【その⑦からの続き】
初回の任期を満了し日本に帰国して僅か約2・5ヵ月後の1984年5月
青年海外協力隊シニア隊員としてTONGA王国に再赴任させていただいたのですが
その前に
このタイトルにしてるのは、昨年末に桜井研次さんが急逝したのを知り
協力隊員としてトンガに派遣されて以来
大恩人の一人だったので
桜井さんの知り合いや遺族の方々に
桜井研次さんがどんなところで青春時代を送っていたのか
知っていただこうと思った次第なので
また、想い出写真の一枚が見つかったので
先にその説明をさせていただきますね。
1982年10月
桜井研次さんの送別会と官舎への引継ぎを済ませた後
転勤先のVava'u島に戻るのにオセアニア航路の貨物船を使ったのですが
と言うのも、一般のトンガ人が船酔いし易かったのか、船の構造が悪かったのか
1981年にドイツで建造され国内フェリーとして
首都Tongatapu島のNuku’alofaとHa’apai諸島のNomuka島とPangai島
そしてVava’u島のNeiafuの間を週一で運航していたMV Olovahaがあったのですが
一般のTONGA人が船酔いし易かったのか
はたまた船の構造の問題で横揺れ縦揺れが酷すぎたのか
要するに”ゲロ船”だったので
耐えきれずNuku'alofaからNeiafuまで直行で移動時間も少なかったので
その後Vava’uへの移動はこの船を利用
夕方出航してNeiafuには翌早朝に到着するのですが
なんせ乗客は貨物と同じ扱いで、座席もない雨ざらしの甲板で過ごすので
それを不憫に思ったのか、桜井研次さんがニンジンでキンピラをおかずにしたお弁当を作って
届けがてら見送ってくれた時の写真
(後日、桜井さんが日本に帰国してから郵便で送ってくれたもの)
桜井さんも米どころ、酒どころの新潟生まれだったので
お酒は好きでしたが、私のようなアル中ではなかったのと
しっかり自己管理できる人だったので
任期中の手当を貯めて、たしか任国外旅行はNZ
帰路変更では、Tongaからどこを経由したのか
Tahitiに飛び、アメリカ本土のLAの知人に会いにゆき
その後PhilippinesのManilaにも立ち寄ったと聞いたのですが
たぶんもっといろんな国を周ったんじゃないかな
生前にもっとその時の話も聞いとくんだったなぁ
さて、それでは話を元に戻しますね
協力隊員として赴任した時は
FijiのNadiからSamoaのApiaに飛び
駐在員(着任時は伊藤英明という人物)への赴任前の挨拶とブリーフィングを済ませてから
Tongaに飛んだのですが
この短い間に(たぶん1984年4月から)
Fijiの首都SuvaにJICA事務所が開設されたため
Samoaで赴任の挨拶をする必要が無くなり
更に、SuvaからNuku’alofaへの直行便があったので
日本出発から僅か4日で着けたんじゃなかったかな
当時Tongaに就航していた海外からの航空機は
FijiのAir Pacific、SamoaのPolynesian Airway, NZのAir Newzealandがそれぞれ週3便ほどと
American SamoaのSPIA(South Pacific Island Airways)
そして当時はリン鉱石の輸出で大金持ちの国だったNauruからのNauru Airlines
面白かったのは、Air PacificとPolynesian Airwayが
Fiji, Samoa, Tongaの三ヵ国を
トライアングルで飛ぶ便があって
(時計回りと反時計回りがありました)
時としてFijiからTongaに帰るのに
いちいちSamoaを経由しなければならない事もありましたが
せいぜい半年に一度程度しか飛行機に乗れなかったので
むしろ喜んでましたねぇ。
↑これはTongaのFa’amotu airportのある日の風景
偶然、Air pacificとAir Newzealandのフライトが重なった時でした。
1984年の5月はシニア隊員として着任したのですが
あまりの短期間で決まったため住居の準備ができず
しばらくは、アメリカ平和部隊と協力隊員用に水産局が建てた
木造、ブリキ張の平屋で暮らすこととなりましたが
まだ大恋愛中だったチャンカーと一緒に過ごせるだけで幸せでしたねぇ
鮪延縄実習船LOFAの乗組員も
遠洋漁業から戻ってまたまたすぐに歓迎会をしてくれ
Tongaに戻るために尽力してくれた大恩人の漁労専門家の増本さんに
同期の漁具漁法隊員と後任の隊員、そしてチャンカーも勿論ご招待
(我が家の掘っ立て小屋の空き地でBBQ)
少しして、またLOFAに乗り込むこともありましたが
(漁労長の増本さんと船長のHene)
その頃は、後任の船舶機関隊員が気を遣ったくれたのか
積極的に船に乗り込んでくれていたため
