スピリチュアルアート・不思議話・猫話・神話を紹介します

癒しのスピリチュアルアート・不思議なお話・可笑しい猫話・チョッと面白い為に成るかもしれない自作の神話を記載します。

スピリチュアル・幸せに成る為の学び舎・不安からの心の開放!

2012-05-15 01:01:09 | 確実に幸せに成る為の学び舎

 幸せに成る為の学び舎不安・・誰もが持っている・何故?何処から?

◎ 人は、誰もが何時も心に不安を抱えている。・・・何故?何処から?何時頃から・・・・・?

誰もが羨むほどの頂点に立ち、動の幸せを勝ち取った人生を歩む人さえも、常に心に不安を抱いている。

不安を消しさり安らぎを得る事が出来たら、どれだけ人生は楽で幸せなんだろうか?

今日は、不安からの心の開放少し、してみましょう。そして、ちょっとだけ楽になりましょう。

   ~~~~~~★~~~~~~~★~~~~~~~★~~~~~、

■ 第3回目授業・・・不安のルーツ

 先ずは、何時頃から、どんな理由で、何故、人間が不安を抱え込む(持つ)様になったかの根源を探ってみる為に、人間がまだ原始人と呼ばれる頃に遡ってみましょう。

おさらい・・第1回目授業をお読みの方は、ブルーの活字は省いて下さい。

第1回授業でお話をしましたが、その頃の人間は、哺乳類の中では肉体的に一番、弱い存在でした。ライオンや豹などの肉食動物の様に、鋭い牙も腕力も脚力も無く、草食動物の様に危険を察知する鋭い聴力や視力も、早くに逃げる脚力も無く、かと言って猿の様に、木の上で器用に餌を確保し機敏に木から木へ飛び回る能力も無い猿にも劣る肉体的存在で、暗い洞穴で危険から身を守り肩を寄せ合い協力をし助け合って、生きていました。

食べる事、そして生き抜くこと、子孫の継続(子育て)をする。これは、基本的な動植物の与えられた本能(定め)で有りますが、人間もまた、その事に尽きる存在です。

しかしながら生きる為の食糧確保は人間にとって大変で、大地では危険を抱え、木の上では猿に先を越され、本当に惨め悲惨・・・としか言えない状況の中、地面から根(芋)類を掘り起こし、草木の種を拾い集め、熟して落ちた果物・木の実を拾い集め、洞穴に持ち帰り、皆で、分かち合い食べていましたほとんど拾い食い状態と言えたでしょう。

進歩

やがて、生き抜く為の食糧確保にも知恵が付き進歩し、猿に先を越されない様に、木に登り木を揺らし実を一気に沢山落とし、下で拾い集め、葉に包み持ち帰る。人間は共同作業で、沢山の食糧を確保する様になりました。

多くの食糧は、一度には食べ切れない。木の実や種子類など腐らない物は日持ちがしました。保存・・・の始まりです。

保存には、メリットが色々と有りました。危険にさらされ食糧確保をする時間も短縮され、お天気にも左右されず、お腹が減れば何時でも食べられる。人は、心安らかに成れたのでした。安心・・・の始まりです。

物事は、相対性の法則で成り立っています。安心が有れば、不安が存在します。やがて、保管の食料が無くなる又は減ると、人は不安に成ってしまう事となりました。不安・・の始まりです

食糧と安心を得る為に、懸命に確保する・・。溜め込む。減る。不安に成る。不安に成らない為に、もっと確保する。益々、食糧確保と保存の行為はエスカレートし限が無く成ります。欲・・・の始まりです。欲には限りが有りません。

現在で言えば、生きる為に働く、そしてお金を稼ぎ溜め込む。お金は、食糧は勿論、大方の物が手に入ります。資産も家もお金で得る事が出来ますから、確保する保存する行為に当たるでしょう。

昨年、起きた東日本大震災の時、大丈夫だと理屈では解っていながら、食品を買い込み溜め込んだ行為が有りました。災害の不安に際し、人間の本能が浮上したケースだと言えるでしょう。買い込む事で、不安は安心へと変わった事でしょう。

