アルファロメオと小倉唯

差別・偏見・いじめのもとにあるのは

かつて日本で暮らし、私の仕事のパートナーであり、なによりも親友であった「F」。

 

もう日本でやること…というか、できることが何もなくなった、ということで故郷のイタリア・ロンバルディア州に帰って…

 

これが英国人ならカントリーハウスと呼ぶであろう、とても大きな家で、今は妻と姉と犬たちに囲まれて悠々自適の暮らしをしています。

 

そして、うちの息子とも中学ぐらいのころまで仲良くしてくれていた彼の娘が、最近一緒に住み始めたようです。

 

「F」の娘も息子も彼にとってはいわゆる「妻の連れ子」で、血のつながりはないのですが、Fは彼らをものすごく愛していて…

 

子どもたちからも慕われていて、羨ましいような仲の良い家族です。

 

血のつながりよりも、一緒に過ごした時間の質と長さが作る「関係性」の方が強いのは、私と実母の関係と比較すればわかります。

 

その娘さんが最近結婚して。

 

といっても最近のヨーロッパのことですから、日本人からみれば「事実婚」という形なのだろうと推測しますが。

 

ちなみに欧州諸国には「籍を入れる」という形の結婚は存在しないです。

 

そもそも日本以外の国には(アジア・アフリカ諸国も含めて)「戸籍」というものがないのです。

 

日本にも江戸時代まではなかったのです。戸籍制度は、150年ほど前に、明治政府が作ったものです。

 

「戸籍は日本の古き良き伝統」というウソが大手を振ってまかり通っているので、意外に思われるかもしれませんが。

 

江戸時代は、お寺が出す「宗門人別改帳」(江戸中期に統合される前は宗門改帳と人別帳)が身分を示す証拠書類で…

 

江戸期以前は「検地帳」というその土地の封建領主(武士や寺社など)が作ったものが、その役割を果たしていました。

 

今日の戸籍に当たるものがあったのは平安朝(王朝時代)までで…

 

それも律令制が崩れ、貴族や寺社の荘園が普及してからは形骸化し、実質的には千数百年間、途絶えていたものです。

 

というか戸籍制度が「生きていた」期間が、明治期以前の長い日本の歴史の中で、たった百年余りのことだったので…

 

それを「伝統」などというのは、ちょっといくら何でも…な話です。

 

脱線しましたが…

 

あちらでの「正式な結婚」というのは、教会でカトリックなら神父、プロテスタントなら牧師から結婚証明書を出してもらうか…

 

(神父と牧師の違いは…などと言い出したらまた「ちなみに」話で脱線が酷くなるのでやめます)

 

それか、自治体の役所に届け出て結婚証明書をもらうか、というものなのですが…

 

その書面をもらってももらわなくても、家族の誰にも、得も損もないので(法的な権利が左右されないので)…

 

面倒なので近年はそういうものは省いて、ただ一緒に生計をともにすることを「結婚」としています。

 

で、やっと本題に戻りますが「F」の娘さんの夫は、生まれと国籍はイタリアなのですけれど…

 

その人の両親は、ベトナム戦争の折にイタリアに難民としてやって来たベトナム人なんだそうです。

 

なので、インスタとかに載っている写真で見ても、完全に東南アジアの人の外見です。

 

イタリア語、ベトナム語、英語を完璧に話す、トリリンガルのようですね。

 

その「娘の夫」(日本風に言えば義理の息子)のことを「F」も、妻の「A」もたいそう気に入って、大好きな様子。

 

「F」から来るLINE(まだ私との通信用に使ってます笑)では、彼がいかに素晴らしい青年かということが、言葉を尽くして語られています。

 

ひるがえって、日本の家族のもとにベトナム人の「お婿さん」がやってきたら…

 

あそこまで手放しに歓迎されて、本当の家族の一員として、すぐに溶け込めるだろうか、と考えてしまいます。

 

「F」も「A」も、人生の中で世界各地に住んで来て、いろんな国や社会を見て、見聞を広めて来たことや…

 

ふたりとも高い教育を受けて来た、教養人であること…

 

それからもしかすると、双方ともに貴族の末裔で、しかも両親がまともな人物で…

 

生きてくる中で、モノや愛情に恵まれなかった、屈折体験がないから…なのかもしれないな、と思ったり。

 

人が人を差別したり、いじめたり、バカにしたり、威張ったり、ことさらに「マウントを取ったり」する場合には…

 

その人自身が心の中に、自分では認めたくない、あるいは自覚していない、劣等感や、不公平感、欠乏感……その他様々な満たされぬ感情や不満…

 

そういった「ルサンチマン」を抱えているからであると、私は考えています。

 

本当に満たされて、幸せな人は、差別やいじめをしたり、威張ったりマウント取りをしたりはしないのではないかと。

 

心の奥に抱えた、恨み、怒り、嫉妬…そういった負の感情と、無知とが交わったときに、差別やいじめや排外主義が生まれてくるのだと私は思います。

 

「F」と「A」の夫婦は、肌の色や身体的特徴、先祖の土地がどこかなどなど、には全く関りなく…

 

世界には好ましい人間も、いやな人間もいるのだということを、人生経験からよく知っていて…

 

しかも、何かに満たされない「ルサンチマン」を抱えていないから、真っすぐに人そのものを見て…

 

娘の夫のことを大好きになっているのではないですかね。

 

だから、日本の「在特会」の人や、アメリカの「KKK」の人、あるいはドナルド・トランプやその熱狂的な支持者は…

 

