【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

#本当のあらすじ

2019年03月06日 | 歴史

 ※ この話は子供には不適切かも知れません。

 

 

二歳の時> 

1)自宅前で遊んでいたところ、宮内庁男性職員二名に、睡眠薬を嗅がされて車に押し込められ、皇居へ拉致された。

 

 

2)宮内庁舎の一室で一ヶ月ほど監禁されていた間に、皇宮警察護衛官に青酸カリを塗った針で刺された。

(後で、護衛官に私を襲った理由を訊いたところ、「私が誰か知らない、つまり、皇居の中で不審者を発見したのだから、お前を殺してもいいのだ」と答えた。)

 

 

3)同じ頃、私の世話をしていた侍女ら(宮内庁職員)に、砒素の粉を舐めさせられたり、砒素の粉を米飯に振りかけて食べさせられた、砒素の粉を着物にまぶして着せられた、砒素の粉を撒いた布団に寝かされた。(殺人未遂)

(実行した女の一人に理由を訊くと、「砒素は使ってもいいのよ。昔から宮内庁の慣習で、子供には皆やることになっているの」と答えた。たぶん小さな子供がしじゅう興奮してはしゃいだり泣いたり走り出したりするのを、大人しくさせておく為なのだろう。当時の子供は犬猫と同等だった)

食事の世話係の侍女は、私を斜めに抱きかかえて、スプーンで食べ物を口へ入れるのだが、私が飲み込まないうちに次の一杯を押し込むので、私がむせて吐き出すと、「嘔吐した」と言って、最初は何かの丸薬を飲ませられたが、私が再び吐くと、ついに私は「胃弱」と言われて食事を制限された。

その他、侍女らには、剃刀で顔や手の甲を切られた、裁ちばさみで髪を切られた、着ていた衣服を切られた、耳を切られた。

 

 

4)朝から水の一杯もくれないので、とうとう侍女に「おぶう」と言ったら、背丈より深く水が張られた風呂に漬けられて、肺に水が入り、溺死しそうになった。(殺人未遂)

 

 

5)午睡の時間に添い寝をしていた侍女に、短刀で臀部上部を刺された。傷口は医者が縫合したが、後でその外科手術の「縫い跡」を隠すために再び手術が施され、皮膚を八方から引っ張り合わせた中心に、大きな黒いホクロを作られた。(殺人未遂)

 

 

6)自宅で、私が皇宮警察護衛官に拉致されそうになった時、祖母が家から走り出て来て、「自分が何でもするから、この子を助けてくれ」と懇願した。すると、護衛官は青酸カリの丸薬を取り出して、「それなら、これを飲んでみろ」と言い、祖母はその丸薬を唇に擦り付けられて、吐いて倒れた。(殺人未遂)

 

 

 

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三歳の頃> 

1)皇宮警察護衛官が、連日、私の家を襲撃してきた。家の中へサリン弾を投げ込み、青酸カリの注射器で私や母を刺した。また、液体サリンを、私が寝ている布団の上からかけた。砒素を、食物や粉ミルクに混入させた。実弾銃で、家の外から撃ったので、壁に大きな穴が開いた、また、家の中で天井へ向けて撃ったので、瓦が割れて、雨漏りするようになった。

また、安全ピンを抜いた手榴弾を私に持たせた。(私が畑へ向けて投げたので、畑の中で爆発した。)(殺人未遂)

 

 

2)結核を患っていた皇太子明仁に、うつされそうになった。皇居で食事を伴にした時、明仁が生の貝を無理やり私の口に入れたので、私が吐き出すと、怒った明仁は武官に命じ、武官は私の喉に麻酔薬の注射器を突き刺した。そして、弛緩した私の細い食道にゴム・ホースを挿入し、その管の先端から胃の中へ、さらに麻酔薬を垂らし込んだ。

 

 

3)皇居で、皇宮警察護衛官に、護身用小型銃で頭を撃たれた。宮内庁病院の天井からロープで俯せ状態に吊られて、どうにか治癒したが、退院後、護衛官らが私の頭を強く撫でると、てんかんのように泡を吹いて卒倒するのが面白いと言って、何度も失神させられた。(殺人未遂)

 

 

