昨日から四国八十八ヵ所をめぐるための準備として弘法大師空海が書いたものの現代語訳を読んだり、合気道の稽古に戻るための体作りをしたりして過ごしております。
そんな生活をしておりますと自分の中にある悩みや苦しみが和らいでいくようです。
事実、オーストラリアから帰った時点でいくぶんましになっているのを感じることが出来ていました。
今回の小笠原の旅ではいろいろなことを学び発見し気づかせてもらうことができました。
苦しみがあるほど心の感度は鋭くなるということもそのひとつです。
少し前までであれば涙しながら読んだであろう文章もすんなりと読めるようになってしまっています。それだけ自分の内側に強く染みこんではいないとも、言うことができるかもしれません。
過去に聖人と呼ばれた方々は他人の苦しみを自分のものとして感じ悶え、救う道を模索されました。
でも自分はただの何の変哲もないひとりの凡人です。他人の苦しみを感じるどころか自分自身のことで精一杯であります。もし、いまの苦しみから開放されるようなことがあれば間違いなく他人の苦しみなどには無頓着になるに違いありません。
そんな我の前に学びは無意味なものになってしまうのでしょうか?
今自分がその中の光明としてみているのは何か一つの道を求めるということです。
それは武道や書道、華道といったような道がつくものに限定はされません。
幸運にも小笠原でその実例を幾つも目のあたりにすることが出来ました。
自分の核となる一生続けることのできる道を見つけることです。
でもそれはどこにでも転がる、意外と何の変哲もないもののようです。
そんな生活をしておりますと自分の中にある悩みや苦しみが和らいでいくようです。
事実、オーストラリアから帰った時点でいくぶんましになっているのを感じることが出来ていました。
今回の小笠原の旅ではいろいろなことを学び発見し気づかせてもらうことができました。
苦しみがあるほど心の感度は鋭くなるということもそのひとつです。
少し前までであれば涙しながら読んだであろう文章もすんなりと読めるようになってしまっています。それだけ自分の内側に強く染みこんではいないとも、言うことができるかもしれません。
過去に聖人と呼ばれた方々は他人の苦しみを自分のものとして感じ悶え、救う道を模索されました。
でも自分はただの何の変哲もないひとりの凡人です。他人の苦しみを感じるどころか自分自身のことで精一杯であります。もし、いまの苦しみから開放されるようなことがあれば間違いなく他人の苦しみなどには無頓着になるに違いありません。
そんな我の前に学びは無意味なものになってしまうのでしょうか?
今自分がその中の光明としてみているのは何か一つの道を求めるということです。
それは武道や書道、華道といったような道がつくものに限定はされません。
幸運にも小笠原でその実例を幾つも目のあたりにすることが出来ました。
自分の核となる一生続けることのできる道を見つけることです。
でもそれはどこにでも転がる、意外と何の変哲もないもののようです。