白い花の唄

笛吹カトリ(karicobo)の日記、一次創作SF小説『神隠しの惑星』と『星の杜観察日記』のブログです。

白い花の唄 (その2)

2024年10月11日 16時07分04秒 | 星の杜観察日記
 水に入る前は、眩しいほど輝いている青い水面のすぐ下に眠っている澪さんが見えていた。靴と靴下を脱いで水に足を入れた途端、水面が揺れて澪さんの姿が消えた。予感はしていた。澪さんはもっと“深い”ところにいる。
 裸足で花を踏みながら歩く。色とりどりの花のようなサンゴ虫やイソギンチャク。色とりどりの魚たち。ここが本物のサンゴ礁のラグーンなら、折れたサンゴの枝やカキ殻などでガサガサして裸足で歩けるはずはない。それに枝サンゴのテーブルが出来ていて、こんなに平らなわけがないのだ。つまりここは、見せかけの花畑。見上げると透明な水面を透かして青い空が見える。真上にはレンズ型に水面が割れて、星空が見える。不思議な光景。ここは昼なのか夜なのか。
 11歳の時、鷹ちゃんと歩いた花畑。礁湖のなだらかな斜面を下ってゆくと、次第にサンゴの群落が途切れ途切れになってくる。魚もほとんど見かけなくなる。最後のテーブルサンゴの台座から離れると、真っ白なサンゴの欠片や砂が敷き詰められた青い空間になる。ところどころに球型のノウサンゴがゴロンと生えている。オアシスのようにノウサンゴの周りにだけ小魚が群れていて、あとは見渡す限り青と白の砂漠が拡がっている。私は腰から青紫のストールを外して、髪を上げていたピンに通して、最初のノウサンゴに刺した。透明な水の中、水面が遠くて何もかも青褪めて見える。それでもメイさんのストールの青紫は鮮やかに映えた。
 ここが最初の道標。振り仰ぐと水面が遠い。でもまだ一息で戻れる距離だ。怖い。ここにひとりで来たのは初めてだ。この先に進んで、私は帰って来られるだろうか。この道の先にきっと鷹ちゃんがいる。旅の初めから予感があった。もし鷹ちゃんに会えたら。私は戻って来られるだろうか。とにかく行かなくちゃ。鷹ちゃんに会うために? 帰るために? わからない。でも行かなくちゃ。私は白い砂を強く蹴った。ここからは泳いだ方が早い。目印は大きなノウサンゴだ。最初はひとつ。次はみっつ。最後にいつつ。直径3メートルほどの巨大な球型のサンゴが真っ白なサンゴの砂の上にゴロンと生えているのだ。目印は魚の群れ。サンゴ礁は生き物あふれる豊かな海のように見えるが、透明度の高い澄んだ水は栄養が乏しく、生き物が住めるのはサンゴの群落があるところだけだ、と講義で聴いた。ここは本物の海じゃないけれど、このイメージを作った“誰か”は地球のサンゴ礁の生態系を知っているらしい。今のところ私の知らない奇天烈な魚や生き物は登場していない。しばらく魚影が薄くて心細かったが、真っ青な空間を泳いでいると、水面の少し下をコバンアジの銀色の群れが通り過ぎた。日光を反射しているように、キラキラ眩く光っている。私があの社殿で水に足を踏み入れた時は、もう日没後で空は暗くなっていた。“ここ”の時間は何時なのだろう。泳ぐ速度を速めてコバンアジの群れを追っていると、見つけた。次の道標。みっつのノウサンゴだ。

