1001タイ映画、千夜一画 

タイ映画またはショートフィルム他で心の琴線に触れたアーカイブ。

『I FUK』タイ社会の懐の深さとタブーの許容範囲にみる無関心社会

2005-05-16 18:25:48 | タイ映画
小学校の頃、学校に面した神社の裏山にサブという凶暴な中学生が住んでいると噂があった。都内でも鬱蒼と茂る雑木林があった頃なので森閑とした湿った空間のまだ見ぬ嗜好を持った先輩に畏怖の念を持ったものだ。昔は町のどこにでもいた彷徨する精神異常者を”キチガイ”と言えなくなってから久しいが、「アイ・ファック」という映画では普通の生活共同体の中での異端者との棲み分けとか、社会の懐の深さとかを考えさせられた。
 青年ファックが徴兵を終えて村の父親のもとに帰ると若く美しい奇妙な同居者(メーン)を紹介される。心に痛を負った子供の娘を駅で見つけて、そのままズルズルと大人になるまで面倒をみてしまうというタイではいまでもありそうな話。そして社会も「仕方ない」と認知してしまう社会精神の健全さとか仏教での「施し」というのが一つの大きな通奏低音である。もちろん父親が田舎の小学校で住み込み用務員で働いているという社会的立場や通気性が現代の病んだ日本の最近の監禁事件などと自然に対比してしまう。が、突き詰めて考えると「優しさ」とか「愛」とか「こころ」という一番大切な問題に起因している。
 PTSDを持ったメーンは拾われた老いたファックの父親の世話と、少しばかりの幸せを与えている。ある日「あの娘は神様から授かった贈り物だからお前も面倒を見るように_」と息子に言い聞かせるが、間もなくその父親が他界してしまう。美しい自然と負けないような精神的な障害者であるが故にメーンの純粋の”こころ”が息子のファックに新しい主人として向かうのは当然のことか__これは用務員の仕事もそのまま世襲で引き継いでいくというのがいかにもタイらしい。(昔の日本の小学校でもこういう住み込み用務員のオジさんはどこにでもいた。)人生の引退寸前だった父親ならばともかく、若く前途ある真面目な青年と若く美しいキチガイ娘との同居、メーンの純粋であるが故の常軌を逸脱した振る舞いに村人達も困惑、そして青年の無垢な優しさに次第に牙を向け始める。そして次第にメーンの純粋でひたむきなファックに対する奇妙な行動がそれに拍車をかけ、青年はやがて酒に溺れて行く・・・というストーリーだ。

 実際にタイ社会とあまり接点がなくても生活していけるバンコクでは「こんな馬鹿な話・・」なんて思ってしまうが、実際にムラという共同体は縦横とも非常に暑苦しく密着した関係で生活が成り立つのは田舎でも都会でもあまり昔と変わっていない。タイのこの密接な人間関係というのは無関心の裏返しでもある。なんと説明していいのか難しいが、金太郎飴のような無個性としての社会構成での貢献が主流であるから、タイであまり個性的な主張するのはお洒落ではない。出会って直ぐに土足でプライバシ-に立ち入ってくるので、その場かぎりの説明で直ぐに他人を納得させなければ面倒くさいことにあまり構わないし、そういう相手には本当に冷淡になるのがタイ人である。
 ところで「アイ・ファック」という題名だが、英語の「This Boy」つまり「あいつ」とか「こいつ」とかを表現している。日本では「ファック野郎」とでも訳すのかもしれないが、ファックは名前なのでどうも日本語では奇妙な二ワンスになってくる。この間の女優丸坊主映画「イロンサック」も「サックちゃん」とでもいうのかこの手の二ワンスが好きなようだ。ついでにいうと店舗名なんかも日本のような抽象的な名称ではなく「美しい」とか「全部美味しい店」とか直接の損得をイメージする名前が好まれる。
 
この映画でのメーン役の主演女優も光っているが、脇役も思わずその世界に引き込まれる自然な演出の高さは特筆しておくべきだろう。そしてクライマックスの見所は暴行シーンに流れる「国歌」なのである。タイでは役所とか学校では必ずこのラジオ放送と一緒に国旗の掲揚が行われ、地方ではそのたびに交通や人の歩行が一瞬止まる最大の愛国イベントでタイ社会の根幹に関わる重要な行事なのだ。暴行を受けボロボロになったファックを背負いメーンがよろよろと歩く、背景は国旗掲揚なのだが、この受け取り方が微妙で、タイではこのデスクトップの解釈の仕方では監督は不敬罪どころか命の心配までしなくてはいけなくなるからだ。

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