灯りを消した部屋に満月の光が差し込んでいた。
サクヤは布団に横座りして籐椅子のセットを置いた板間に続く、ガラス戸に寄りかかっていた。いつもきっちり正座しているので、あんな風に気だるい様子を見るのは珍しい。浴衣の胸元もゆるくはだけていた。そんな姿を見たのは俺だけではない、ということがいつも胸にチリチリこびりついていて、身体の弱いサクヤを気遣わなくてはと自分に言い聞かせているのに、時々乱暴に扱ってしまう。そして後で激しく後悔する。その繰り返しだ。サクヤと俺の間からタカ兄が消えることはない。そのわだかまりに耐え切れず、せっかくの二人切りの夜に俺の方からタカ兄の名前を出してしまったのだ。
あの旅行で二人だけになってから、初めて見る表情や仕草がたくさんあった。神社の神主として、お茶やお花の先生として、一族の命運を担う”柱”として、そしてトンスケの母親として。サクヤにはいろんな顔がある。あの夜俺が見た、あの顔は何だろう。まるで別人のようにさえ感じた。
そう。表情が、とか話し方が、という問題ではない。まるで感電でもしたようにいつも真っ直ぐな黒髪が、その時うねってウエーブを描いていた。今思い返すと、娘の桐花の髪は真っ直ぐな時とくるくるウエーブな時があるのに、サクヤはほぼいつも真っ直ぐなのだ。第一、髪の長さが違う。結わないと腰までの長さがあるので、こんな風に布団に座れば足元に乱れ広がるはずだ。今は肩を越えるほどの長さしかない。顔も違う。神社にいる時はもっと、きりっと鼻筋通って彫りももっと深くて、男性的というか中性的。もっと目が切れ長で、眉もきつくて……あれ、この女、誰だ? 俺は誰と一緒にいるんだ? 輪郭の線が丸い。目も丸い。いつもと全然違う。見知らぬ女の顔だ。俺は総毛立ってしまった。思わず片膝立ちになって、サクヤの肩を掴んでしまった。いつもより幼い表情で、少し小首をかしげて甘えるように俺を見上げる姿を見ながら、俺は直感的に悟った。
これが、本来のサクヤだ。神社で、”柱”の役をしていない時のサクヤだ。そうだ。10歳で本格的に”柱”になる前、5歳から時々、桜さんの具合の悪い時にサクヤは柱の役を肩代わりしていた。そうだ、あの頃はサクヤの髪は真っ直ぐな時とうねっている時があった。すっかり忘れていた。役の顔にだんだん馴染んで来て、まるで寄生されて乗っ取られたかのように、サクヤの本体の姿が消えていたのだ。
「あのなあ。言わんといてくれる?」
サクヤは幼い少女のような表情で俺をじいっと見つめていた。次にいつ、この顔が見られるかわからない。役目に押し殺されて来た、サクヤの本当の気持ちを今度いつ聞く機会があるかわからない。俺は黙ってうなづいた。
「あのなあ。お母さんに言わんといて欲しいの。それと……都ちゃんに」
「葵さんと……都に? なんで都に? 何を言わなければいいんだ?」
黙って聞いていようと思っていたのに、サクヤの挙げた名前の意外さに思わず聞き返してしまった。
「お母さんと都ちゃんは、信じとるやろ。お父さんとタカちゃんがいつか帰って来るって」
俺は言葉に詰まった。ということは。サクヤは信じていないのだ。もう、新さんも、タカ兄も帰って来ないと”知って”いる。だから、俺と再婚したのだ。
「私は"柱"やから動くわけにいかんけど……ほいでも"行ってまう"こともあるんやけど……お母さんと都ちゃんなら……探しに行ってまうと思うんよ」
ぞっとした。葵さんも都も、ノン太も、見当違いのところを探しているわけか。だがいつかそのことに気づく。ノン太はともかく、葵さんや都なら、多分そこへ行ける。竜宮の向こうへ。元々住吉の周辺には本人の意思に関係なく"消える"人間が多いのだ。あの二人なら、"意図的に"向こうへ行ける。だが行けるなら帰って来られるんじゃないのか?
