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寮生諸君にはこれまで恐らくほとんど話したことはありませんが、私はジャズボーカルからアカペラ、果ては民謡まで、とにかく昔から歌うことが好きで、NHKホール、新宿厚生年金会館などの大きなホールをはじめ、老人ホーム、小さなライブハウスなど、様々な場所で歌を歌ってきました。
ご縁あって、アフリカのテレビ番組でギターの弾き語りをしたり、アメリカのメンフィスやニューオーリンズの教会でゴスペルクワイアーの人達と一緒にゴスペルを歌ったり(坊さんとしては?かも知れませんが)、千駄ヶ谷のビクタースタジオでレコーディングをしたり、時々子ども向けのミュージカルに出演したり、和田アキ子さんや石井竜也さんのバックコーラスに参加したり、民謡のコンクールで入賞したりしたこともあります。(ちなみに、カラオケはあまり好きではないので滅多に行きません。)
そんな歌好き、音楽好きの私ですが、いつか、真正面から仏教を扱いながら、子どもにもわかりやすいような詩を自分で書き、それを現代的でレベルの高い音楽に載せられないものか、そしてそれを形のある楽曲にして録音し、布教の一環として社会に発信できないものかと思い続けて来ました。
日本にも、仏教の教えを旋律に載せたものは古くからあります。いわゆる御詠歌がその典型で、これはこれで大変素晴らしいものながら、現代を生きる普通の日本人、とりわけ若年層の興味を惹くものとはあまりいえないように思われます。
仏教的内容を含むといわれるポップス、例えば槇原敬之氏の『世界にひとつだけの花』等の楽曲も存在しますが、これらも「仏教的ともとれる」歌詞ではあるものの、直接的に仏教を歌ったものではありません。それ以前に、これらを仏教的な曲と認識している人は少数派でしょう。
私が目指したのは、仏教の核心に触れながら、これが仏教の歌なのかと疑問に思えるほどに自然で、若者をはじめとした現代人にもわかりやすい歌詞を持ち、音楽的にも親しみやすく、都会的なセンスを含んだレベルの高いクールな楽曲でした。
実は昨年、自分の還暦の記念ということもあり、この計画を実行するために『かけらとすべて』と題した詩を書き、これに、私の十数年来の友人であるジャズピアニストで作曲家の谷川賢作氏にお願いして、既に曲をつけて頂いています。
谷川賢作氏の略歴はこちら
私も、出来上がった曲を、谷川さんのピアノの弾き語りで一度聴かせてもらいましたが、曲想、組み立てが素晴らしく、ゆったりした大変いい曲に仕上がっています。
谷川さんの心づもりとしては、これを合唱曲にアレンジして、コーラス、オーケストラの同時一発録りでレコーディングしたいとのことで、それにはまだ時間もお金(百万円単位)もかかりますが、とりあえず、ここにその歌詞と、レコーディングに参加してくれるミュージシャンの人達にこの歌詞についての理解を深めてもらうために書いた解題(この作品についての私自身による解説)を掲げて、寮生諸君の参考に供したいと思います。
谷川さんやオケ、コーラスの人達のスケジュール調整、費用の捻出(これが大変)等の都合があって、まだいつ計画が完了するかわかりませんが、私が寮監を引退する頃までには出来るのではないかな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かけらとすべて
作詞 : 柿田宗芳
ここに私がいる そこにあなたがいる
風が街を吹きぬける 月が夜空にかかる
ここに私はいる けれどなにを私というの
息づくからだが私だろうか 思う心が私だろうか
朝日のまぶしさ 地下鉄の音
氷の冷たさ 心の痛み
感じているのは私 考えるのも私
日々を暮らすのは私 けれどなにを私というの
このひろがりのすべてのものと 目にはみえないすべてのことが
かかわりあって私ができて なにかかけたら私はいない
はてない時空のつらなりに 今だけ姿を結んだ私
私はかけらで私はすべて 私はいるのに私はいない
ここに私がいる そこにあなたがいる
あなたがいるから私がいる あなたがいないと私もいない
