神官が厭なら、女官はどうか、という宮内庁職員のいい加減な発言で、七歳頃だったろうか、数日間、後宮へ放り込まれたことがある。
女官たちと同じ、丈の長い内掛けを着せられて、五、六人の女の最後尾を歩いて行くと、神社の本殿のような回廊で囲まれた内の、一段高い位置に、「寝所」があった。正面に御簾が掛けてあるのも神社に似ているが、しかし、その奥には派手な色柄の布団が何枚か重ねて敷いてあって、まるでTVドラマに出てくる江戸城の大奥のようだった。年増の女官は私を回廊の一隅に正座させて、「寝てはいけません」と命じた。夜通し、そこに座っているのが宿直(とのい)であった。
その夜、寝所に現れたのは三笠宮寛仁だった。いつも暇を持て余している皇族は、私が皇居へ来ると必ず誰かが見物に来たものだったが、大概は皇居に紛れ込んだ野良猫と同様、格好の憂さ晴らしの標的にされた。この時も、寛仁は、回廊に正座している私を発見すると、さも嬉しそうに近づいて来た。
「お前は女官になったのか?」
「お前は女官になったのか?」
逆らうと何をされるか分からないので、私は無言で首を振っただけだった。
すると寛仁は、私の髪の毛を掴んで引っ張り、もう片方の手で私の頬を撫でながら、「こうやると、どうだ?」と顔を近づけて来た。
私は寛仁を突き放して、逃げ出した。助けてくれそうな女官を目で探したが、女等はみんな顔を伏せて、こちらを見ようとしない。
とうとう寛仁が私の内掛けを剥ぎ取り、なおも逃げようとする私の片足を掴んで、着物の裾を膝の上までめくり上げると、興奮した声で言った。
「お前、それを脱げ!」「嫌だ」
私が抵抗すると、今度は・・・「俺も脱ぐから、お前も脱げ」と何だかおかしなことを言い出した。
私が抵抗すると、今度は・・・「俺も脱ぐから、お前も脱げ」と何だかおかしなことを言い出した。
まさか、これが互いにとって平等なのだ、とこの男は考えているのかしら? 小学生の私は疑問に思ったものだが、結局、悲鳴が出るに任せて、必死に暴れた。
子供の甲高い悲鳴に興ざめしたのだろう、寛仁は私の足を掴んでいた手を離して、機嫌が悪そうに足音荒く走り回ると、代りの若い女官を一人捉まえた。「お前でいい。来い」その女を半裸にして、寝所の布団へ引きずって行った。
と、ここまでは「大奥」の話と大差無いのだが、真の狂気はこの後である。
獣狗の饗宴が終って、乱れた布団に残された女がめそめそ泣き始めると、別の若い女が私の前に立って、次のように言った。
「何故、逃げたのよ。あんたが我慢すれば良かったのに。ああいう時は、黙って我慢するものよ」
この女は、乱暴された女を助けようともしなかったくせに、七歳の子供に身代わりになれと言うのだった。
「何故、逃げたのよ。あんたが我慢すれば良かったのに。ああいう時は、黙って我慢するものよ」
この女は、乱暴された女を助けようともしなかったくせに、七歳の子供に身代わりになれと言うのだった。
これがこの国の「献身の美学」というものである。
着替えをしている最中に、私はその女に睡眠薬の注射を打たれた。それから着物を剥ぎ取られ、シュミーズ姿で朦朧となったところを、宮内庁の男に写真を撮られた。
「どうして、撮るの?」と、カメラを構えている男に訊いたら、「寛仁様がお望みです」と答えた。
数十年後に皇居へ行った時、その時の写真を、本当に寛仁が持っていたのには驚いた。いわゆる「ロリコン」である。「恥知らず!」と私は罵ったが、色狂いの寛仁に抱きつかれた。
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追記: 妾について
昭和が終わる頃、宮内庁でこう聞いた。「天皇陛下の女は処分しました」 女と言うのは、妾のことだ。・・・私はその女を知っている。小学生の時、後宮に閉じ込められて、大勢の女官にいじめられていたところを、四十歳くらいの女が助けてくれたことがあった。他の女に比べて、特別に大柄で美しい女性だった。その女が奥へ消えた後、女官の一人が私に囁いた、「彼女、また産んだのよ」 皇族の子供を産む女はまれだったが、三人目を産んだそうだ。
裕仁の妾について吐露した男は、「子供も処分した」と続けた。それから「皇太子殿下も・・・」と声を潜めた。「皇族の子供は要らないのです。何故だか分かりますね」