「でも、なんで? なんで帰って来ないんだ?」
サクヤは首をひねった。
「小さい頃から、タカちゃんに聞かされてたの。星の話。もうない星の話。その星に行くには竜宮を通って、時間と空間を超えないといけない。超えてしまうと、もう二度と帰ってこれないって」
タカ兄はサクヤの3つ上。拾われっ子だから実際の年齢なんてわからないが、3つぐらい上に見えていた。俺はサクヤの6つ下。俺にとってタカ兄は太刀打ち出来ないぐらい年上で、絶対に越えられない壁のようなものだ。
サクヤはこの神社で生まれた時からタカ兄と一緒に過ごした。タカ兄は拾われてから6つまで一言も口も聞かないし、表情も変わらない子供だったらしい。サクヤも泣きも笑いもしない無表情な赤ん坊だったらしい。俺が生まれて物心ついた時には、タカ兄は相変わらず声に出してしゃべらないものの、ニコニコ笑うし、何を言いたいか俺やノン太にもわかるし、サクヤは丸っきり他の子供のようにしゃべったり笑ったりしていた。だから俺は、サクヤとタカ兄が2人だけの世界に生きていた時期を見ていない。
2人は2人だけの世界から出て来たものの、やはり他の人間には共有できない、2人にしか通じない言葉があったと思う。俺は常に疎外感を感じてタカ兄に嫉妬していた。嫉妬するのもバカらしいぐらい、タカ兄は飛び抜けていたけれども、歯向かわないわけにはいかない。サクヤがタカ兄のものであることが、”不当”だと思っていた。取り返さなければならない、とずっと思っていた。その理由が、その夜初めてわかったのだ。
「私にもとても理解し切れない話なんで、私なりの解釈やと思って聞いて欲しいんやけど」と、サクヤは前置きして話し始めた。
「ウルマスも鏡ちゃんも、多分、信じてへんというか、何かの例え話やと思てるかも知らんのやけど、ほやけどね。ホントの話なんよ。タカちゃんと黒曜はなあ、住んどった星が壊れる寸前に、時空を超えて地球に避難して来たんやって。ほやけど、その時空を超える機械が、2人が移動する時にちょうど壊れてしもて、そんでな」
サクヤは左手を肩にやって波打つ髪を払った。こんなしぐさも初めて見る。
「そんで……一緒に来たかったのに、別れ別れになってしもたんよ。それに移動している最中に身体の時間も変わってしもて。それで、タカちゃんは1歳ぐらいの赤ん坊に戻って、この時代に漂着した。黒曜は……何千年も前の時間に着いて、その時、もう身体が無くなってたんやって」
荒唐無稽過ぎてピンと来ない。それでもサクヤはこんな冗談を言う人間じゃない。
「ちょっとむつかしい話なんやけど、2人は”ここだけ”に着いたわけやないんやって。星が壊れる時、子供たちをあちこちの住める星に分散させて避難させたらしいんよ。その座標が機械に登録されとって……2人より前に送られた子供らは、それぞれちゃんと、つまり身体が実体を持ってその空間に送られたんやけど……タカちゃんと黒曜は、その登録された全ての座標に送られてしもたんやって」
「全ての座標に?」
もう、いったい何の話なのか理解できない。その時空を超える機械とやらはタイムマシンのようなものか? アニメに出て来るワープする宇宙船のようなものなのか?
「先にタカちゃんが、最後に、もう機械がほとんど壊れとる時に黒曜が移動させられて、そんで、タカちゃんはひとつの空間にずっとおられへん。消えて、別の座標に移動してしまうんやて」
タカ兄は俺たちの見ている真ん前で消えた。流鏑馬の演武の真っ最中に。地面に装束が残っていたが、身につけていた衣服は消えていた。神隠しだと大騒ぎになった。
「黒曜は、身体がちゃんと送られへんかって……全部の座標に存在することになってまったんやて」
何のことやらわからない。物理の博士号を持ってたタカ兄なら説明できるのかもしれないが、俺は史学部だ。SFを読む素養もない。
「ほんでな。その壊れた機械で黒曜がここに飛ばされて来た時に、時空間に亀裂が入って、竜宮が出来てしもたんやて」
「それはつまり……」
「亀裂を通って、人間とか動物とか物が……その機械に登録されとった座標に飛ばされるんよ」
目眩がした。ということは? 新さんとタカ兄は、今頃どこかの他の星にいるのか? もしかして葵さんの弟も? これまでに消えた、住吉周辺の人間も?