 数百匹の水色のデバスズメダイが、海底のノウサンゴから水面に向かって噴き上がるように群れを作っていた。綺麗。あの時もこの魚の群れを見た。鷹ちゃんと手を繋いで。薄い水色の魚なのに、なぜか桜の花吹雪を連想させる。夢みたいに綺麗だ。こんなに綺麗な風景を一番大好きな人と見られるなんて。こんな幸せなことがあるだろうか。もう死んじゃってもいい。あの時、本気でそう思った。そうしたら鷹ちゃんが目配せして、下を指差した。ノウサンゴの上に大きなアオウミガメが休んでいた。そう、ちょうどこんな風に。同じ個体だろうか?
“ここはいつも案内役がいるんだ。ここに来たら彼を探せばいい”
 あの時もデバスズメダイの群れの中をしばらく漂った後、ジャックナイフでサンゴまで一気に潜ってウミガメの甲羅を掴まえた。カメは首をもたげて私たちの方を見ると、少しうなづいたように見えた。今度はいきなり甲羅を触らないで、ノウサンゴの少し上まで潜って様子を見ることにした。亀さんはやっぱり首をもたげると、“掴まんなさい”という風にうなづいた。
“ありがとう! でもちょっと待ってね”
 腰から朱色のストールを解いて、またピンでサンゴに留めた。
“これで大丈夫。じゃあ、お世話になります”
 アオウミガメは力強くヒレを動かして、紺碧の空間を次の道標へと連れて行ってくれた。大丈夫。怖くない。こんなに綺麗な空間なんだもの。鷹ちゃんが教えてくれた道だもの。あの時もこうして海中を滑るように散歩した。何も怖くなかった。時々、ロウニンアジやフエダイの群れがついて来てしばらく一緒に泳いだりした。大丈夫。ここは死の世界じゃない。有り様は違うけど、命の行き交う空間だわ。まだここまでは。
 いつつのノウサンゴ。ここが境界線だ。ウミガメはノウサンゴの少し上で泳ぎを止めて、私に“どうするね?”という風に首をもたげた。
“ありがとう。でも大丈夫。私、行くわ!”
 ウミガメの甲羅から手を離すと、眼下のサンゴに向けてゆっくり潜り始めた。深い。暗い。もう辺りの空間は紺色を通り越して真っ黒だ。そしてこのサンゴには魚の影がなかった。あの時もそうだった。ちょうど同じ大きさの球型のサンゴが横一列に5つ、並んでいる。人工物のように。
 真ん中のサンゴに降り立って、パールグレーのストールをピンで留めた。ストールは海流に静かに煽られてゆっくりはためいた。サンゴの上をトンと蹴って、真っ直ぐに海底に降りた。
“オリエンテーションはここで終わりだ。この先が本物の竜宮だ。都。目眩ましを解く踊り、覚えてる?”
“目眩ましを解く? この間、玉置神社で舞ったやり方でいいの? 反閇を踏んで、逆から……”
“そうそう。この5つのサンゴを1辺にして、正方形の場を作って”
 覚えてる。あの時は鷹ちゃんに見守られて舞った。今も舞い終えて振り向いたら、鷹ちゃんがいるのでは、と思わずにいられなかった。ここは本物の海底ではないものの、地上で踊るのとは違った独特の重力と浮力を感じながらステップを踏んだ。直径3メートルほどの球が5つ並ぶ列を1辺として、15メートル四方の場を作ると息がはずむほどの仕事になった。舞い終えて真ん中のサンゴを見上げると、そこはもう、海底ではなかった。花畑。白い小さな花が揺れる、見渡す限りの花畑だった。見上げると銀河。そう。この夜の花畑が竜宮の入り口だ。5つのノウサンゴは、もう生き物らしい有機的な曲線をしてなかった。真球のなめらかな冷たい石になっていた。
 ここが境界線。ここに帰ってくれば、戻れる。大丈夫。ここまではあの時、鷹ちゃんと来た。でもこの先は、初めてだ。白い花畑が続くなだらかな谷を下りてゆくと、突然、崖が現れる。大陸棚。ドロップオフだ。峡谷を挟んで向こうの台地にも白い花が咲いているのが見える。見晴るかす谷の向こうの台地も、おそらくここと同じような花畑なのだろう。そして、それぞれ、別の世界に繋がる境界線なのだ、きっと。ぐるりと丸く崖に囲まれた深い谷の底から、塔が屹立している。私は今からあの塔に降りて行く。そして正しくこの台地に戻って来ないと帰れない。
 首に巻いた最後のストールを解いた。最初のサンゴで留めたストールより少し紫が強めの青紫色。メイさんが私の色だと言って染めてくれた色。これが目印だ。崖から峡谷に突き出るように生えているネズの木の枝にストールを結びつけて、塔から見えるように垂らした。
 もうここは海中じゃない。でもここは地上でもない。だから私は飛べる。そしてあなたに会える。鷹ちゃん、そこにいるんでしょう? 竜宮城の塔。そこは不思議な時間の流れる空間らしい、と鷹ちゃんが話してくれた。玉手箱のように、開ける扉ごとに、塔の階層ごとに、異なる時空に繋がっているのかもしれない、と。だから、帰り道の道標を見失わないようにしないといけない。自分が何者か、どこから来て、どこへ帰るのか、忘れないように。大丈夫。まだ忘れてない。竜宮城へ降りて、澪さんと赤ちゃんを連れて、あの明るいサンゴ礁の海に戻る、絶対に。
 私は塔に向かって、崖から身を踊らせた。
  


 

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