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12月18日の祈祷会の内容です。

2024-12-17 10:53:00 | 日記
祈祷会    士師記19:1~15「悲しみの記録を読む」   2024.12.18

 士師記19~21章は、イスラエルの12部族のうち、ベニヤミン族が滅んでしまうかもしれないと危機に遭遇します。士師記19章は、1人のレビ人が登場して来ます。彼は、ユダのベツレヘムから1人の側目として迎え入れました。その側女は一時的に、彼の元を離れて、自分の父の家に帰って行きます。レビ人は、その側女を連れ戻しに行きます。連れ戻すことができて、自分の家に帰ろうとしますが、ベニヤミン領のギブアという場所にやって来ました。そこではなかなか彼を泊めてくれる人はいなかったのですが、1人の老人が声をかけて泊めてもらうことができました。しかし、その老人の家に町のならず者たちが襲って来て、「お前の家に来た男を出せ」と騒ぐのです。老人は拒否しますが、レビ人は自分の連れていた側女を外に出してしまいます。ならず者たちは、その側女を一晩中もてあそびました。朝になると、その側女は死んでしまったのです。レビ人は朝起きて、死んだ側女をろばに乗せて、自分の故郷に帰って行きます。そこで、レビ人は側女をつかみ刃物でその体を12の部分に切り離し、イスラエルの全土に送るのです。これを見たイスラエルの人々は驚き悲しみ、集まって来ます。

士師記20章では、イスラエル全体で40万の歩兵が集まり、ベニヤミン族に「あのならず者たちを出せ。ならず者たちを殺して、イスラエルから悪を取り除こう」といいました。すると、ベニヤミン族は受け入れず、兵を集めて、イスラエルの人々と戦おうとするのです。激しい戦いになって行きます。双方とも多くの被害を出すことになってしまいましたが、数にまさるイスラエルの勝利となっていくのです。この時に、ベニヤミン族が滅んでしまうかもしれない危機に訪れるのです。イスラエルの人々は、ベニヤミン族と戦う時に、自分たちの娘はベニヤミン族に嫁としては与えないという誓いを立てていました。

そして、士師記21章で、イスラエルの人々は、自分たちの中の一部族であるベニヤミン族がなくなってしまうことを深く悲しみ、何とかして存続させるために努力をしていきます。ベニヤミン族が生き続けるために、嫁として、戦いに出て行かなかった部族を捜します。そうすると、ギレアドのヤベシュからは誰も戦いに出ていないことが分かりました。そこで、イスラエルの人々は兵を出して、ギレアドのヤベシュの町の人々を攻撃し、娘400人を見い出し、自分たちの陣地に戻って来ました。そうして、ベニヤミン族に妻として与えていくのです。まだ、女性の数が足りませんでした。イスラエルの人々はベニヤミン族に、シロの娘たちがぶどうの収穫の時に、踊って出て来るから、そのシロの娘たちを捕まえて、自分たちの嫁としなさいといいました。そこで、ベニヤミン族は、踊っている女性を奪い、その中から自分たちの数だけを連れ帰って、自分たちの嗣業の土地で、町を築いてそこに住んでいくことになります。イスラエルの人々は、その様子を見て、自分たちの嗣業の土地に帰っていくのです。これが士師記19~21章の流れです。

この流れを確認して、今日の聖書の箇所と見ていきたいと思います。士師記19章の前半の箇所です。イスラエルには王がなかったその頃から始まっていきます。エフライムの山地の奥に1人のレビ人が滞在していました。彼には、ユダのベツレヘムのから1人の女性、側女として迎え入れたのです。しかし、その側女は主人を裏切り、自分の父の家に帰って、4ケ月ほどそこにいることにしました。いったい、2人に何が起ったのかは分かりません。この側女にとって、とても辛いことが起ったと考えてしまいます。このレビ人は、そのままにしてはいませんでした。レビ人は若者を伴い、人軛のろばを連れていで立ち、側女の後を追い、その心に話しかけて連れ戻そうとしました。側女がいる家に行くと、側女はレビ人を父の家に入れるのです。受け入れたということでしょうか。具体的なことは分かっていません。側女の父はレビ人を見て、喜び迎えています。そのしゅうとと父が引き止めるので、レビ人は3日間、そこに留まり、食べて飲み、夜を過ごしていきます。4日目の朝早く、レビ人は起きて出発しようとしましたが、側女の父が「パンを一切れ食べて元気をつけ、それから出かけた方がいい」というので、2人は一緒に座り、食べて飲みました。側女の父は婿に「どうか、もう一晩泊まってくつろいでください」といいます。レビ人は立ち上がって出発しようとしたが、しゅうとがしきりに勧めるので、また泊まることにしました。

5日目も朝早く、レビ人は出発しようとしたが、娘の父が「元気をつけた方がいい」というので、2人は日の傾くまでゆっくり食事をしました。レビ人が側女と若者を連れて出発しようとすると、そのしゅうと、娘の父は「日もかげってきて、もう夕方です。ここに泊まってくつろぎ、明朝早く起きて旅路に着き、家に帰ることにしてはどうですか」といいました。しかし、レビ人は泊まろうとはせず、立ち上げって出発し、エブスすなわちエルサレムの目の前にするところまで来ていました。彼らがエブスの近くに来た時、日は大きく傾いていました。若者はレビ人に「あのエブス人の町に向かい、そこに泊まることにしてはいかがですか」と聞きましたが、レビ人は「イスラエルの人々ではないこの異国人の町には入るまい。ギブアまで進むことにしよう」と答えました。更に「ギブアかラマに泊まることにしよう」といいました。彼らは旅を続け、ベニヤミン領のギブアの近くで日は没しました。彼らはギブアに入って泊まろうとして進み、町の広場に来て、腰を下ろしました。でも、彼ら家に迎えて泊めてくれる者はいなかったのです。

レビ人が側女を迎えに行って、なかなかその家を出発することができなかったのは、本当はしゅうとや父は、娘を出すことを躊躇していたのではないかと思うのです。レビ人によって自分の娘は側女という立場でもあるからです。その後、側女にとってとても辛い状況が待っているのです。この聖書の箇所を読みながら、どうして、このような悲しい話があるのだろうと考えます。逆に、それが聖書の書かれた目的でもあるのでしょう。人間の罪の現実を知らせるためなのです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。士師記を読みながら、人間とは何者かと考えました。人間の罪の現実を知ることになります。とても辛い内容となっています。そこから目を背けることなく、歩むことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)