「その星の大人たちは、空気と水があって気温なんかの条件も合う人間が住める星をいくつか見つけとってその位置の座標データを、その機械に入れてあったんやって。ほやけど、空気と水があって、暑過ぎず寒過ぎず快適というても、子供が放り出されて生きていけるか言うと、わからんやろ? 恐竜みたいのがおるかもしらんし、先住の人間が戦争しとったり、外見や能力の違う子供を怖がって殺すような人らに見つかるかもしらんやろ」
現在の地球だと限定しても、タカ兄のようなぶっ飛んだ子供が落ちて来た時に、どこなら受け入れられるか。タカ兄が仁兄に見つけられ、おふくろに保護されたのは本当に幸運だったのだ。
「それで同じ星でもいろんな場所といろんな時間に分散して送り込んだんやて。つまり……賭けやったんよ」
何が何やらわからないが、わからないまま猛烈に腹が立った。何に怒ればいいのかわからなかったが、酷い話だ。
「それで、タカちゃんと黒曜はそれぞれの場所で、他の子供らを探して、できれば助けたいて思てたんやって。亀裂が出来たせいなんか、ここにはたくさん、その星の子供が来とって、中には生き残ってここの人間と子供を残した子もおった。織居も南部も、その血を引いた子孫なんよ。だから亀裂の揺らぎに反応する。亀裂が開くと落ち込んで、別の座標まで行ってしまう。竜宮まで行って、浦島太郎みたいに帰って来た人もおった」
「帰って来た? そしたら新さんとタカ兄も……」
俺が言いかけた。言いかけて気付いた。黒曜は全ての座標に存在している。亀裂を通った先で暮らしている新さんを”知っている”のだ。そしてタカ兄も。別の星の、どこか未来か過去に漂着して、そこで生きている。
「お父さんは……ここから飛んだ先で、元気やったんやて。幸せな一生やったんやて。タカちゃんは黒曜からそう聞いて、私に教えてくれた。タカちゃんは……タカちゃん自身は、ここで消えた後、竜宮を超えた向こうでしばらくの間……何年か暮らして、またそこから飛ばされて……また別の星に飛ぶ。 今度の場所では、黒曜と一緒に暮らせるかもしれない。いつか消えることがわかってても、そう思って、そう願って生きてるんだって、そう言ってた。でもね、黒曜は……タカちゃんのことはタカちゃんにあんまり教えてくれへんのやって」
「教えてくれへんて……黒曜ももう、ここにおらへんよな。サクヤは子供の頃に見た、言うてたやろ。何千年も前にここに漂着して、他の座標と行ったり来たりしとるということか? そしたら、この先、また来るってことか? それとも今もどっかにおるんか?」
サクヤは月を見上げていた。灯りを消していても、満月の光で部屋の中の様子も、お互いの顔も冴え冴えと見える。常日頃、水神だの竜宮だのの話に慣れっこで、ホタルや妖魔を使役する生活をしている俺でも、サクヤの話は奇想天外に過ぎる。サクヤはタカ兄に聞いたと言った。タカ兄はサクヤのために黒曜の話をでっち上げたのかもしれないじゃないか。新さんは別のところで幸せに暮らしているから心配するな、と安心させるために。タカ兄はここでの役目を終えて、また別の星で子供を探す冒険をするから、残されたサクヤに、自分を待たずに新しい人生を歩もうと決心させるために。
「黒曜はおるよ。タカちゃんは何度か会いに行ったんやて。ここから遠いところに捕まっとって、タカちゃんには助けられへんのやって」
サクヤは月を見上げてぼんやり話していたのに、その時、やにわに姿勢を正して俺をまっすぐ見返して来た。挑むように。
「タカちゃんは、時間が足りんて、自分はもう、いつ"飛ばされる"かわからないからって、私に託したんよ。ここの亀裂を直すのに、どうしても黒曜が必要。でも今の私らだけでは力が足りない……黒曜を助けるのに、トンちゃんと……私ときーちゃんの子供の力がどうしても必要なんやって」
つっと腕を伸ばしてサクヤが俺の手を握った。俺は総毛立ってしまった。これではまるで蛇に睨まれたカエルだ。
「私なあ。タカちゃんと黒曜を会わせてやりたいんよ。黒曜を助けて、亀裂を直したら、どこか綺麗な平和な星で今度こそ、二人一緒に暮らせるかもしらんやん。壊れた星からやっとで逃げて来たのにこのままじゃ可哀想やわ。ほやから……きーちゃん、助けて。ね?」
そんなバカな話があるか。
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