本人たちが認めるか認めないかに関わらず、生まれてから今までの人生で「何か」に恵まれなかった、不幸な人たちなのではないかと。

 

人物やものごとを真っすぐに見ることができる、歪んだり、斜めになったりした見方をせずに済むというのは…

 

そう考えると「幸運に恵まれた人」であるようにも思えます。

 

でも、運が悪いから、恵まれていないからと言って、開き直って物事を斜めに見たり、歪んだ世界観を持つことに開き直るのは、違うと思います。

 

生きることに絶望してやけっぱちになったり、損か得かだけで生きる欲望の怪物と化してしまわない限りは…

 

人として善く生きよう、誇りや矜持を持って生きよう、という気持ちがどこかにあるはずです。

 

それは、英語の単語でいう「integrity」の問題です。

 

日本語にはなかなか訳しづらい言葉だと言われたりして、なのでそれ自体は、基盤にキリスト教があるのかもしれませんが…

 

古来の日本の庶民の感覚として「お天道様に対して恥ずかしくないかどうか」というものがあります。

 

それは「個々の神仏」とはまた違った、漠然としたものではあるけれど、この世界の隅々にまで満ち満ちている…

 

善悪のおおもと、といったニュアンスではないかと思います。

 

それを失くしてしまったら、本当にケダモノ=すなわち自然界に生きる動植物とも全然違う、不気味な怪物、モンスターです。

 

そういう怪物、実は身の回りにも、たくさん生息していそうで恐ろしいです。

 

「自己責任論」を振りかざしたり、自然界の食物連鎖を曲解して人間界に持ってきて「弱肉強食は世の掟」なんてほざく連中。

 

「今現在」「自分自身」「利害・損得・快不快」だけに依って、生きている怪物。

 

そんなふうにして「integrity」や「お天道様」を無視する人々がたくさんいる世の中は怖いし悲しいですよ。

 

そういう意味では、四半世紀余り前にはなりますが、私がイタリアに留学していたころ…

 

それから10年ぐらい前まで、北から南までくまなく歩いて、いろんな取材をしていたころ…

 

少なくともそのころまでのイタリア人には、日本人に比べると「integrity」がある人の割合が多かったです。

 

隣の芝生は青い、ではなく確実に。

 

確かに、阿呆や下らぬ人間、悪人、人種差別する人間も、もちろんいましたけれど…

 

総じて、損得勘定抜きで、アジアの東の果てから来た得体の知れぬ男を、全力で助けてくれる人の方が多かった。

 

むしろこっちをちらちら見ながら「こいつなんか困ってないかな。困ってたら助けてやるのに」と…

 

「親切にする」ことをやりたくて、手ぐすね引いて待っているような雰囲気の人が多かった。

 

困っていると言おうものなら「待ってました」とばかりに、周りに声を掛けたり、友達や知り合いに電話したりまでして…

 

そこまでしてくれなくても、というぐらい、助力をしてくれました。

 

見返りなしで。

 

取材じゃなくて、家族連れで旅行しているときでも、そうでした。

 

店のカウンターで何か注文するときも、割り込むようなことをする者がいると…

 

「ちょっと待ってろ。こちらの中国人のシニョーレ(旦那)が先だからな!」と言って…

 

(あちらにとっては中国人も日本人も区別がつかないし、どっちみち同じこと)

 

「だよなアミーコ(友達)!」と言ってウインクしてくれたり。その人はどう見ても移民に見えないのに。

 

昔の貴族の館を改造したホテルに泊まったら、今日は他に客がいないからと言って…

 

かつての大広間だったという、豪華な「特別室」に、普通の料金で泊めてくれたり。

 

(あまりに広すぎて独りで泊まるのは正直怖かったですけど)

 

いや、おせっかいだったりすることもあったけど、そういうの、素直に有難かったですよ。

 

それは宗教の教義ともまた違うもののようです。そうした親切な人々の中には、いろいろ話してみると…

 

教会なんて大嫌い、キリスト教徒ではない、と公言する人も多かったから。

 

困っている人や、客人、「まれびと」に対してcommitmentすることが、人としての生き方の正しさを再確認する道、だったのかな。

 

儲かりもしないイタリアがらみの仕事を長くやったのは、そうして「一生懸命親切にしてくれた」イタリア人たちへの恩返しのつもりでした。

 

日本人には、民衆の肌感覚として差別されることもある人々、たとえば東南アジアとか南アジア、中東、アフリカなどの外国人に対して…

 

そこまで積極的な親切(を超えて奉仕)をしたり、好意をストレートに表したりする人、そこまで多くはない気がします。

 

イタリア以外の白人の国に住んだことはないから(旅行したことはあるけれど)、よそは何とも言えないですけれど。

 

そしてイタリアも、最近…この10年ぐらいはどうなのか分かりませんけれど。

 

それと比較すると日本人は、コンビニや飲食店や工事現場で働いているアジア・アフリカ系の人々や…

 

観光地にわんさか訪れている彼らに対して、冷たいと思います。

 

イタリア人と比べて、ストレスや不満を抑え込んで、溜め込んで…ということが多いせいでしょうか。

 

でも、人の道、お天道様、integrity…そういったもの、忘れたくないです。

 

どんなに運が悪くても、または落ちぶれても、怪物に変身することだけはせずに、生を全うしたいですね。

 

 

 

 

ランキング参加中です!ポチっとしていただけると励みになります!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「社会問題」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事