風が街を吹きぬける 月が夜空にかかる
私は風 私は月 けれど私は私
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『かけらとすべて』解題
私はこの詩の中に、仏教独自の世界観や、存在についての考え方といった内容を盛り込みたいと思いました。さまざまな宗教の共有部分である、人間社会を円滑に回していくための智慧であるとか、道徳的な内容などにはあえて触れていません。
この詩を作るにあたり、内容が聴く人の心に素直に伝わりやすいよう、できるだけ仏教の専門用語や漢語を廃し、やさしい「やまとことば」を使うことを心がけました。実際、この中に現れる漢語は「地下鉄」と「時空」のみです。
かけらとすべて
>ここに私がいる
>そこにあなたがいる
初めの2行で、ごく一般的な存在のとらえ方を提示しました。私は私という個別の存在であり、あなたもあなたという個別の存在である。そして、私はここに存在して、私とは別にあなたがそこに存在する、と。
>風が街を吹きぬける
>月が夜空にかかる
この2行では、風と月に花鳥風月、つまり自然の風物を代表させています。その上で、風は風として存在し、月は月として存在するという、前半と同様の普通の存在の捉え方を示します。この部分は、具体的には、夜のビル街の上空にかかる三日月をイメージして書きました。「街を」には、都市に住む人に、自分の日常の舞台である都会の情景を思い浮かべてもらいたいという意図を込めています。
>ここに私はいる
>けれどなにを私というの
>息づくからだが私だろうか
>思う心が私だろうか
先の2行で「私(自分)」とはなにかという、古今東西、あらゆる人間に共通の根源的な問いを呈します。後の2行で、あまたある「私」を分析する方法のひとつとして、「私」を「身」または「心」と捉える、あるいは二つに分かたれたものを統合したものと捉える可能性を示唆します。
最初のパラグラフでは「ここに私がいる」とし、ここでは「ここに私はいる」としていますが、これは、前者では「が」によって「あなた」という他者との対比を際立たせ、後者では「は」によって「いるにはいるのだけれど」という逡巡を表現したかったためです。
>朝日のまぶしさ
>地下鉄の音
>氷の冷たさ
>心の痛み
「まぶしさ」は視覚の、「音」は聴覚の、「冷たさ」は触覚の、「心の痛み」は意識の対象を表します。般若心経の中にありますが、仏教では外界を認識する感覚器官として「眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんい)」(六根)を挙げ、それらが認識する対象を「色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)」(六境)とします。上の4行は、六境のうち、「色・声・触・法」の4つを取り上げたものです。
人間が認識できる対象である六境を全部詩の中に繰り込んでしまうと、重たく、野暮ったくなるし、その必要もないので、この4つに代表させました。4つの具体的な現象はなんでもよかったのですが、「地下鉄」を入れることで、幾分かでも現代人の共感を得られればと思いました。
蛇足になりますが、推敲の段階では「イルミネーション」「ピアノの調べ」「赤ん坊の匂い」「カカオの苦味」「陽差しの熱さ」「別れの悲しさ」など、知覚の対象を表すいろいろな言葉を思いつくままに沢山並べ、その中から最終的に作品に入れるのにふさわしいものをピックアップしました。
>感じているのは私
>考えるのも私
>日々を暮らすのは私
>けれどなにを私というの
一般に人間が自分のことを「私」という時、それは、皮膚によって外界から隔てられた内界において、感覚器官を通して外界の情報を取り入れ、認識し、それをもとに思考して、意識的に、あるいは無意識的に筋肉を動かしてさまざまな運動をすることによって、日常生活を送っている主体だと思っているわけですが、その認識で間違いはないのかという問いかけをここでしています。
以降のパラグラフで、仏教における「私」とはなにかを示していきます。なお、ここでいう「私」とは、人間として日々を生きる一人称の主体のみならず、すべての存在を表しています。
