Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑨劇症肝炎で生死の境を彷徨う】

2024-12-27 11:07:59 | 日記

【今回の記事は、私個人をご存知の隊員OBやJICA関係者向けの内容で

知らない方には全くつまらないのでご留意ください


あと、いつもながらの書き殴りで

読み直しせずに文法も文脈も

無茶苦茶


まだ編集中なのでご容赦ください。🙇

 

 

1985年9月

突然、ビールが飲めなくなり、目が真っ黄色と指摘され

その頃、TONGAの隊員も何人か感染していたA型肝炎だろうと

現地で自宅療養していたのですが

 

A型肝炎では、黄疸が出た頃がピークで
その後回復してゆくのに

 

私の場合は、日を追うごとに言葉では表現できないほどの

極度の脱力感と疲労感で寝起きさえ苦痛となり

何も食べられず、夜中になると身体中が痒くなって寝られず

(黄疸のビリルビンが毛細血管に詰まり血流が滞って起こる現象)

いつまでたっても小水はビール瓶の色で便は真っ白

 

日に日に弱っていく様子を目の当たりにしていたチャンカーが

「A型肝炎だからそのうち治るよ」と楽観視して言い張る臨床検査技師と調整員に

「絶対におかしいから血清を日本に送れ」と泣いて抗議してくれたおかげで

 

当時、やっとTONGAでもサービスを開始したDHLで日本に送ったところ

なんと、肝機能の数値GOT、GPTが

A型肝炎のピーク時で1500U/L(正常値は30~40以下)なのに

 

なんと3500U/L

(後で聞いたところ、異常な数値で普通なら肝性昏睡で危篤状態なんだとか

 

そんな訳で

協力隊事務局は少し前にもバングラデシュで劇症肝炎の隊員が死亡していたため

大騒ぎとなり、オーストラリア大使館の医師がTONGAに飛んで日本まで随行することが決まり

 

飛行機に搭乗する前に”機上で何かあっても訴えない”誓約書に署名して

車椅子で搭乗してNZのAucklandへ飛び

 

当時デイリーでのフライトが無かったためオークランドで1泊

(大使館の医師も年寄り古い知識しかなかったため、NZのホテルで「栄養のつくものを食べた方がいいよ」

「ステーキ食べなさい」と注文して無理やり食べようと思ったのですが・・・無理でした。

 

翌日のJALのフライトで4人掛けシートの肘掛けを上げてベッドにして

横になったまま成田に到着したのですが

 

まだ意識があったので、窓から外を眺めていると

ボーディングブリッジの下に濃紺の寝台車が待機してるのを見て

『救急車じゃないんだ』とビックリ

 

どうやら生きて辿り着けるかわからないと思われてた様子

 

飛行機の扉が開くと同時に協力隊事務局の医療スタッフ(看護師OG)が乗り込んできて

背負われてボーディングブリッジ横の階段を下りて

寝台車に乗り込んだところで点滴を打たれ

 

そのまま特別ゲートで入国手続きをして

高速道路をひた走り

白金台の東大医科研病院の個室に直行

 

ところが、無事日本に帰れたことで免疫力が回復したのか

偶然ピークを過ぎて快復期に入ったのか

 

病院食なのに久しぶりの日本食が美味しくてペロっと平らげ

 

それまでの闘病中にほとんど食べられずお腹が空いていたからか

お見舞いに来てくれる家族や友人に食べ物を買ってきてと頼むほど

(快復期の肝臓にはやはり栄養を摂るのが一番らしく主治医も許可)

 

まだ若い女医さんが主治医となってくれたおかげで

最新の医療の知識から

『肝臓が壊れている時に無理に食べるのは逆効果』

『目の粗い笊で汚れを除けない状態だから黄疸が酷くなって肝性昏睡を引き起こす』

『症状の一番重い時期に無理して長時間の飛行機での移動だったら危なかったかも』

等々、帰国のタイミングも幸運だったと聞いて

ホッと胸を撫で下ろしましたねぇ

 

入院した翌日、生死の境を彷徨う状態を言われていたのもあって

青年海外協力隊の事務局長(当時は外務省の課長クラス)と

次長がお見舞いに来てくれたのですが

 