不安と安心・・その相対性の中で、生まれた限り無い欲望は、人間社会と共に複雑化し繁栄した末に、この世の輪廻と調和を壊す事となりました。(輪廻と調和については、第2回目授業に記載)

凡人には凡人の不安が有るけれども、名誉や地位や資産の多くを欲(確保)する者は、我々から見れば羨ましくも有り、不安など無かろうと推察出来るが、大きな安心を得た者は、失う不安も大きい。失う事の恐れ不安は底知れないだろう。

も欲しなければ、それはそれで不安のみが付き纏ってしまう。生きるに当たっては、シンプルに、ほど良く欲する事が肝要であろうかと思います。そうすれば、ゆったりとした安らかな時間・心魂を少しは、保つ事が出来るでしょう。程よい足りるを知る事です。

そしてもう一つ、不安を少なくするには、良き人間関係の維持が必要です。原始時代から人は支えあって生きてきたのですから。

好きな人達や愛する人達・大切な人達が周りに居ると、人は安心をするものです

あなたの周りにはそう言った方が居ますか?。居るならば、今日は、笑顔で有難う・・・を言ってみませんか?

もし、誰も居ない人は、早速、今日から作りましょう。こんにちは!。おはよう御座います!。良い天気ですね・・。そんな言葉の一歩から、歩み寄りを始めましょう。

 

←クイック宜しくお願いします←スピリチュアルアート・神話


スピリチュアルな世界~☆~☆~アダムとイブ・・実は

2012-05-08 12:45:59 | 確実に幸せに成る為の学び舎

 確実に幸せに成る為の学び舎~★~アダムとイブの神話の意味

■アダムとイブの話の意味・・授業・・第2回

 その前に、確実に幸せに成る為に、どうしてアダムとイブの話なんだろうかと思うでしょうが、一見関係ない様に思う学びも全て、意味が有り必要性が有るからです。

 例えば、癒しと運気を求めパワースポットに行ったり、パワーの有るグッズを購入し良い運気を手にしようとする人が居ますが、自分自身の中に常に癒しを生み出し、運気をどんどん引き寄せものにする、悪い運気を追い払い幸せに成る為の器を、先ずは作り上げる事から始めるものです。幾ら、癒しや良い運気をものにしても、器が小さかったり笊(ざる)だったり脆い(壊れやすい)ものでは、何の意味も有りません。

 良い運気も悪い運気も、言い換えれば、幸福も不幸せも連鎖をします。それは、まるで磁石の様なもので、次々と引き寄せ大きくなります。当校の学びは良い運気・幸せのみを引き寄せ、悪い運気不幸・災いを突き放す、そんな磁石を心魂に育てる学びでも有ります。一歩づつ、その階段を登るものですから、楽では有りません。しかしながら登れば、辿り付きます。

癒しを生み出すパワースポットに、幸運を引き寄せる石、磁石に自分自身が成るのです。

 学びの回毎に、しっかりと学びを自分のものとし、確実で不動な幸せを掴みましょう。

では、はじめます。

    ~~~~~★~~~~~~★~~~~~~★~~~~~

 

 アダムとイブのお話は、皆さんご存知かと思いますが、簡単にご説明をしますと、蛇がアダムとイブを唆し、二人は神より禁じられて居た決して食べてはならない赤い果実(禁断の果実)を食べてしまい、永遠の命を失エデンの園(楽園)から追い出された・・。と言う神話です。禁断の果実は、林檎ともイチジクとも言われています。

この神話の意味や解釈について、色々と説が有ります。今回は、私の想うところを、天より色々と教わった事を総合し考え、説を紐解いてみたいと思います

    ~~~~☆~~~~~☆~~~~

その為には、人間のルーツ(起源)について説明をする必要が有ります。

神(創造主)は宇宙を造り、星々をそしてこの地球を造り、地球に生物を造りました。この地球上で我々(生物)は、互いに命を与え与えられ、食い(命の継続)繋ぐ輪廻の元、調和を保ちながら歴史を築いて来ました。