>このひろがりのすべてのものと
>目にはみえないすべてのことが
>かかわりあって私ができて
>なにかかけたら私はいない
この世界にはさまざまなものが、おのおの別個に存在しているようにみえますが、仏教では、実際にはそのもの単独で存在し、他からなんの影響も受けず、また他に影響を与えず、なんの変化もしないものごとは存在せず、すべての事物、現象は、相互に関係しあうことによって仮に現れているととらえます。
例えば、人間としての「私」は、皮膚の内側だけで存在しているのではありません。「私」を取り巻く空気がなければ、「私」は呼吸ができずに死んでしまうし、水や食べ物がなければ命を保てない。生命を維持するのに適切な気温、湿度、気圧がなければ生きられない。また、人間の場合、「私」をとりまく社会がなければ生存できない。また、時間軸で考えれば、両親、遡って祖先、祖先を支えた環境がなければ、「私」はここにこうして「いる」ことはできない。これらの関係(縁)が一つでも欠けたら「私」は「私」として現象できない、ということをここで述べています。
>はてない時空のつらなりに
>今だけ姿を結んだ私
>私はかけらで私はすべて
>私はいるのに私はいない
無限の時間と空間の微細な一隅に、人智をはるかに超えた複雑極まりない関係性において、「私」という現象は存在しています。そして、「私」をAとした場合、AはBとの関係において存在し、BはCとの関係において存在し、という風にその関係は無限に連鎖してゆき、結局のところ、自と他との区別はなくなり、一が全体となり、全体が一ということになります。華厳経というお経では、このことを指して「一即一切 一切即一」といっています。
「かけら」(宇宙の片隅の一現象)としての「私」は、無限の連鎖の全体である「すべて」でもあり、「すべて」は関連しあっているので「かけら」に収束するともいえます。また、「私」という個の現象は、同時に全体でもあるので、「かけら」としての「私」は「いない」ともいえます。
>ここに私がいる
>そこにあなたがいる
この2行は最初のパラグラフのリフレインですが、今回は最初と違って、次の2行を導き出すための布石になっています。
>あなたがいるから私がいる
>あなたがいないと私もいない
すべての事象はお互いに関係することによって生じているのだから、相互に関係することがなければ、事象は生じないということを、「あなた」と「私」という言葉で象徴してここでいいたいのです。
恋愛関係における「あなたなしでは生きてはいけない」というような意味ではもちろんありませんが、そういう含みも持たせた言葉の遊びの部分でもあります。
>風が街を吹き抜ける
>月が夜空にかかる
この2行は最初のパラグラフの3行目と4行目のリフレインですが、最初のパラグラフでは、単に情景を述べているにすぎなかったものが、ここでは後の2行の呼び水になっています。
>私は風 私は月
「私はかけらで私はすべて」であるのなら、「私」が「風」であり、「月」であるともいえます。無限の連鎖のうちに「私」も「風」も「月」もあるのですから。
>けれど私は私
私たちは具体的な「物」(これを『色:しき』といいます)に囲まれて生活していますが、今まで見て来たように、個々の「物」は、それぞれ本質的には永遠不滅の実体を持っているわけではなく、他の「物」との関係性(縁)において存在しています。このあり方を「空」といい、「我々はこの世界のものごとのそれぞれに実体があると思っているが、実はその本質は空である」ということを「色即是空」といいます。
世界の本質は空ですが、我々が現実に生活している現象界は、縁(様々な相互関係)によって実体化した物質(色)の世界でもあります。このことを「空即是色」といいます。
「けれど私は私」とは、この「空即是色」を私流にいった言葉です。
