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スピリチュアル~☆~確実に幸せに成る為の学び・理不尽の極み・イエスキリストの場合・・

2012-07-12 15:25:37 | 猫話

 スピリチュアル~★~確実に幸せに成る為の学び・・理不尽の限りの時(極み・限界)の時・・・イエス・キリストから学ぶ(本日・後篇文)

★・・・本日、2話を記載しています・・・先ずは前編からお読み下さい。

◎ 自分の人生を生きて行く時・・もう、御仕舞いだ・・なんでこんな目に・・自分が・・と、どうにも納得の行かない出来事がおきてしまい、のこ世には神も仏も無い・・と心底思う時が有るかもしれない・大いなる理不尽と言える時である・・・そんな大いなる理不尽を経験したのがイエス・キリストである・・。

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イエス・キリストは神で有る・・。故に、彼の生き方や十字架に掛けられた悲惨な出来事も、神が故に成せる事・・と遠くに置いてみてしまう。

が、イエスキリストが肉体を持ち人として、極一般の貧しい家に生まれたのには意味が有る。必要性が有ったからだ。

これ以降は、あえてイエス・キリストを彼と呼び一人の人として観てみよう。

彼は、大工の子として生まれ、父の仕事を助けていた。早くにして父親を亡くしたその後は、母親と兄弟達の面倒を見ていた。兄弟達が一人前に成った頃に洗礼を受け、神の教えを説いて廻った。彼は、幼い頃から、常に聖書を学んていた。

洗礼後は、愛に重きを置き説いて廻り、弟子にも教えを説いていた。

しかし、彼が処刑に科せられる時に、裏切った弟子や、「イエスを知らないか・・」と聞かれ。「自分は関係ない。何の事か分らない。嘘を付いたら神の罰を受けてもいい・・・」とまで言ってイエスを知らないと嘘を付いた弟子もいた。弟子は、「知っている・・」と言ったならば自分も処刑に成るから嘘を付いたのだ。

彼(イエス)は、愛を説く事を目標とし人々に愛の大切さと神の教えを伝えようとした。しかし、それどころか、一番近くの信じるべきに値する弟子達に裏切られてしまった・・。誰も彼の愛を説く・・を結局は理解をせず、実行には至らなかった・・と言った事に成る。彼は、報われる事無く、人々にあざけられた揚句に死刑になってしまった。

処刑は、相当に苦痛を伴うものだった・・。

手足と両手の上から釘で十字架に打ちつけ、腰の骨は打ち砕いておく。腰の骨が有ると受刑者が身体を支え易くなるからである。腕の力だけで体重を支えなければならない。横隔膜を動かし呼吸をする為に腕だけで胴体持ち上げる必要が有る。そうするほどに激痛が増す・・。やがて力尽きて窒息死してしまう・・。彼は、昼過ぎに十字架につけられ午後三時に死亡した。

その間、空は闇に包まれたとも言われてる。

一人の人間の人生として彼(イエス)の事を考えた時に、真面目に生き、父親の仕事を助け父の死後の後は、懸命に家計を支え働き、その間も聖書を学び洗礼後は、全てを捨て只ひたすらに神の教えを説いた・・。揚句に、人々から罵倒され、弟子達に裏切られ・・肉体の激痛と報われる事の無い理不尽の極みを受け亡くなった・・。

これほどに報われない・・理不尽の極みは無いだろう・・。

彼は、十字架で息耐える前に、最後の言葉を発している。

我が神・・・我が神・・・どうして私をお見捨てに成ったのですか・・。」と言われた・・。人間的な悲痛の叫び・・とも言われているが、これは、詩篇第22編から始まり第31編「私は御手に身を委ねる・・。」まで言ったとの事で続きが有ったのだ。

彼の心魂(御霊)の言葉を私なりに超訳してみよう。

「例え、どんなに理不尽の限り(極み)があろうとも、直ぐ目の前に死が有ろうとも、・・私は、我が神を愛し信じる・・。(例え、神に見放されようともの意味)

私は、神と共に共存光栄し世と人の為に尽くしたい・・。

例え、誰からも愛されず誰からも必要とされずとも私は、神に愛され神に必要とされている事を既に確信しているのだから・・。

私は、神と共に共存共栄し、愛を持ってこの世と人々に尽そう・・。この世と人々の幸せが私の喜びで在り私の存在で有るのだから・・。

神に祝福あれ・・・。」

最後の心魂の叫びである・・。

彼は、死後、黄泉の国では無く、さらなる上・・神の国に入られ神として今もこれからも彼の心魂は・・愛は、私達に向けられている。

彼は、この世では報われる事無い理不尽の極みを受けた・・が、死後、報われる事と成った。相対性の原理・・である。

結果は、この世では無く死後に有る事・・。美徳の思想を持って何が有っても生き抜く・・必要性を説いている。さすれば、人が神の国に入る事が可能で有る・・・事を人間である身を持って示している。