4)振袖を着せられて、昭和天皇裕仁の元へ挨拶に連れて行かれた時、裕仁と徳川義寛侍従に、護身用ペン型銃で標的にされた。袂が丸く焦げて、使い物にならなくなった。そこへ、銃声を聞いた皇宮警察護衛官一名が走り込んで来た。裕仁と徳川侍従はこの目撃者を撃ち殺した。それから、私の口を封じるために、何らかの薬剤を注射したのだが、裕仁が打った薬剤は私の胸に3cm程の白痣を作り、徳川侍従が打った薬剤は私の腹の半分に大きな焦げ茶色の痣を作った。

(その後、自宅で、生まれたばかりの弟が襲われ、何かの薬剤を注射されて、腹に赤痣を作られた。また、その後に生まれた妹は、顔に青痣を作られた。これによって、痣は、私の胸に作られた白色、弟の赤色、妹の青色、と三色が揃ったわけだ。)

 

 

5)自宅へ帰る車が用意されるのを待っている間、私が鉛筆を使って絵を描いていたところ、宮内庁の男性職員がその鉛筆を指して、「それはあなたに上げますよ」と言ったので、鉛筆を持ったまま部屋を出ようとしたら、背後から「泥棒!」と言われた。鉛筆は机の上に返したが、男は私が窃盗を働いた、と文書に記録した。

 

 

6)一度だけ、宮内庁男性職員から茶封筒に入れた現金を渡されたことがあるが、帰路の車内で、運転手と助手席の男二名に封筒ごと金を盗まれた。次回、そのことを職員に告げると、横から、(車馬課の?)運転手が「預かってあげよう」と申し出て、以後、封筒は運転手に渡され、自宅に着いても私や家族に渡されなかった。また、運転手が別の男性職員に、数枚の札を渡すのを見た。また、金を受け取った職員が私のポケットに札を押し込み、私がそれを引っ張り出しているところを、写真に撮られた。
(現在でも、時々、宮内庁や皇宮護衛官が万引きで逮捕されたという記事を見るが、公務員の本性なのか他人の金を使うことしか考えていないからだろう。)

 

 

7)侍女らに何度も殺されかかったので、宮内庁の年増女に「女は怖いから嫌だ」と言うと、「男ならいいのですね」と言い返され、皇宮警察へ移動させられた。しかし、皇宮警察の待遇はもっと酷く、昼夜、窓も無い暗い部屋で監禁されたので、今度は「外で遊びたい」と言うと、炎天下の屋外に放置され、熱射病になった。

或る日、宮内庁庁舎と皇宮警察庁舎の間にある林で、私が所在無げにしていると、護衛官が「これで遊べ」と言って、猫の足をくれた。切り口はすでに乾いていて、血は出ていなかった。

 

 

8)皇宮警察護衛官に、上方を向いて口を開けさせられ、短刀を喉に差し込まれた。短刀を引き抜く時、喉と口の端が切れて、血が顎をつたって落ちた。(殺人未遂)

その他、ナイフで耳を切られた、顔を切られた、着物を切られた。(ピアノを習い始めた直後に)右手の小指を掴まれて、捻られ、骨折させられた。銃撃で腕の皮膚を焼かれた。麻酔薬を尻に注射されて、失禁させられ、下着を脱がされた後、そのまま屋外を連れ回された。青酸カリを塗った針で、性器を刺された。

 

 

9)宮内庁の玄関へ助けを求めて逃げたが、受付の女性職員にサリン弾を投げつけられ、撃針銃で撃たれた。三度目くらいの時、自動ドアの電源を切られて、玄関の外に締め出され、(スプリンクラーの様に)頭上からサリンを噴射された。(殺人未遂)

 

 

10)宮内庁の医務官に、膣を開けられて、小さな綿タンポンのような物を入れられた。下着を穿かされないまま屋外に放置されたが、麻酔が切れてくると、自分の股から10cmくらいの紐が出ているのに気づき、引っ張ってみたが抜けず、発狂しそうになって失禁した後、多少の出血をしたが引き抜いた。

それを見ていた皇宮警察護衛官が、「メンスがあるから、できるのか?」と言って、私の膣に指を入れようとした。激痛で悲鳴を挙げると、護衛官は手を引っ込めたが、膣の入口を爪で引っ掻れたため出血がひどくなって、しばらく排尿時に血が混じった。

 

 

11)屋外に放置されている間に、皇宮警察護衛官が宮内庁大膳課の女性職員を捉えて、皇宮警察庁舎へ拉致して行くのを目撃した。二度目に目撃した時、私も一緒に監禁されて、女性が強姦されるところを見せられた。

 

 