FIJIでのドック入りの時くらいになりました。
前にも書いたかな
鮪延縄では、平均1日に35匹程度のビンチョウ鮪と
それ以外のバチ、イエローフィン、ブルーフィン、カジキ鮪が獲れるのですが
鮫は、その倍以上かかるので
(↓延縄にかかってる間に鮫に食べられたカジキマグロ)
可哀相に生きている時は角が怖くて近寄らないだろうに
縄で身動きが取れないとわかるのか食べられ放題
鮫は、利用できる
肝臓(病院の入院食にしてました)と鰭を切り取って
鰭は天日干しして乾燥させ、水揚げ地にいる中国人ブローカーが
買い取ってくれるので乗組員の副収入源になっていました。
これは、これまた大恩人のAisea Tuipulotu(右端)が
家に呼んでくれた時の一枚
再赴任から数か月後
ようやく水産局の官舎(日本政府がODAで水産局の施設を建てた時のもの)が空き
ブリキの掘っ立て小屋からお引っ越し
主にチャンカーと二人で暮らしていましたが
2ベッドルームもあって贅沢だなと、その後ようやくトンガにも駐在員が赴任することになって
彼の住居が決まるまで、三食昼寝付きで居候してましたねぇ(笑)
お隣さんが、水産局長のSemisi Fakahau氏の住居(Government house)だったので
彼の家族ともとっても仲良しで
長男のPitaとは伯父さんと甥っこのような間柄でした。
Semisi Fakahauは、その後農林省から水産局を独立させ水産省となってから
大臣まで務めた優秀な人物だったのですが
若い頃にPNG(パプアニューギニア)で研修を受講していた時に知り合った
看護師さんと結婚していたので
良く肝炎ワクチンの接種などもお願いしてましたねぇ
仕事は、前述のとおり、LOFAへは後任隊員が乗り込んでくれていたため
その他の船の整備と
当時、開始されたばかりのFAO(国連の世界食糧機構)とJICAの
小型漁船建造プロジェクトの様子を観察していたところ
(船体等の合板や接着剤等はFAOが、エンジン、無線機その他の艤装品は日本のODAで
漁業者は開発銀行からのソフトローンで購入して長期で返済するシステム)
この水産局のBoatyardには
長年、FAOの専門家として英国人とVSO(イギリス版平和部隊)の若者Devid
そして新たにイギリス流木造船の欧州人の技師がいたのですが・・・
一見良さげな設計(沖合ではポールとセールで帆走して燃費を節約する)でしたが
セーリングするための帆柱まで合板を接着剤で張り合わせたものだったり
数日間沖合での漁を過ごせるようにキャビンがあるものの
エンジンは簡単な箱を被せるだけ
私の天敵である大滝某は、ヨットが趣味でどうやらこの設計にも助言した模様
遊びの船ならそれで良いけど漁をするための漁船で
沿岸警備隊も海上保安庁もない絶海の島々で
気象庁も天気予報もできない場所で
もし荒天に遭遇したら
こんな船じゃあもたないだろうなと想像したとおり
引き渡されたばかりの一隻が嵐に遭遇し
浸水してエンジンは停止し海に放り出され乗組員全員行方不明
この↓中心の黒い丸いのが手動の排水ポンプ
こんな船体で浸水したら沈没するのがわかりきってるだろ
と、私の所掌ではありませんでしたがどうにも我慢できず
船体からエンジンの設置その他もろもろ大改造をする陣頭指揮をとってしまいました。
それからも大滝某
ど素人のクセに馬鹿な提案ばかり
ある日、水産局長のSemisiが相談に来て
どうしたのかと話を聞くと
欧米人とばかりと仲良くしていた大滝が
Vava’uにできたヨーロッパ人が始めたヨット用のスリップを
水産局の船のドックで使って欲しいと頼まれ
安請け合いしたものの、私を信頼しているSemisiには言えないので
農林省の上層部にドック経費を軽減できると進言したらしく
農林省からSemisiに指示があったらしく
『Masa, 本当に大丈夫だろうか?』との問合せだったので
「現地で調査してくるから待ってて」と伝え
Vava’uへ飛び 確認したらこの有様↓
狭くて、短くて
満ち潮になったら海水に浸かってしまうので
プロペラ軸を抜くこともできないし
船体塗装も勿論無理
その上、こんなチャチな船台が重量に耐えられるわけがなく
たぶん転倒してクレーンもないVava’uではそのまま廃船になるだろうなと
ど素人の浅慮な思想にビックリ
水産局に戻って
使えない理由を箇条書きにして渡し
ことなきを得ましたが
もし自分が戻ってなかったらどうなってただろうかと
背筋が凍る思いにさせられました。
因みにそのスリップに入れようとしたのが この鰹一本釣り漁船
この大滝某は、延長を続けてトンガに居座るつもりだったので
その後、JICA事務所長に『使えないどころか大問題を起こしそうな専門家は不要です』
と進言してたしか3年ほどで帰国させたのですが