ベッドに座り込んで売店で買ってきた週刊誌を読んでところだったので

想像とは真逆で驚いたものの、安堵の表情で帰っていかれました(笑)

 

これまた偶然にチャンカーも2年の任期が満了となって帰国し

奈良県での休職参加第一号(公立中学校の数学教師)だったので

東京での手続き後、復職となっていたのですが

何度も東京まで見舞いに来てくれて

 

学生時代の友人達や協力隊の同期達から

新卒で働いてた船会社の元同僚たちなどなど

沢山の人達がお見舞いに来てくれて嬉しかったですねぇ

 

体調はどんどん回復して

普段は、同室の患者さんのお膳を片付けたりお茶を注いだり

周りの入院患者さんとも仲良くなって

 

ある年配の男性入院患者さん(たぶん50代後半)

阪神の大ファンで(丁度1985年の優勝した時で待合室のTVに釘付けになってました)

たしか岐阜出身で自家用車のアウディを病院の駐車場に置いてて

糖尿病の食餌制限のために入院してたのに

時々娘さんに食べ物を持ってこさせ

 

私の病室に来ては

「長坂さん、娘に寿司買ってこさせたから一緒に食べない

と、何度誘われたことか

 

病院からも退院して

「診察のために東京まで出てくるのも大変だろうから東大医学部派閥の豊橋市立病院で経過観察したら

と言っていただいたのですが

 

何もかも放り出した状態で緊急帰国してしまったため

中途半端のまま協力隊活動を終えるなんて耐えられず

『残務整理してきたいからまた任地に戻して欲しい』と要求するも

 

「最低限、肝炎の抗体ができなかったらダメ」と言われ

主治医からは

「抗原は無くなっても必ずしも抗体はできないから、これだけはどうしようもない」

と諭されたものの

「協力隊事務局が抗体ができないと戻してくれないから」と訴え続けたところ

 

数か月して突然【抗体陽性】との結果を受け

 

当初の2年間の任期がほぼ満了していたため

現地の調整員に半年の延長要請を取り付けて

協力隊事務局を説得して

再びトンガに戻ったのですが・・・

 

主治医から「劇症肝炎によって肝臓の組織が、たとえば健康な皮膚に突然熱湯を浴びたような状態なので

しっかり冷やして養生すれば、また元の弾力ある健康な肌を取り戻せるけど

そのまま放置したらケロイドになって戻らなくなるから、1年間は禁酒すること」と告げられていたので

 

いろんな集まりがある度に

みんなから『一本くらいいいんじゃない』とビールを勧められましたが

 

「このオレが一度決めたことを覆すわけないだろ

と意地になって一滴たりとも飲みませんでしたが

 

あの頃はちゃんと我慢できたんだよなぁ 偉かったなぁ

 

そうしてまたトンガでの生活となったのですが

 

復職したチャンカーには

当時、特に中学校が荒れてた時代もあってか

日教組が蔓延り、学校という組織が私にとって無責任で信用できない存在

「くだらない教師なんか辞めて退職してトンガに来い」と伝えてあったため

 

実は、奈良県の公務員の休職参加第一号とあって

”最低でも2年の御礼奉公”が不文律で求められていたのですが

 

学校、教育委員会、協力隊事務局、その他もろもろの説得や圧力をはねのけて

ほぼ駆け落ちのような状態でトンガに呼び

また同棲生活を送ることとなりました。

 

後日談ですが

協力隊(シニア隊員)を終了したのが1986年8月末

その後、国内協力員としてJICA中部支部で8ヵ月

特別技術嘱託としてJICA本部(新宿三井ビル)でまた8ヶ月

その後フィリピン国立航海訓練所プロジェクト専門家(コーディネーター)として2年

その後、業務用ヘリコプターと双発機免許を取得するのを断念して

FIJI事務所長だった河西さんの口利きで、財団法人国際協力センターの職員となり

大阪国際研修センターの研修業務を請け負う仕事など

ODA関連業務に携わっていたのですが

あれは何時だったのかなぁ

 

そのODAで働いていた頃だったのか

その後、奈良県青年海外協力隊OB会の会長をしていた時だったか

 