12)また、私が屋外の木陰にいると、誰かがおくるみに包んだ赤ん坊を連れて来て、地面に置き去りにした。そこへ皇宮警察が飼っている犬数匹が走って来て、赤ん坊を包んでいる布を噛んで引っ張った。私は悲鳴を上げながら、樹の間を縫って四本か五本分逃げたが、犬は私を追って来なかった、赤ん坊に喰いついているのだ。声をからして呼ぶと、護衛官二名が走って来て、犬を赤ん坊から引き離して、引き摺って行った。しかし、肝心の赤ん坊はまだ地面に転がっていた。そして、第二の大型犬の群れが疾走して来た。(皇宮警察は、数十匹の犬を一つの檻に入れると喧嘩をするので、幾つかの檻に分けて飼っているのだ。) 一匹が赤ん坊の片方の腕を噛みちぎり、もう一匹が顔に喰いついた。私は宮内庁の玄関へ走った。女が一人、ガラス・ドアの外へ出て来て、どうしたの?と訊いたが、赤ん坊を助けには行かなかった。離れた所から、男の声が飛んだ。「そいつを中へ入れるな!」 女は私を置いて、自分だけ玄関へ入ると、鍵を閉めてしまった。かなり時間が経ってから、犬笛が鳴った。(殺人)

赤ん坊が犬に噛まれるのは、二回見た。二回目の時は、皇宮警察護衛官が赤ん坊を抱いて来た。男は麻酔薬か何かの注射を赤ん坊に打ってから、走り去った。

 

翌年、皇宮警察庁舎の仮眠室で、二歳くらいの女児が護衛官に虐待されるのを見た。私は逃げようとしたが、別の護衛官に捉えられ、最初の男が子供の膣に指を入れているのを見せられた。出血をしているのか、「もうアレがある」と主犯の男が振り向いて言い、従犯の男が「もうじき、子供ができるぞ」と応じた。その時、女児の悲鳴が上がった。すると、男が麻酔薬か何かを注射した。しかし、しばらく経つと、また鋭い悲鳴があがり、再び男が注射をした。三本か四本打たれた女児は、死んでしまったようだった。私を掴んでいた男の手が緩んだので、私は部屋から飛び出して、叫んだ。その後で、そこに大勢の護衛官がいるのに気がついた。子供が虐待されている部屋の隣室は、護衛官らが日常勤務している大部屋だったのだ。実行した二人の男は屋外へ逃げて行ったが、誰も追わなかった。子供の様子も見に行かなかった。(殺人)

 

何日か経った次の時、同じ主犯の男は(子供が丸まっているらしい)布団の中へ手を入れていた。子供は最初から死んだように動かなかった。男は子供に何かの注射をして、部屋を出て行った。隣室には、四人ほど護衛官がいたが、私は机の下へ潜って、赤い緊急ボタンを探し当て、それを押した。ベルが鳴り響き、(その後はまるで道化の猿芝居を見るようだったが)大勢の護衛官が火事の時に使う消火用ホースを担いで走って来た。(殺人)

いつも和服を着ている宮内庁の年増女が、言った。「ああいう親の無い子は、可哀想なの。

・・・死んだほうが幸せなのよ。」 

こういった「親がいない子供」のうち、女児の多くは護衛官らに性虐待された末に殺されてしまったが、男児らは「死にたくなかったら、何でも言われたとおりにやれ」と脅されたので、毎日、「女児」を一人か二人捕獲して、護衛官らに差し出した。或る時、男児の一人が興奮した面持ちで言った、「自分が女ではなかったことを、心底、幸運に思う」と。

一方、皇族の相手をしたと言う十代の女もいた。彼女は或る時を堺に、突然、豪奢な打掛を着せられ、護身用の銃を持たされた。そして、後宮の女らの前で、「私、きっと子供を産むわ」と宣言した。しかし、その女がいなくなると、年上の女が言った、「あの子、知らないのよ。・・・妊娠したら殺されちゃうのに。」 

 

 

 

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四歳の頃>

1)世話係の侍女の策略で、(皇室関係者の子供だったと思う)同年代の男児と一つの布団に寝かされて、男児に猥褻行為をされた。女らはそれを「同衾した」と言いふらした。一方、年寄りの宮内庁男性職員に、娼婦が寝床でするような仕草を教えられ、男児の前でそうするよう強要された。また、その男は護衛官らにも私の性器や尻を触るよう指示した。(それで、私は四十代になるまで、宮内庁職員や皇宮警察護衛官らにやたら尻や性器を触られる、という猥褻行為をされた。それは私が「親魏倭王印」を東京国立博物館に委託した後、勲章授与されても、同様だった。)