この輪廻と調和は時として異変を起こす事が有り、長い歴史の中では滅びてしまった生物達も居ます。例えば、恐竜の様な大型動物などです。

異変とは流星の衝突や火山の大爆発による自然災害によって起きるもので、氷河期などはそれに当たります。そう言った自然災害(環境の変化)は、生物の有り様にも変化を来しました。多くの種の生物は、環境の変化に伴い、ある種は滅び、或る生物は適用し変化をし、命の継続をして来ました。

神(創造主)とは宇宙を含め全ての創造そのものを神と表したもので、人間の知識を遥かに超越した存在で有ります。また、宇宙の在り様そのものを神(創造主)と人間は表現をしています。創造主は、宗教で有り、また化学でも有ります。科学を知る(追求する)者は、宗教に立ち返る・・・。と言われるもの納得が出来ます。

創造主は、俗に言う処の神を遥かに超えた位置に存在し、俗に言う処の神さえも神(創造主)の創造によるものと言えます。俗に言う所の神・・・とは、人が存在し必要とする神、或いは人が居るから存在する神と言ったものです

命を産み育てる(本能)は無償の愛の行為で成り立ち、命は愛の賜物とも言えます。この宇宙を生み出し、宇宙の命を育み継続するは、神(創造主)の愛の行為で有り、神(創造主)は、愛そのもので有ると言えるでしょう。

他種の命の犠牲によって育むまれる命も又、残酷に思えるけれども、これも無償の愛の行為か他なりません。この地球上では、互いが命を差さえ合い助け合って生き延びなければ成らず、そうやって命の歴史を築いて来たのです。

輪廻とは2つの意味が有り、一つは、生物の命を繋き合う他種との愛の輪の仕組みそのものを輪廻と言い、もう一つは、その繰り返しで起きる時間の経過も輪廻と言い現し、調和とは命を支えあう愛の輪のバランスを指すものです。

ここからは、アダムとイブの神話の真実に迫ります。

その輪廻と調和を壊してしまったのが、アダムとイブと言う事になります

アダムとイブは、人間達の男女を固有名詞化したものに他なりません。アダムとイブは、我々人間の事で、人間の先祖達を指します。

輪廻と調和は、神(創造主)から与えられた法則(約束事)で、地球上で生きるもの達全てが、輪廻と調和の基、永遠に命の継続をして行く事を意味します。それを人間が壊してしまった事を言っています。

神話で言う永遠の命とは、2つ意味が有ります。その一つは、地球(星)が終わりと成るまで、本来持って居る地球(星)の寿命を言いますが、人間が神から与えられた法則を破ったばかりに、地球の寿命前に滅びる事を意味します。また、もう一つは、後ほど説明します。

アダムとイブ(人間達)が、神から与えられた法則を破った理由が有ります。やんごとなき理由です。

輪廻と調和の法則には、それぞれに食べて良い(命を繋ぐ為の)物を決められています。

キリンは、高い位置の木の葉を、牛や馬は地面の草を(糞は木や草を育てる)、ライオンや豹は草食動物を、それぞれの生き物は、体格・胃袋に合った量を、命を繋ぐ必要量のみを腹が減ったら頂く・・・。猿類達は、木の実や果物を・・。全ての生物に与えられた法則です。

我々人間の祖先も、猿類同様の物(果物や木の実)を食し、地下の根っこ(芋類)や植物の種子を食べて居た様で、たまには蜂の巣や虫など(雑食)も食べて居た様です。元々は、猿の方が食の確保には長けて居た為に、木の上だけでは食糧が不足し地上でも確保していた様です。

以前に、天より聞いていた事ですがエデンの園とは2つの意味が有る様で、一つは、アフリカの大地を意味する事で有り、人間の起源はアフリカだと聞いていました。

その後、近年のテレビなどの情報で、人間のDNAは、唾液を調べると確かでは有りませんが、7種に分類が出来、そのルーツはアフリカで有ると知りました。教えの確信と成りました。

