「姫神」の祭祀を継承した私は、我が家に遺されていた「倭国の宝物」の中に国王墓や集落跡を記した地図を見つけて、未だに膨大な埋蔵品が埋もれたまま放置されている事実に驚いた。そして、中でも斉王の印璽が副葬されているらしい九州博多の近くにある弥生遺跡について、「もう一度、調査して欲しい」と宮内庁へ願い出た。
しかし、後で考えてみると、宮内庁はとうに戦前から九州北部の遺跡を重要視しており、この時、先祖のお墓を発掘してみたいという子供の「宝探し」にも気持ち悪いほど良い返事が来て、私が待ち焦がれる間もなく、博物館による再調査が始まった。
若い皇宮護衛官二人が私を車の後部座席に乗せて、「どこまで行けるのか分からないけど、行ける所まで行ってみるね」と、まるで未踏の地へ入るかのように、舗装されていない道路を揺さぶられながら走って行った。
ようやく山麓の木立に囲まれた発掘現場に着くと、地面は小さな畑のように四角く区切られて、1メートルほど掘り下げられた泥の中に、何体もの白い人骨が横たわっていた。斉王と王妃は髪を美しく結い上げて、紀元前の中国式衣服をきっちりと纏い、頭上に様々な色の宝石を埋め込んだ金冠が置かれ、脇には同様の宝剣が置かれてあった。
ところが、そこへ、天皇裕仁が現れたのだ。裕仁はいつも従えている武官(皇宮警察護衛官)を数人連れていた。
武官らは、まだ発掘途中だった遺跡現場に神経ガスの手榴弾を放ち、その場にいた十数人ほどの博物館員や作業員らが八方へ散って逃げると、作業小屋に保管されてあった埋蔵品の「印璽」や「宝冠」などを強奪して行った。一人が、最後に、まだ半分くらい土に埋まっていた「斉王の遺骨」に、硫酸のような薬剤を撒いた。
結局、遺跡は埋め戻されて、「今後十年くらいは掘れないだろう」と博物館員が呟いた。
************************************************
追記: 神経ガス・サリンについて
① サリンは、警察機関などで、第二次大戦前から使用されていた。まず最初に視神経を麻痺させるので、大概は煙幕剤と同じように使われていた。私が四、五歳の頃、福岡県の博物館が弥生遺跡を発掘調査していたところ、古代中国の斉王墓から印璽などの副葬品が発見されたが、これを、天皇裕仁が皇宮護衛官にサリンを撒かせて強奪し、皇居へ持ち帰った。この成功によって、裕仁は改めて皇宮警察に「サリンを使っても良い」と認可した。
② 皇宮警察は「皇族方は何をやってもいい。だから、お世話をする我々もまた何をやってもいいのだ」と豪語していた。そして、実際に何をやったかと言えば、麻酔銃やサリンを使って、宮内庁や皇宮警察で働いている若い女性職員を捉え、庁舎に監禁し、大勢で無差別に強姦したのだ。戦時中の「従軍慰安婦」と同じである。女らはすぐに腹が大きく膨れて、(医務官はいたが、慰安婦は使い捨てるものだと言って、堕胎はしないので)宮殿の奥で大勢の赤ん坊が生まれた。この、男らにとって「要らない子供」と「失態を犯した女」を、護衛官らは次々に殺した。
皇宮警察と宮内庁は結託し、外部から皇居へ来る警察庁や内閣府、国会、裁判所、民間企業で働く者にも、「慰安婦」を提供した。生まれた子供のうち、女児のほとんどは母親同様に性虐待を繰り返されたあげく死んでしまったが、男児も「麻酔を使えば、体の何処にでも穴を開けられる」と護衛官らが言っていたので、その半数は死んでしまったと想像される。
③ 生き残った男児が中学を卒業する頃になると、「そろそろ、あいつらも片付けなければならない」と皇宮護衛官は言った。親がいない子供を誰かの「養子」にして、成績が良い少数の者は警察学校へ、防衛学校へ、残りは民間企業に住込みで就職させた。その時、護衛官は彼らに「餞別」として、サリン弾一個と青酸カリを配った。
しかし、一年も経たずに、「あいつら、逃げたんだ。せっかく仕事をやったのに」と護衛官が怒っていた。或る日、私の護衛と称しながら、実は私が逃げないように監視していた五人ほどの男子を、護衛官が実弾で次々に撃った。一発目は私の足下から1メートルくらい離れた地面に当たったが、二発目以降は、私の周辺にいた男子らを撃ち抜いた。誰かが最期の抵抗として投げたのだろう、サリンのガスが煙っていた。