 

 

2)御用牧場へ連れて行かれて、馬の出産を見せられた。まだ胞衣に包まれたままの仔馬を、宮内庁男性職員が私に抱かせて、「お前もこうして生まれたのだ」と言いながら、それを破り、その生臭い塊を私の顔にくっつけた。私を連れて来た職員は「汚いから、お前は車に乗せられない」と言って、私を置き去りにした。

 

 

3)宮内庁男性職員に上野動物園へ連れて行かれて、にしき蛇舎の中に閉じ込められた。檻は他の動物のものだったのか柵の隙間が広かったので、蛇は悠々檻から出て来た。

 

 

4)昭和天皇裕仁は、吉武高木遺跡の発掘現場で護衛官にサリンを撒かせて、出土した副葬品(古代中国の斉王の宝物)を略奪した。あとに残った人骨には硫酸らしいものが撒かれて、遺跡は埋め戻された。この成功によって、裕仁は皇居へ戻った後、護衛官らに「サリンを使っても良い」と宣下した。以後、私は拉致される度に、サリンを浴びせられる羽目になった。(そのうち二回は、ガス室に閉じ込められて、痙攣を起こして卒倒した。)(殺人未遂)

 

 

5)東久邇盛厚と稔彦の親子が、小銃を持った皇宮警察護衛官二十名くらいを連れて、私宅を襲って来た。「秦の宝物」と「後醍醐天皇の直筆書」など数点を盗まれ、最も古い竹簡が皇居の庭で燃やされた。私が「誰か、火を消して」と叫ぶと、護衛官の一人がそれへ小便をかけた。

 

 

6)皇宮警察護衛官四名が、曾祖父宅をサリンで襲撃して、親族の大人全員が倒された。倉庫の裏にいて助かった私は、近くの駐在所へ走ったが、そこの警察官も屋外に倒れていた。別の交番へ知らせ、警察官と一緒にパトカーで自宅のほうへ戻って来ると、途中で駐在員に成りすました護衛官に車は止められて、サリン弾を車内に投げ入れられた。

 

 

7)皇宮警察護衛官に、山へ連れて行かれて、背負わされたリュックサックに、口を開けたサリン弾を入れられた。別の時、山道でサリン弾を投げつけられ、盲目で遺棄されて、一夜、山中で過ごした。また別の時、手や顔に蜂蜜のようなものを塗られ、熊蜂に体中を刺された。

 

 

8)皇宮警察護衛官に、破損した小型船の客室に乗せられた。水が入って来たのでデッキへ出て、浮き輪を探したが、全部、穴が開けられていた。決死の覚悟で海へ飛び込むと、別の船に乗り換えた護衛官らが実弾で撃って来たので、溺死しそうになった。(殺人未遂)

 

 

9)外国へは、最初の二回くらいは宮内庁男性職員に連れて行かれたが、職員が暴漢にナイフで刺されたので、以後は皇宮警察護衛官だけが付いて、米国、英国、フランス、イタリア、エジプト、アフリカなどへ旅行した。護衛官らは旅行費用が公費で賄われるので歓喜したが、どこへ行っても、窃盗をしたり、物を壊したり、むやみに発砲したりサリン弾を投げたりしたので、多くが現地の警察官に射殺された。私も取り調べを受け、警棒で殴られた。(殺人未遂)

 

 

10)元宮家の子供らが、自分たちも外国へ行きたいと言い出し、私を毒針で脅迫して同行させ、専用機で英国へ飛んだ。外遊の興奮が高じた男児の一人が、英国人に向って発砲した。男児は、謝罪の品として、私を置き去りにした。

 

 

 

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五歳の頃>

1)宮内庁の男性職員二名に九州の弥生遺跡へ連れて行かれ、職員が耕運機を使って耕した後、さらにスコップで穴を掘って、弥生土器の欠片と摩耗石器を埋める、という歴史捏造に協力させられた。職員らは私に土器を持たせて写真を撮った後、一人が私の服にサリンを拭って付着させた。すると、我々の後を追って来た皇宮護衛官が「そんなのでは駄目だ」と言って、草むらへ逃げた私の背中へサリン弾を投げつけた。近くの住人が警察を呼んだらしく、巡査のような成りの男が走って来て、倒れている私の腕を取って立たせようとしたが、その後方から、皇宮護衛官が銃撃した。男は私に覆いかぶさるように崩れた。