天の話では、アフリカは、その昔、かなり豊かな大地で、食する物が豊富に有ったそうです。しかし、雷が度々、落ちた為に、焼け野原と成り砂漠化が進んだと聞きました。最近、知った事ですが、世界で一番、アフリカで雷は発生すると知りました。

流星の落下や火山の大爆発などの影響も有ったでしょうが、雷が原因で有る事も確かです。また、砂漠化の後押しをしたのは、人間の仕業でも有ると聞いています。

豊かな台地アフリカだった頃は、食料確保の下手な人間(祖先)でも、それなりに生きて来れたのでしょうが、環境の変化で段々と、食料確保も難しく成り、さらに雑食も増えて来た様で、木の上ばかりか、地面での食糧確保の割合も増えた様です。

飢えて死に滅ぶか?それとも何が何でも生き伸びるか?大きな選択を余儀なくされる時期を迎えた時に、神が創った法則をついに人間は破ってしまったのです。それは、決して食べてはならない、禁断の果実である動物の肉を飢えに耐えかねて食べてしまった事です。一つの意味は、禁断の果実とは、血の滴る動物の肉を意味します

元々、木の上での食糧確保と地上での確保の両立状態だった人間は、飢えて死にしそうに成った際、最初は、焼け野原で焼け焦げ死んだ動物の肉に手を付け食べた事から始まった様です。

食べても死なない事が分かると・・。食べ続ける・・。そうすると体に異変が起きます。その異変は、先ず、頭に影響を及ぼします。生まれた子供は、奇形・突然変異・DNAの異変・・と言ったところでしょうか。

神の法則(定められた物を食す)・・・食すに当たり、それぞれに定められた食材が有りますが、近年で例を上げれば、狂牛病は、植物しか食べてはならない牛に、成長を早める為に、動物の骨粉などを飼料に混ぜ食べさせた為に、牛の脳に異変を起こしてしまい、牛は狂い死にをする事と成った。人間による、神の法則を破った行為です。その結果、食した人間にも悪影響となりました

人の場合は元々、雑食をしていた事も有って、その影響は死では無く、脳の発達へと繋がり頭も大きく成り、元々地上を歩く機会が多かった事も添うし、二足歩行に成って行った様です。地上生活で弱い人間は、洞穴で身を寄せ合い住む事に成ったのです。(第1回目に詳細を記載)

そのうち道具を使う様に成り、大きな草食動物を殺し食べる事となり、ライオンや豹の様に、殺し血を流し見ても平気な、野蛮な性格を持ち合わせる事となり、色んな事情で、その後は、道具を使い人間同士が戦い殺し合い血を流す様に成ったのです。

宗教の中には、肉食を戒める教えが有るのも、この辺りの事情でしょう。

環境の変化で多くの種類の生き物が滅びた中、神代の昔、アダムとイブが禁断の果実、動物の肉を食べなかったら人間は、滅亡していたのかもしれません。肉を食したばかりに、その後、多くの苦を背負う事と人間は成りますが何が何でも生きる・・。生きてやる、、、。そんな思いの行動だったのでしょう。

元々、弱い人間(祖先)は、食糧確保に随分と苦労をし、努力をして居たのですが、飢えに耐えかね死を目の前にした時、魔が差す・・。蛇(悪魔)を向かい入れる事に成り、禁断の果実で有る動物の肉を食べました。

そして魔を心魂に入れる事と成り、死後も天国では無く黄泉(死者)の国に行く事と成る。一つには、エデンの園の意味は、神の住む国を意味し、魔を心魂に入れてしまったから、神の国から追い出される・・・と言う意味です。禁断の果実は赤い血の色を表し、悪魔を心魂に入れた為に、人と人とが争い殺し合い血を流す結果を招く。禁断の果実のもう一つの意味とは人が争い殺し合い流れる血を意味します。

人間の欲と悪の始まりを意味し、苦悩の歴史の始まりでも有ります。

しかし、それでも人間は、生きる道を選んだのですから、長い歴史の上で、今日有る私達も、また、何が何でも、生きて行かなければならないのでしょう。かと言って悪行は成りませんが・・。

   ~~~~~~~★~~~~~~★~~~~~