私たちは物質の世界に生き、日々、さまざまな具体的な問題に行き当たって、悩みながら暮らしているが、この世界の本質は空であり、悩みも苦しみも、そして悩み苦しむ「私」も、実は一時的に縁によって生じたものであって、変わらない実体など持たないということを知った。このことを踏まえた上で、私は現実の世界の「私」に戻り、身につけた智慧をもとに、この迷いの世界である現実の中で精一杯生きて行こう、という一種の決意表明のようなものをこの言葉に込めました。
以上、意を尽くせませんが、大まかに作意を綴らせて頂きました。ご協力、どうぞよろしくお願い致します。
ご縁あって、アフリカのテレビ番組でギターの弾き語りをしたり、アメリカのメンフィスやニューオーリンズの教会でゴスペルクワイアーの人達と一緒にゴスペルを歌ったり(坊さんとしては?かも知れませんが)、千駄ヶ谷のビクタースタジオでレコーディングをしたり、時々子ども向けのミュージカルに出演したり、和田アキ子さんや石井竜也さんのバックコーラスに参加したり、民謡のコンクールで入賞したりしたこともあります。(ちなみに、カラオケはあまり好きではないので滅多に行きません。)
そんな歌好き、音楽好きの私ですが、いつか、真正面から仏教を扱いながら、子どもにもわかりやすいような詩を自分で書き、それを現代的でレベルの高い音楽に載せられないものか、そしてそれを形のある楽曲にして録音し、布教の一環として社会に発信できないものかと思い続けて来ました。
日本にも、仏教の教えを旋律に載せたものは古くからあります。いわゆる御詠歌がその典型で、これはこれで大変素晴らしいものながら、現代を生きる普通の日本人、とりわけ若年層の興味を惹くものとはあまりいえないように思われます。
仏教的内容を含むといわれるポップス、例えば槇原敬之氏の『世界にひとつだけの花』等の楽曲も存在しますが、これらも「仏教的ともとれる」歌詞ではあるものの、直接的に仏教を歌ったものではありません。それ以前に、これらを仏教的な曲と認識している人は少数派でしょう。
私が目指したのは、仏教の核心に触れながら、これが仏教の歌なのかと疑問に思えるほどに自然で、若者をはじめとした現代人にもわかりやすい歌詞を持ち、音楽的にも親しみやすく、都会的なセンスを含んだレベルの高いクールな楽曲でした。
実は昨年、自分の還暦の記念ということもあり、この計画を実行するために『かけらとすべて』と題した詩を書き、これに、私の十数年来の友人であるジャズピアニストで作曲家の谷川賢作氏にお願いして、既に曲をつけて頂いています。
谷川賢作氏の略歴はこちら
私も、出来上がった曲を、谷川さんのピアノの弾き語りで一度聴かせてもらいましたが、曲想、組み立てが素晴らしく、ゆったりした大変いい曲に仕上がっています。
谷川さんの心づもりとしては、これを合唱曲にアレンジして、コーラス、オーケストラの同時一発録りでレコーディングしたいとのことで、それにはまだ時間もお金(百万円単位)もかかりますが、とりあえず、ここにその歌詞と、レコーディングに参加してくれるミュージシャンの人達にこの歌詞についての理解を深めてもらうために書いた解題(この作品についての私自身による解説)を掲げて、寮生諸君の参考に供したいと思います。
谷川さんやオケ、コーラスの人達のスケジュール調整、費用の捻出(これが大変)等の都合があって、まだいつ計画が完了するかわかりませんが、私が寮監を引退する頃までには出来るのではないかな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かけらとすべて
作詞 : 柿田宗芳
ここに私がいる そこにあなたがいる
風が街を吹きぬける 月が夜空にかかる
ここに私はいる けれどなにを私というの
息づくからだが私だろうか 思う心が私だろうか
朝日のまぶしさ 地下鉄の音
氷の冷たさ 心の痛み
感じているのは私 考えるのも私
日々を暮らすのは私 けれどなにを私というの
このひろがりのすべてのものと 目にはみえないすべてのことが
かかわりあって私ができて なにかかけたら私はいない
はてない時空のつらなりに 今だけ姿を結んだ私
私はかけらで私はすべて 私はいるのに私はいない
ここに私がいる そこにあなたがいる
あなたがいるから私がいる あなたがいないと私もいない
風が街を吹きぬける 月が夜空にかかる