この弥生遺跡は「菜畑遺跡」だったと思う。

 

 

2)東久邇盛厚の子、信彦に、針で目を刺された。「目が痛い」と泣いていると、護衛官に麻酔薬を目にかけられた。また、信彦に、ライターで衣服を燃やされた、髪を燃やされた、灯油を頭にかけられて、火を点けられそうになった。重油を手の甲に塗られて、火を点けられた。

 

 

3)私の命が危ないと知った曾祖父が、祭祀用の青銅製冠を持たせてくれたが、宮内庁に着いたら、男性職員にひったくられた。後で、その冠を紀宮清子が被っていた。

 

 

4)天皇裕仁の会食に招待された。私が食べずにいると、武官(皇宮警察護衛官)が私の口を無理やり開けて、青酸カリを包んだ団子を飲み込ませた。さらに、武官は私の喉に麻酔薬を注射して、弛緩した喉に水道のゴム・ホースを挿入し、蛇口をひねった。胃はすぐに満杯になって、鼻から、耳から、尻の穴から、水が流れ出た。(殺人未遂)

皇太子明仁とその武官にも、同様の虐待をされた。口から十センチほどのホースが出ている図を、写真に撮られた。

 

 

 

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六歳の頃>

1)自宅前で遊んでいたところ、皇宮警察護衛官に捉えられて、青酸カリの丸薬を飲まされそうになった。父は青酸カリの丸薬を口につけられて、吐いて倒れた。(殺人未遂)

 

 

2)皇居で、護衛官らに、歩けなくなるまで撃針銃で脚を撃たれた。帰宅後に大怪我をして、1ヶ月入院した。半年ほど松葉杖を使っていたが、女性護衛官が看護婦と偽って小学校へ来て、私を追い回したあげくに、手術をした脚をひねって捻挫させた。

 

 

3)皇居で正装して宮殿へ行く時、皇宮護衛官に、宝石が埋め込まれた古代の冠二点を銃で撃たれた。破損して取れた宝石を、護衛官らが盗んで行った。同じくダイヤモンドを埋め込んだプラチナ製の冠も護衛官に銃撃され、一人が取れたダイヤモンドを飲み込んだ。

 

 

4)宮内庁男性職員が、(東京国立博物館へ委託したはずなのに、皇居に隠してあった)「秦の青銅製鼎」を外へ持ち出して破壊した。気が短そうな男だったが、理由は知らない。

 

 

5)東久邇盛厚に自衛隊基地へ連行され、砒素を注射されて殺されそうになった。私は注射器を引き抜いてあばれたので命は助かったが、両腕に五センチくらいの真っ黒い痣ができて、成人になるまで消えなかった。(殺人未遂)

 

 

 

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七歳の頃> 

1)勲章授与の時、私がお辞儀をした頭上に、液体サリンを落とされた。その後、勲章は硫酸か何かをかけられてボロボロにされて、自宅の玄関前に捨ててあった。(殺人未遂)

 

 

2)打掛を着せられて、女官と一緒に後宮で「宿直」をさせられた。三笠宮寛仁に追いかけ回されたあげく、女の一人に睡眠薬を注射されて、男性職員に下着姿の写真を撮られた。

 

 

3)米国政府による調査のため、米国本土へ連れて行かれた。体中が針痕と痣だらけの私に、女性調査官は同情してくれたが、付き添って来た護衛官が(私の命令だと言って)サリン弾を噴射したために、私が米兵に殴られた。

 

 

4)皇宮警察護衛官に、調理室に似た多数の作業台が置かれた部屋に、ガスコンロのガスが出たまま、閉じ込められた。ドアの鍵が開かなかったので、窓ガラスを素手で割った。次の時も同じ部屋で、護衛官が作業台の上に少量の油をこぼして、それに火を点けて逃げた。ドアが開かなかったので、水道水を両手ですくってかけて消した。三度目は、数人の子供だけで部屋に入れられたが、護衛官に命令された男児が油を床に撒いて、火を点け、もう一人がガス栓を開けて、逃げた。ドアは開けられたままだったので、残った女児らは皆、廊下へ逃げた。私が階段を駆け下り、一階の窓から外へ出ると、間もなく爆発音が聞こえた。(殺人未遂)