まとめ・・・

アダムとイブは、人間の先祖を指す。蛇とは悪魔を意味し、唆されるとは、魔が指す事を言う。悪魔を心魂に入れてしまった事を言う。

エデンの園とは、現実界では、豊かなアフリカの台地を意味し、心魂の世界では、神の住む国を指す。

永遠の命とは、現実界では、地球の寿命を言い、心魂界では、輪廻転生をする事の無い、神の国で住む事を言う。

命を失うとは、現実界では、輪廻と調和を壊した為に、地球の寿命まで生きられない事を示す。心魂界では、輪廻転生(生まれては死ぬ事の繰り返し)を示す。

追い出されるとは心魂界では、ったままでは、神の国には行けない。黄泉の国(死者)に行くしかない。現実界では、もはや豊かとは言えない変わり果てたアフリカを出て行き、新天地に散らばって行く事を言う。

禁断の果実とは、血を流す肉食をした事を言い、また、人間同士が争い殺し合い流す赤い血を言っています。

 ~~~~☆~~~~☆~~~~☆~~~~

アダムとイブの神話では、現実界と心魂界の二つの意味が存在します。それは、私達には、現実界と心魂界が存在している事を意味します。

私達人間は、生まれては死ぬの(輪廻転生)を繰り返し、心魂から魔を取り除くべく、黄泉の国では無く、狭き門を潜り抜け、神の国(天国)に入るべく、この世で修行を繰り返している身で在り、心魂で有る事に他なりません。

つづく 

←クイック宜しく、お願いします。←自作神話・スピリチュアルアート

 


確実に幸せに成る為の学び舎~☆~開校します~☆~共に不動の幸せを掴もう!

2012-05-06 10:56:59 | 確実に幸せに成る為の学び舎

 確実に幸せに成る為の学び舎~★~開校します!

■ 共に、不動の幸せを掴もう!

はじめに・・・。

今、自分を幸福だと思える方も、不幸だと思う方も、どちらだとも言い難い方も、喜びと希望に溢れる方も、絶望で悩み苦しむ方も、どんな状態・状況で有ろうとも、自分が今、ここに存在(生きて)している事は、誰か(人)の愛によって生かされて来た事実が有ります。

私達は、生まれた直後から、自分自身では生きて行けません。ミルクを飲む事も、服を着る事も、オムツを交換する事も、安全で暖かい場所で眠る事も出来ません。誰かの救い(愛)の手が無ければ死んでしまいます。必ず。

親が子供を育てるのは当然の義務だ。当たり前の事だと思うかもしれませんが、義務と当たり前の事・・・それだけでは、子供を育てる事は出来きません。そこに愛があればこそ育てる事が出来るのです。愛を貰った(頂く)からこそ、今の自分が存在をしています。(親の手で育てられなかった方も同様です。)

昔、第一次戦争後、(第二かもしれない。外国の話)親を亡くした多くの戦災孤児の赤ちゃんが出来、国の機関がその孤児達(赤ちゃん)を集め、暖かい設備、管理の下で、定期的にミルクを与えオムツを交換し育て様としたけれど、多くの赤ちゃんが亡くなってしまいました。国の機関ですから、病気の際は、それなりの治療もした事でしょう。しかしながら、多くの赤ちゃんが亡くなってしまいました。

何故、赤ちゃん達は亡くなってしまったのか?それは、抱きしめてくれる暖かい愛情や泣いた時にあやし抱きしめ声を掛けてくれる愛情が無かた・・・もしくは、少なかったからに他なりません。義務や当たり前の事だけでは、赤ちゃんは育たない・・・深い愛情が無ければ、育たない生きられ無い事実が在ります

だから自分が、今、どう言った状況で有ろうとも、深い愛情の上で、存在している命で有る事を、決して忘れてはならないのです。

神代の昔とまでは行かなくても、原始時代の人間は、どうだったのだろうか?

原始時代の我々人間はどの動物よりも、とても弱い存在だった。

肉食動物の様に、早い足と鋭い牙と腕力を持たず、草食動物の様に、遠くを見通す目も敏感に音に反応する耳も、早くに逃げる脚力も持ちませんでした。かと言って、猿の様に、木の上を器用に飛び渡るすばしっこさも身軽さも持ちませんでした。人間は、猿にも劣る肉体的存在でした

どうして猿にも劣る存在だったのか?。それは、頭が重い為、二足歩行をしていたからです。その為、他の動物の様に早く逃げれないし、木の上でも猿に劣ってしまったのです。

では、どうして人間は死に絶える事無く今が有るのか?それは、共に助け合い支え合い分かち合う生き物だったからです。そうしなければ生きられなかったのです。

どの動物よりも弱い人間は、暗い安全な洞窟などで、ひっそりと肩を寄せ合い支え合い助け合って生きていました。

