに甲子園では常に勝利をあげて実績を積み重ねていっています。しかしもともとは、春の選抜で全国に勇躍名を広めたチームです。1980年。初めて甲子園の土を踏んだチームは、なかなかの力強いチームでした。長身右腕の本格派西尾に、打線も鋭く「波に乗れば覇権を争うところまで行けるのではないか?」なんてひそかにワタシも思っていました。しかし初戦で対戦したのがその年の3強の一角であった柳川。エース中島は「テルシー」なんて呼ばれて、剛腕の名をほしいままにした投手でした。その優勝候補に、まったくの新顔ながら果敢に勝負を挑んだ二松学舎。敗れはしたものの、最終回にはあわやのところまで柳川を追い詰め、「何かやるチーム」という匂いを、甲子園に残して去っていきました。(ちなみに、秋季大会決勝で破った帝京が波に乗って準優勝まで駆け上がりました。) 2度目の春はその2年後。この年のチームは、秋季大会では荒木率いる早実に敗れて準優勝。東京2番手という位置づけのチームで、投打ともに初出場時よりは力が落ちるとされていました。しかし野球とは本当にわからないもの。組み合わせに恵まれたとはいえ、二松学舎はしぶとい攻守でどんどん勝ち進んで、気が付けば決勝に進出していました。その時の左の軟投派エースが、現在の市原監督です。当時の監督は、日大三監督なども歴任した青木監督。準決勝に勝ち決勝に進出した際には、インタビュー台の上で男泣きでした。決勝ではPLの猛攻に抗しきれず大差での敗退を余儀なくされましたが、「東京に二松学舎あり」を強く印象付けた大会でした。まだこの時代、東東京は早実1強時代で、それに対抗するのが帝京。現在の2強である二松学舎と関東一は、まだまだ新顔という時代でしたね。ちなみに二松学舎を強くした青木監督も、関東一を強くした小倉監督も、いずれも日大三の監督として甲子園の土を踏んでいる監督です。
二松学舎というと、伝統の白のユニで左胸にタテに二松学舎、そしてアンダーシャツと帽子は緑という、変わらない姿です。それがまた、ワタシにはうれしいですね。やっぱり思い入れの強いユニは変えないでほしい・・・・・というのが、ファンとして思うところです。余談ですが、中京大中京も伝統のユニに戻してから、ワタシはがぜん応援する気になりましたもんね。
東京代表 早稲田実 22度目(8年ぶり)
夏30度出場 甲子園通算 68勝49敗 優勝2回 準優勝3回
さて、東京屈指の名門、早実が、昨年の夏に続いて今年の選抜でも甲子園に登場します。春の選抜は、あの清宮を擁して注目された年以来8年ぶりとなります。荒木の時代を経てその後低迷を経験。学校を移転した後、斎藤佑樹で念願の夏制覇、そしてそれからしばらく清宮の時代まで強豪の名をはせた後、再度低迷期を経験しましたが、昨夏に華麗に復活。昨夏は3回戦、あの大社とのカクテル光線の中の激闘は、高校野球ファンに深く余韻を残してくれました。ワタシが早実を見始めた70年代からの記録を紐解くと、やはり早実は強豪ですね。75年に長い低迷から復活してから今日まで20回の甲子園出場がありますが、そのうち初戦敗退はわずかに4回。その4回ともワタシははっきりと思い出せますが、75年は別として、そのほかの初戦敗退は「まさか」の敗戦が多かったですね。78年夏は優勝候補だったのに倉吉北に接戦で敗れ、81年春はこれも荒木を擁して優勝候補筆頭とまで言われていたのに東山に悔しい敗戦。まあ最後の初戦敗退となった88年選抜は、早実が完全に力を落としていた時期で、初戦で津久見の川崎(元ヤクルト)に手も足も出なかった完封負けでした。しかし00年代に入って校舎を移転、そして推薦制度も改定して復活した早実は、王時代、荒木時代の強さを復活させ、甲子園でその強さを見せつける時代となったのですね。90年代以降、9回連続初戦突破は見事なものです。さて、今年は昨夏甲子園で熱投を演じたエース中村が健在。またまた甲子園を熱くすべく、牙を研いでいます。
前回の記事 ⇒
学生野球の代名詞といえば、やはり早稲田大学。そして高校野球の代名詞といえば、東京ではやはりこの早実が上がります。何しろその歴史は古く、第1回選手権出場校のうちの1校ですからね。『オリジナル10』のうちの1校ということで、常に『名門』というくくりで語られるチームです。チームは2度、『名門』から『古豪』という呼ばれ方をされそうになったときがありました。一つは昭和40年代。王さんや大矢さんなどのキラ星のごとく輝くスターを輩出してからしばらく、早実が低迷を余儀なくされた時期です。昭和38年に選抜に出場してから、昭和50年夏に復活するまでの12年間、早実は甲子園に出場することがかないませんでした。ちょうどその低迷期に高校野球を見始めたワタシにとって、当初『早実』という名を聞いても全くピンと来ず、東京は日大勢が甲子園に行くものと思い込んでいました。その流れを変えたのが、和田監督が率いる荒木兄弟の時代。昭和52年に強打を引っ提げて久しぶりに甲子園で大活躍した早実は、内野手として攻守に素晴らしいプレーを見せていた荒木健二の活躍などもあり春夏ともに8強へ。