って もう酔っていい気持ちになっちゃったんで
勢いで こんなことも記事にしてみることにしました。
けっしてネタがないわけじゃないんだけど・・・
旅行ネタばっかしでも興醒めかな?って
少し前に、他のSNSに書いた日記をコピーしてみました。
たぶん これが自分の原点かなって思いながら衝動的に書いた日記です。
長いし、興味ない方もいらっしゃるでしょうから、
スルーしてくださいね。
”奥地前進主義”
その昔、二十歳そこそこの頃、私が参加していた活動の基本方針がこれだった。
”水道もない、電気もない、もちろんまともな住居も、通信手段、交通手段さえない場所に臆することなく突き進め!”
いまから考えると、無謀ともいえるそんな方針が、当時はごく当たり前に語られ、実践されていた。
現地に向かう前の訓練では、南北問題はもとより、日本の戦後復興の背景(朝鮮戦争特需、東南アジア向けの製品輸出など)、明治維新後の欧米による開発援助、現地事情調査、”ああ野麦峠”にみる日本、一期一会の心、人種問題、宗教問題、開発による功罪、植民地主義の歴史、事例研究、風土病、等々みっちりと学習し、理解し、心構えとして刷り込まれ、毎朝ランニングで体力を養い、語学を習得し、座禅で自らをふりかえる体験まで盛り込まれていた。
なによりも、相手(国、人)にとって有益であることが最低条件であり、机上の理論しか知らない新卒者は不要! 実務経験数年以上! 語学の基準レベル以上! 意欲に燃え、どのような環境下にあっても、情熱と忍耐力、そして強い精神力を備えた者!
これらを満たすことが最低条件だった。
当時の日本は未だ終身雇用制度が常識の時代。
年齢条件から考えても、無事に現地での活動を満了して日本に帰国しても、再就職は困難であると覚悟させられての応募であった。
このように個々人にとっては、将来きっと不利益を被るかもしれないことを認識しつつ、集まってきた仲間は、
ほぼ7割が国公立大学出身者やアメリカのMITなどの海外留学経験者。
一部上場企業に就職し、キャリア組としての将来が約束されいるような人物さえ加わっていた。
主要国の首都以外、国際線の飛行機さえ、まともに就航しておらず、
国際電話など生きるか死ぬかの緊急事態があっても使うことを躊躇したくなるほど高価、
航空郵便の手紙さえ手元に届くのに2週間を要した時代でもあった。
一度出発したら、最低2年間は日本に帰ることができない。
わけもわからない風土病が蔓延しているにもかかわらず
まともな医療機関さえない土地で暮らしてゆくことを考え
家族、友人、恋人と、もうこの世では再会できないかもしれない。との思いを胸に秘めての出立であったにもかかわらず、
みなの瞳は輝き、希望に満ち満ちていた。
帰国後、仲間達と出会って滞在中の話をしたが、
不便な環境におかれた人間ほど、現地で、純粋な人々と出会うことができたらしく、
生き生きと滞在中の話を披露していた。
ネパールにいた人間は、現地での説明に、首都カトマンズから歩いて何日と説明するのが彼らの常識だった。
また、アフリカにいた人間は、マラリアに罹った回数、アメーバ赤痢にかかったこと、肝炎を発症したことなど、
病気のことさえ自慢の種にしていた。
ある仲間は、現地に到着して以来、半年毎の健康診断と息抜きのために集会の連絡を入れても、いつも不参加。
人伝てに、どうやら生存してはいるらしいとの報告を受け、それならば大丈夫だろうと無理強いをせずに見守っていたが、
やがて任期の2年間が経過し、すっかり現地人と間違えそうな風貌に変わった彼が首都に現れ、あまり多くを語らず帰国していったという。
それからしばらく経って、組織の人間が現地を訪ねたところ、
なんと彼は、乾季になると水不足で困っていた村に出向き、コツコツと石を積み上げ、ダムを造ったのだと聞かされた。
もちろん、そのような美談ばかりではないが、多くの仲間が、それぞれ困難に直面しながらも、逃げることなく、
時には、怒り、時には、笑い、時には泣き、何ものにも代え難い貴重な経験と、生きる喜びを得ていた。
昇進、昇給、報酬、そして地位も名誉も、なにもかもを忘れ
純粋にただ自分自身の自己満足のために。
あれから 約30年
時代の変化とともに、世の中もすっかり様変わりし
ほとんどの国でインターネットが普及し、誰もが携帯電話を持つ時代となり、未だ貧困や、戦争、自然災害など、
問題は山積されているものの、世界はとても狭くなったと感じると同時に、忘れてなならないと、
自分が体験したことを書き連ねさせていただきました。
たぶん、いまどきの若者にこんな話をしても、自分が若い頃に聞かされた遠い昔の戦争話と同じなのかもしれないなと思いつつ。