近畿支部の職員(ほぼ現地採用な形で長年勤務していた主のような女史)と

パーティーのレセプションで雑談する機会があった時に

 

面識がなかったので自己紹介すると

「あら、奈良県で〇〇さんと言うと

長年県を説得して苦労してようやく休職参加が認められることになって

その第一号として協力隊員をしていた女性がいたんだけど

帰国して半年ほどで現地に残ってた隊員に呼ばれて

退職して追いかけて行っちゃったの・・・」

 

「えっ、その相手は私ですよ。養子になって改姓したから」

と言うと目玉が飛び出そうなほどの表情して驚いてましたねぇ

 

水産局長からは、「Masaの好きなだけ滞在くれたらいいヨ

と言っていただいていたのですが

 

とりあえずはしっかりと引継ぎができるように残務整理をと

 

Government Houseから出て専門家の増本さんの隣のフラットを借り

協力隊に迷惑をかけないように自分でバイクを購入し

(当時、隊員数が激増していた時期で、公用バイクが足りなかったので)

アフター5は、お酒も飲めないこともあって

だだっ広い家で

チャンカーが日本で買って持ってきてくれた

当時まだ売り出したばかりのファミコンしてました

↓ これは隣家で暮らしていた増本さん

鮪延縄実習船の漁労専門家で

私をシニア隊員にしてくれた恩人の一人でもある増本有三さん

 

20年前に当時の調整員で大親友の小野チン(小野浩OB)と

下田の別荘地でご夫婦で隠居生活していた増本さんを訪ねたところ

(その後、長年トンガで専門家をした後に、パラオ諸島で定年の70歳までシニアボランティアとして従事)

(帰国して緊張が緩んだのかステルス性胃癌になって大手術)

(ほぼ母子家庭のようにして育った二人の息子は医師となり、一人が医大病院に勤務していたためその病院で施術)

そんな話を聞いていたのですが

 

昔から酒に飲まれるトンガOB(松永君)が訪ねてきて泥酔して大暴れしたとかで

奧さんからあまり歓迎されなかったのにショックを受けて

その後音信不通となっていたのですが

(23歳年上だったので、もう存命ではないだろうなと)

 

この記事を書いていて

無性に懐かしくなり

その大学病院の名前を思い出し、ググッテみたところそれらしき人物があり

ダメ元で手紙を送ってみたところ

なんと返信があり 御年90歳となっていまは次男の家族と暮らしてるのを知らされビックリ

残念ながら

お酒の飲み過ぎからなのか(いまも依存症のように毎日飲んでるんだそう)

『認知症がすすんで、過去のことはほとんど覚えていないんですよ』

とのことでしたが(私の名前を伝えたものの会話になりませんでしたと

 

やがて残務整理のために延長していた期間が過ぎ

現地からは好きなだけ居ていいよと言っていただいていたのですが

 

まだ療養中でお酒も飲めなかったこと

無理やり教師を辞めさせてトンガに呼んだチャンカーと

そのまま駆け落ち状態で過ごしてゆくことに抵抗があったこと

 

それらを熟慮して1986年8月末で協力隊生活に終止符を打ち帰国することを決めました。

 

一番の要因は

なんでも好きなようにでき”トンガの主”のような存在となり

FIJIの日本大使館主催の友好イベントでは大使の通訳を任されたり

王家(主要貴族)にも直接話ができるほどとなり

 

なんせ波乱万丈な生き方に憧れ

”ぬるま湯”に居続けるのは信条と異なるなと

 

 

 

大の仲良しのAiseaは Vava’u支局長となり

(ピンクのアロハシャツを着てるのが地元の漁師Ipolito:よく鰹を一本くれた人物)

 

Vava'uでの送別会

なんと水産局の主要メンバーが本島のTongatapu島からも集まり

沖の無人島へ渡り

Umu料理(ポリネシア風オーブン料理)

Umuのため穴を掘り

サンゴ石の上で木を燃やし(普段はココヤシの殻)

さまざまな料理にココナッツミルクを加え

更には子豚の丸焼きまで

バナナの葉っぱがお皿代わり

この送別会を企画してくれた二人

右は 水産局の幹部の一人Pita Halo

もう一人はボートヤードのVava’u支局長

 