更に強いといわれた53年のチームは荒木、山岡、川又など素晴らしい選手が揃い春、夏ともに優勝候補に挙げられていたものの甲子園では1勝しか挙げられず、早実悲願の全国制覇はお預けになりました。しかしこの2年間で4季連続の甲子園出場。東京は『早実の時代』となったのです。荒木健二は53年限りで卒業しますが、その弟の荒木大輔が入学した昭和55年から、早実はまさに『黄金時代』というものを築いていきます。とにかく都会的でスマートなチームカラー。そしてリトル・シニアで鍛え上げてきた選手たちは野球をよく知っており、東京には早実を破ることができるチームは、見当たりませんでした。荒木大輔は1年生の夏、甲子園で初戦から決勝の1回まで無失点記録をつづけ、大フィーバーを巻き起こしました。もとより今と比較して甲子園大会というものが世間の大きな注目を集めていた時代。”荒木フィーバー”は、後の”斎藤フィーバー”、そして現在の”清宮フィーバー”よりも、すごかったような気がします。その荒木を支えた”牛若丸”小沢とともに、早実は昭和55~57年の間、高校野球を席巻した存在となりました。5季連続の甲子園出場というのは、今でこそ桑田・清原のPLを筆頭にたくさんの選手が成し遂げていますが、当時では本当に珍しかったこと。それだけ注目を集めながら結果を出し続けた荒木大輔を中心としたこの当時の早実は、本当の意味の”強さ””したたかさ”を持っていた感じがします。しかしながらこの時代をもってしても早実の全国制覇の悲願はならず。そして早実は、荒木大輔が卒業すると同時に力を落としていき、低迷の時代に突入します。
その当時は、入試が難しくなりすぎて、これまでのように好選手を入学させることが難しくなったということが言われ、時代は帝京の1強時代へと変わっていきました。その当時、東東京に属していた早実。毎年夏の大会になると『名門の矜持』を見せて上位進出を果たし、帝京と対戦するとすさまじい激闘を見せることもありましたが、何しろ80年代~90年代にかけての帝京は強かった。早実vs帝京の試合を予選で見ると、テレビに映る選手たちの体格のあまりの違いに、『ああ、こりゃあ分が悪いなあ・・・・・』と最初から思わざるを得ないような差がありました。当時の帝京、そりゃあ凄いゴッツイ体をしていました。なかなか好投手が育たなかった当時の早実は、最後の最後には帝京の打力にねじ伏せられてしまった・・・・・そんな印象を持っています。選手の自主性を重んじながら結果を出す名将・和田監督も志半ばで急逝。早実にとっては厳しい時代が、斎藤の登場する2006年ぐらいまで続いていきました。
斎藤の登場は、早実、いや、早稲田グループが本格的に再度スポーツの強化を始めたことに起因します。『名門復活』は、”自ら助くる者を助く”天の差配があったか、2006年に訪れました。東東京から西東京に”移転”してきた早実にとって、そこには”天敵”帝京はいなかったものの、2001年に全国制覇を成し遂げ、強豪の名をほしいままにしていた古くからのライバル・日大三が君臨していました。投手力を中心に守りの野球を標榜し、スマートな試合展開を得意とする早実に対して、小倉監督が鍛え上げた日大三は、打力でねじ伏せるスケールの大きなチームでした。2001年に悲願の全国制覇を達成した日大三は、その後も2005年まで毎年甲子園に進出。早実にとって、『どうしても倒さねばならなかった敵』ではあったものの、『どうしても倒すことのできない敵』でもありました。そしてその『大きな壁』を打ち破ったのが、ご存知の”ハンカチ王子”こと斎藤佑樹投手です。この年選抜に出場した早実は、名門復活を高らかにアピール。2回戦では強豪の関西と延長再試合を戦って勝利をおさめ、8強まで進出しました。そしてこの夏。西東京大会決勝で日大三との『東京の高校野球史に残る激闘』を制した早実は甲子園でも快進撃。決勝であの甲子園三連覇を目指した駒大苫小牧を、春に続いて延長15回引き分け再試合になった激闘を制して優勝。日本中に『ハンカチフィーバー』を巻き起こしました。早実にとっては、荒木大輔に続く『社会現象』を巻き起こした年でした。
その後はご承知の通り。長い低迷期を抜けた早実は、今もまた日大三と≪全国屈指≫ともいえるライバル関係を維持しながら着実にその実力を伸ばして、一昨年夏には【第三の社会現象】ともいえる≪清宮フィーバー≫を巻き起こしました。第一の荒木大輔は、兄弟で早実に確かな足跡を残してくれました。第二の斎藤佑樹は、卒業後は早稲田大でさらなるフィーバーを巻き起こしてくれました。そして第三の清宮は、父親とともに親子でフィーバーを巻き起こしています。王貞治さんの時代から、『何年かに一度、必ず日本中に話題を振りまくスーパースターが現れる』というのが早実野球部。今度はどんな戦いで、我々をワクワクさせてくれることでしょう。
そして個人的には、早実の野球というのは、強さの裏に見え隠れする弱点、どの年代のチームもそれを持っているというところもまた、なんだか男心をくすぐられるところですね。『完璧な強さなんて、求めちゃいない!』と言っているようにも聞こえる早実という好漢。彼らがまた甲子園で暴れる姿を見ることができるのが、東京都の高校野球ファンとしては、とてもうれしいことですね。
(つづく)