故に、イエス・キリストは、人として生まれる必要が有った。

私達は、神の国には行けないかも知れない・・。何回も輪廻転生を繰り返し、心魂を清く白く輝かせる為に磨く努力が必要とされる。しかし、黄泉の国にも、段階は存在する・・。より高い位置に属する為に、この世での修行・体感・経験がある。

どんな境遇に置かれていても、美徳の思想を持って懸命に命を全うしなくてはならない・・。報われない・・どんな理不尽の極めが有っても自分を責めたり、落胆などしなくてよいと言う事である。

イエス・キリストの最後の叫び・・「我が神・・・我が神よ・・どうして私をお見捨てに成ったのですか・」・・は、超訳の文面の理不尽の極め・死が目の前・・・に有る時・・・神に見放された・・を指し例えそうだとしても、私は、神を愛し信じる・・・に続く。

生きて行く上で、この世に神も仏も無い・・と心底、思う時が有るかもしれない・・、しかし、そんな時にこそ、暗い闇の底にこそ神は、深い愛を持って静かに存在している。

故に、神を愛し信じなさい・・と言うことに尽きる。

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あっ晴れミーちゃん☆ ソーセージごちそう様

2012-03-23 04:33:27 | 猫話
 

あっ晴れミーちゃん☆ソーセージご馳走様!

 

3代目・・・だっただろうか?

我が家では、代々、飼う猫の名前はミーちゃんと名付けている。

決まりでも拘りでも無く、猫=ミーちゃん・・・それが当然の事で

血筋が違おうがメスだろうがオスだろうが、そう成っている。

三代目ミーちゃんはメスで、ハンター名人(名猫)で、面白いハプニング

な出来事が多かった。

猫も時代によってする事成す事が大きく変わって来る。

今の時代の完全室内飼いの猫とは違い、生魂たくましい。

4・50年前の猫は、獲物を捕獲すると、自慢げに飼い主に見せに来る。

「どうだ!すごいだろう・・・褒めてくれ・・・!」とばかりに、獲物を咥えて持って帰る。

持って帰るのは常では無く、猫なりに「今日の獲物は素晴らしい!」

と、自分なりに納得した時だけ持って帰る。その当たりは、人と余り変わりが無い。

100点満点のテストを学校から帰り、一目散に母親に見せる子供の様に・・・。

或いは、釣りをし大きな鯛でも釣った時、自慢たらたらと言いながら家族に

見せるお父さんの様に・・。

褒めてもらいたいのは、猫も同様で有る。

持って帰るのは、色々だったけれど、一番、驚きたまげたのは、蛇!だった。

よっぽどの自慢で急いで見せたかったのか、だら~んとした

長い長い蛇の頭と尾っぽが、力無く微妙に動いてる。

「ぎゃー!」いきなりのミーちゃんの登場に、私は驚いた。

私は、世の中で一番嫌いなのは蛇である。

「今日の獲物は、格別デカイ・・どうだ!凄いうだろう・・」

そんな感じで、蛇を咥えたままに、ニャーニャーと言っている。

人もそうだろうが猫も一番好きな人に見せて褒めてもらいたいらしい。

みーちゃんにとって一番好きでお気に入りは、どうやら私らしい。

何時もは褒めてやっていたけれど、この時ばかりは私は、ぎゃー!!!

と叫び、逃げ惑った。

それ以来、ミーちゃんは、蛇を持って帰る事は無かった。

 

それから、30数年後。

この時代のミーちゃんの獲物は変わっていた。

時代と共に捕獲する獲物も変わって来る訳だ。

有る日の事、例の事く、ミーちゃんが獲物を咥えて帰って来た。

蛇・・・?では無い。ソーセージだ。それも4本一束に成ったやつだ。

4本一束のソーセージを咥え「どうだ!すごいだろう・・・・」

そんな感じで自慢げに咥えたまま、ニャーニャーと言っている。

ミーちゃんは、捕獲名人の立派な猫だ。言い換えれば、立派な泥棒猫だ。

 