縁故で専門家にさせたJICA職員(伊藤英明元駐在員)が
何を思ってかSAMOAにまた専門家として派遣したのですが
(現地に専門家派遣要請を無理やりさせた様子)
私がその昔、船会社で働いていた頃に
大型貨物船の船尾管のパッキン交換をするために
潜水士を頼んで船尾管に防水処理を施し
接岸中に交換したことがあったと話していたのを思い出したのか
↑の鰹一本釣り船と同型船を
岸壁に係留したままで聞きかじりだけの知識で防水処置して
パッキンを取り外したところ浸水して沈没
そのまま廃船にしてしまったと伝聞したのですが
ど素人を専門家にして派遣した伊藤英明氏にも責任があるし
糾弾されなければならないと思ったものでした。
おっと、つい怒りに燃えてしまいました。
【ここからはランダムにトンガでの生活風景を貼り付けさせていただきますね】
その後の現地での生活に話を戻すと
長年、水産局関係の援助だけだったのが
チャンカーの教育関係も始まり
その後、国立病院の臨床検査センターのプロジェクトも開始して
厚生省の臨床検査技師の専門家も数名赴任して
その家族も暮らすようになって賑やかになりました
(医療プロジェクトの調整員の子供と)
↓は、チャンカーと黒い服の女性がトンガ外務省のキャリア
日本へも高級研修員として受講していたため少し日本語も話せてとっても助かりました
こちらはまたまた仲良しだったトンガ警察の交通課
FIJIのJICA事務所長の河西さんとその後ろが医療プロジェクトのリーダー(ホダテさん)
元東京大学医科学研究所の院長で協力隊の顧問医だった大谷さんが来トンして時の記念写真
(Capt. Cock landing tree碑にて)
右端から家政隊員の西澤範子さん、理数科教師の千田さん
大谷さん、調整員の小野チンと私
チャンカーと同じ、小学校教師への再教育で派遣されていた理数科教師の深谷さん
調整員が派遣され、隊員の連絡事務所にした建物と敷地
調整員の小野チン
シニア隊員で再派遣されて約1年後の1985年4月
またまたLOFAに乗船してた時
乗船中は海水シャワーしか浴びれられないため
針路に雨雲を見つけると
石鹸とシャンプーを手に甲板に上り
急いで洗髪して身体を洗って髭剃りをと凌いでいたのですが
ある日雨雲が小さすぎて途中で雨が止んでしまい
仕方なく甲板に溜まった水で髭剃りをしたのが悪かったようで
傷口から黴菌が入ったらしく左顎が化膿してしまい
腫れあがって抗生物質を飲んでも治らずにいたのですが
半年毎の健康診断でFIJIへ行く予定があったため
現地で懇親会にご招待していただいていたところ
レストランのトイレで在FIJI大使館の書記官だった穴田さんと
すれ違ったところ、シルエットで私の顔が変形しているのに気づき
『大丈夫ですか?』と心配されたのに驚き
その時に専門家としてFIJIへ派遣されていた協力隊のOBの高野さんの家にお呼ばれした時に
看護師OGだった奥さんに相談したところ
針を焙って中の膿を出すのが良いかもとのアドバイスで
その施術をしてもらったのですが
化膿している場所が奥深すぎて膿が出ず
仕方なく健康診断を終えてTONGAに戻り
国立病院の外科で簡単な切開手術をしてもらうことになり
当初、手術室でと言われたのを
「この程度だから外来の施術室で大丈夫」と断って
注射器を麻酔をしてからメスで切開して膿を取り出して
一安心して、前々からチャンカーと予定していた任国外旅行に出発し
約一月、NZをほぼ一周して旅行を楽しんだのですが・・・
(当時のNZの公共交通機関は国鉄のみだったので、決まった期間内乗り放題のチケットがありました)
この時は、2週間乗り放題のチケットで友好的に周遊するために
Aucklandから首都のWerringtonまでの寝台列車とWerringtonからChrist church経由でMt. Cockに飛び
Queens' Townからパスを使ったんだったかな?
いずれにしても、丸々1ケ月NZの隅から隅まで堪能させてもらいました。
南島の田舎では、何度もこんな場面に出くわしたり
定期バスの運転手が新聞配達も兼ね
窓から放り投げて配達する風景に目が点(笑)
そんな楽しい時間を過ごしてからTONGAに戻り
また普段の日常生活を送っていたのですが
たしか8月末だったか
また海に潜ってLOFAのプロペラ軸に絡まった枝縄を除去して
連絡事務所で”おつかれさま”ビールを飲もうとしたところ
口元まで缶を持っていってるのに
どうにも唇をつける気(飲む気)になれず
『おかしいなぁ』と思ったところ
居合わせた隊員から「長坂さん、目が真っ黄色ですよ!」と言われ
大焦り
その頃、何人かA型肝炎にかかっていたので
てっきりA型肝炎だろうから急性期を過ぎたら治るだろうと高を括っていたのですが
【その⑨劇症肝炎で生死の境を彷徨う】