元々は、木の実や果物・地面の中の根(芋)などを食べて暮らしていました。木の実や果物が頃合に成り取ろうとすると、木になかなか上手く登れい・・。やっと登った所で、身が重くって木の先の果物や木の実の所までは辿り付けない・・・。猿に先取りされてしまう・・・。

そこで人間は考えました。木に登る者と、下で受け取る者・・。木に登った者は、木を揺らし木の実や果物を落とす。木の下の者は、落ちた物を拾い集める。そして持ち帰り、皆で分かち合い食べる。(猿は、結構、青い実でも食べるが、人間は完熟した物を食べる理由もその辺に有るのでしょう)。

根(芋)を掘る場合は、見張り役と掘る者とに役割分担をする。また、取った食べ物はその場では食べない。襲われる心配が有るから、洞穴に持ち帰り分かち合って食べていました。

人間と猿とのDNAの差は、わずか4%ほどの違いだと言われます。その4%の違いは色々と有るだろうが違いの一つに、分かち合う(食べ物)が有ります。幾ら賢い猿でも、分け合って餌を食べる事はしません。自分の食べ物を「はい!どうぞ!」とは、渡さない。

赤ちゃんが、やっと立ち上がる・・・歩く・・・初めて人らしい行為・作業は何をするか。?それは、自分の大切な食べ物やおもちゃを大切な人に手渡す又は相手の口に入れようとする事です。愛するもの(母)への初めての作業です。初めての与える愛の行為・作業のはじまりです。猿には出来ません。

弱い生き物は、助け合って生きる・・・。それは、定められた運命であり神(創造主)から与えられた法則(約束事)であります。例えば、ミツバチや蟻を観れば分かります。それぞれに役割分担が有り、助け合って生きています。

人もまた、助け合い支え合い分かち合い生きて行く定めに有ります。 人間の歴史は、そうやって受け継がれ今日が有ります。もし、その事が出来なく成る又はしなく成った時に、人類は滅亡の一途を辿る事と成るでしょう。助け合いは→助け愛・支え合いは→支え愛・分かち合いは→分かち愛とも言えるでしょう。愛を頂き愛を与え合う・・のはじまりとも言えます。

人が決して一人では生きて行けない理由がそこに有ります。

人間のみに有らず、他の動植物も生きとし生ける全てのものは、子を産み育てる生命(子孫)の継続をする、言い換えれば、その行為(本能)は、理屈抜きの愛そのもので有り、愛の行為の積み重ね、愛の継続によって歴史が今が生物の存在あります。

この地球の中では、人も動植物も微生物も命の有るものは、何かを食して命を繋いでいます。それは、他の命を頂き又は与えて生きる輪廻の法則で成り立ち、その全ての成り合は寸分違う事無く調和が取れています。。その調和を崩す存在は、人間ですが、、。言い換えれば、この地球上で、人間のみに有らず、生きし生ける者達全ては、お互いが輪廻の元、命を支えながら和(調和)を持って、命を繋ぎ合い支えあって生きて居るのです。広く考えれば、愛によって繋がり調和によって保たれて来たのです。

大切な他種の命を私達は頂きながら生きて来た、今が有るのです。

長い人間の歴史の中では、災害が有り、ライオンなどに襲われる災いも有ったてしょうし病気や人間同士の戦争や飢えや最近では交通事故など・・。あらゆる理不尽な事が存在しながらも、助け合い分かち合い支え合い、難儀や苦労・苦悩・悲しみなどを乗り越え命の継続(愛の継続)をしながら生きて来た(歴史)のです。

自分の両親や先祖のみに有らず、その前の長い長い歴史の中で、必死に生きた人達の上に、今の私達が居ます。

産み育まれた愛によって、長い苦難の歴史・愛の継続の上で、懸命に生きて来た他種の命を頂き、今の自分が居る(存在)し、そして、決して一人では生きて行けない存在で有る事、輪廻と調和の中で存在している事を今一度、深く受け止めて頂きたいと思います。

如何に自分が尊い命で有り、軽んじては成らない存在である事を再認識して頂きたいのです。

自分の存在を知る・・・認識する・・・己を見つめ直す・・・。そこから、学びはスタートします。分かり切った知識・情報でしょうが、受け止めず聞き流し受け流しでは、学びには成りません。

受け止め、思考し、苦悩し理解し、自分のものにする・・。学び、勉強とはそう言った事に他なりません。

では、これから一緒に、確実に幸せに成る為の学びスタートしましょう。

今日の授業はここまでです。

  ←クイック宜しくお願いします。 ←スピリチュアルアート・自作神話HP