この時代の日本は高度成長期で、まだ、バブルは弾けていない。

そんな訳で、猫達の食べ物も味覚も大きく変わって来た。

蛇よりもねずみよりも、そりゃー肉や魚の身やソーセージは旨い。

獲物も変わって来る・・故に、立派な泥棒猫に成ってしまった訳だ。

私は、ソーセージの束をミーちゃんの口から取り上げた。

困ったものだ・・・。多分、近所から捕ってきたのだろうが、今更、返しに

行く訳にも行かない。行けば、余罪がいっぱい有るだろうから、文句を

たらたら言われかねない。どうしたものか・・・。

仕方が無い。今回は、ミーちゃんサイドの気持ちに徹する事にした。

「ミーちゃん、偉かったね。凄いね。」そう言って頭をなでてやり、

ソーセージ一本の口を切り与えてやった。

ミーちゃんは満足気に食べていた。

残り3本は、その日、我が家の夕食のサラダに使って頂いた。

そう。私は、泥棒猫の上前をはねた訳だ。

だって、ミーちゃんが、「お母さん、凄いでしょ。一緒に食べようよ。」

そう言っていたから・・・。言っていたと思う・・・。多分・・。

神様、お許し有れ!

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昔、飼っていた猫のお話☆チョッピリ切ないお話です。

2012-03-17 21:20:10 | 猫話

みーちゃんとチョン

みーちゃんとチョンは、母猫と娘猫で、様は親子猫です。みーちゃんは、ものすごく賢い母猫で、それに引き換え娘猫はチョッと、おバカな娘猫でした。飼っていたのはかなり昔、何十年も前の事で今の様に完全室内飼いをする時代と違い猫は自由気ままに家を出入りする時代でした。その時代にはキャットフードなどと言う言葉も無く、言葉が無いと言う事は、物自体(キャットフード)も無い訳で、もっぱら猫まんまと言う所の花かつおにご飯が当たり前で、人の食べ残しの魚の頭とか骨とか、料理に使った出汁取りの後のいりこなどが餌と言った所で、それでは足りないので、猫達も自分で餌を確保・補充していた。トムとジェリーの話に有る様にネズミを好んで捕獲していた。なので、人と猫はそれなりに協力し合っていたわけで、「猫の手も借りたいほどだ。」と言う言葉の裏には猫は役に立たない・・。そんな意味が有るのだろうが、猫に言わせれば家のねずみを捕獲して協力しているのだから、それは無いだろうと憤慨するかもしれない。この時代の猫は、今の時代の猫と比べると自由気ままで、それなりに幸せだったのかもしれない。食事はいまいち貧しかったかもしれないけれど、それは人間さまもたいした物は食べて無かったのだから、お互い様である。

ミーちゃんは、出産&子育てベテランの母猫で、チョンは図体は母猫に優っていたけれどもまだ一歳に成らない出産未経験の猫でした。ある日の事、みーちゃんが、4匹の子猫を出産しました。その頃の猫は、家の何処かで、例えば物置や長屋と言った所で、隠れる様に出産をしていた。隠れる様に出産をするのは猫の本能では有るがそれとばかりとも言えない。出産後直ぐの事、出産時にそわそわと母猫の様子を伺っていたチョンが、気が付けば、生まれたばかりの子猫1匹を咥え、うろついていた。生まれた子猫を自慢げに私に見せに来たかと思ったら、何時の間にか何処かへ消えて行った。その後、咥えられた子猫の姿は二度と観る事は無かった。おそらく、咥えたまま外に連れ出し死なせてしまったのだろう。自慢の姉妹を可愛さあまり死なせてしまったのだ。

それから数日後の事、学校から帰って来た私は、ランドセルを投げ出しミーちゃんの所に駆け寄ったが、子猫は1匹も居なかった。父親が、生まれたての子猫達を処分してしまったらしい。悲しい事ながら、その時代は、こう言った事は多々有った。その度に私は悲し思いをしていたのだが今の時代だと動物虐待に成るだろうが、この時代は、避妊も無いし私の知る限り、近くに動物病院などは全く無かった。自由気ままに外へ出て行く猫をどうしようも無い訳だ。母猫が隠れて出産するのも、学校が終わったら急いで家に帰り猫が無事なのかどうかを一目散に駆け寄り確認をするのもここに意味が有る。母猫も私も同じ養われの身だから、どうにも文句も言えない。
しかし、今回は、みーちゃんの様子が違っていた。家に入ろうとするチョンをやたらと威嚇し怒って全く入れない。どうにかして何処からか家に入ろうとするチョンを全くみーちゃんは入れようとしない。それはまる一日続いた。チョンに向けられる只ならぬ怒りの声は、「あんたと言う子は、また子猫を連れ出して何処にやったの?また、死なせてしまったんでしょう。お母さんは、許さないから・・・家には入れません。」とそんな感じで、濡れ衣を着せられたチョンは、どうにも困った様子で、ただただうろうろしていたのでした。

それから1年後、親子で出産し一緒に仲良く子育てをするみーちゃんとチョンの姿がありました。

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