離任前にそれまで世話をしてきた船と記念写真

(↓現地の数学教師の再教育プロジェクトのために離島の教師を集めるためのボート)

 

鰹一本釣り漁船 TAKUO

こちらは、FAOの沿岸漁業振興プロジェクトのために建造した漁船

当初の設計があまりにお粗末で嵐で難破する事件が発生し

その後、積極的に設計に関わってできた船と

こちらは、一本釣り鰹漁用の餌の鰯を獲るために

送られた巻き網船(鰹漁自体がほとんどされなかった)

Vava’u時代にお世話になったMikioと奥さん

Mikioは戦前に移民した日本人の子孫で

親族にアメリカで活躍したプロレスラーもいたんですよ。

(Mikio Guest Houseの食堂前)

なんせブッフェスタイルの食事が売りで

いつもNZかOZのオバチャンが住みついてお手伝いしてました。

新しくコテージも数棟建てらえて

ますます盛況になるんだろうなと喜ばしく眺めてました。

夜はKava(笑)

水産局Vava’u支局のLangimaと

Vava’uのボートヤードのメンバーと

こちらは、Tongatapuでの送別会

左が桜井研次さんを兄のように慕ってた

電気技師のSiotame Taunaholo

こちらは水産局長 Semisi Fakahauの子供

長男Pita と 長女Mele

右から

初代の鮪延縄船”LOFA"の二等機関士Liuaki Taunaholo,

Pita Halo, Engineering 部門長のSiaosi, Siotame Taunaholo

水産局の主要メンバー達と記念撮影

(左側の椅子に座ってるのが水産局長のSemisi Fakahau)

 

水産局の船長から その後ドイツの援助で開設された海員訓練所の所長になったMalakai

 

迷彩服姿はVava’u時代のEngineering 部門のカウンターパートFalanisi

 

そして、いろんなところで送別会をしていただいたのですが

忘れられないのが 現地で一番人気の中華料理店”Fua Fua(華華)”

の高さんとスーリー夫妻(台湾人)

わざわざお店を閉めて招待してくれました。

この高さん、昔は日本でも料理人をしていたこともあって

日本人には親しみを感じてくれていたのもあるのですが

 

私の赴任した1982年に 王様のコックから独立して

首都Nuku’alofaのメインストリートに小さな小さな中華レストランを開業

 

その当時、陸にいた時はほぼ毎日ランチに通ってたのがFua Fuaだったことや

日本人関係者や旅行者が来ると夜の会食に利用していたこともあって

それこそ親戚のような親しい間柄でした。

何と言っても忘れられないのが

劇症肝炎を発症した直後

とてつもなく高価な”熊の胆”やその他の漢方薬を持ってきてくれて

とても心配してくれたこと

 

とっても仲良しだったのに

 

その後、南太平洋の国々もほとんどが台湾と国交を結んでいたのに

台湾から中華人民共和国に乗り換えてしまったため

台湾領事館も閉めて国交が途絶えて

あと、高さんも新天地を求めて中国本土で事業を始め

 

レストランも中国人に売却して家族で移転してしまいました。

 

その後、台湾へ行くたびに(高雄出身と聞いていたので)

高雄で誰か知ってる人物がいないかと探してみたのですが

(当時国交のあったTongaでレストランをしていたので領事館の記録とかないかと)

未だみつからず、台湾のTV番組に投稿してみようかと思いつつ

既に30年以上の年月が経ってしまいました。

 

↓ 1986年8月31日

任期満了して帰国した時の空港へ見送りに来てくれた協力隊とJICA関係者の面々と

(LOFAは操業で出ていたため、機関長KAFOと二等機関士Satekiの家族と奥さんが来てくれました)

 

こうして写真を観直して 

改めて、TONGA滞在中どれだけ多くの人のお世話になったんだなぁと再認識

(日本人連中は、こちらがお世話したことしかありませんでしたが

 

よし、ほとんどがNZやオーストラリアに移住してしまったり

既に他界した人だらけだけど

近々TONGAに飛んでご恩返ししてこよっと

 

 

 

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