私は風 私は月 けれど私は私
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『かけらとすべて』解題
私はこの詩の中に、仏教独自の世界観や、存在についての考え方といった内容を盛り込みたいと思いました。さまざまな宗教の共有部分である、人間社会を円滑に回していくための智慧であるとか、道徳的な内容などにはあえて触れていません。
この詩を作るにあたり、内容が聴く人の心に素直に伝わりやすいよう、できるだけ仏教の専門用語や漢語を廃し、やさしい「やまとことば」を使うことを心がけました。実際、この中に現れる漢語は「地下鉄」と「時空」のみです。
かけらとすべて
>ここに私がいる
>そこにあなたがいる
初めの2行で、ごく一般的な存在のとらえ方を提示しました。私は私という個別の存在であり、あなたもあなたという個別の存在である。そして、私はここに存在して、私とは別にあなたがそこに存在する、と。
>風が街を吹きぬける
>月が夜空にかかる
この2行では、風と月に花鳥風月、つまり自然の風物を代表させています。その上で、風は風として存在し、月は月として存在するという、前半と同様の普通の存在の捉え方を示します。この部分は、具体的には、夜のビル街の上空にかかる三日月をイメージして書きました。「街を」には、都市に住む人に、自分の日常の舞台である都会の情景を思い浮かべてもらいたいという意図を込めています。
>ここに私はいる
>けれどなにを私というの
>息づくからだが私だろうか
>思う心が私だろうか
先の2行で「私(自分)」とはなにかという、古今東西、あらゆる人間に共通の根源的な問いを呈します。後の2行で、あまたある「私」を分析する方法のひとつとして、「私」を「身」または「心」と捉える、あるいは二つに分かたれたものを統合したものと捉える可能性を示唆します。
最初のパラグラフでは「ここに私がいる」とし、ここでは「ここに私はいる」としていますが、これは、前者では「が」によって「あなた」という他者との対比を際立たせ、後者では「は」によって「いるにはいるのだけれど」という逡巡を表現したかったためです。
>朝日のまぶしさ
>地下鉄の音
>氷の冷たさ
>心の痛み
「まぶしさ」は視覚の、「音」は聴覚の、「冷たさ」は触覚の、「心の痛み」は意識の対象を表します。般若心経の中にありますが、仏教では外界を認識する感覚器官として「眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんい)」(六根)を挙げ、それらが認識する対象を「色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)」(六境)とします。上の4行は、六境のうち、「色・声・触・法」の4つを取り上げたものです。
人間が認識できる対象である六境を全部詩の中に繰り込んでしまうと、重たく、野暮ったくなるし、その必要もないので、この4つに代表させました。4つの具体的な現象はなんでもよかったのですが、「地下鉄」を入れることで、幾分かでも現代人の共感を得られればと思いました。
蛇足になりますが、推敲の段階では「イルミネーション」「ピアノの調べ」「赤ん坊の匂い」「カカオの苦味」「陽差しの熱さ」「別れの悲しさ」など、知覚の対象を表すいろいろな言葉を思いつくままに沢山並べ、その中から最終的に作品に入れるのにふさわしいものをピックアップしました。
>感じているのは私
>考えるのも私
>日々を暮らすのは私
>けれどなにを私というの
一般に人間が自分のことを「私」という時、それは、皮膚によって外界から隔てられた内界において、感覚器官を通して外界の情報を取り入れ、認識し、それをもとに思考して、意識的に、あるいは無意識的に筋肉を動かしてさまざまな運動をすることによって、日常生活を送っている主体だと思っているわけですが、その認識で間違いはないのかという問いかけをここでしています。
以降のパラグラフで、仏教における「私」とはなにかを示していきます。なお、ここでいう「私」とは、人間として日々を生きる一人称の主体のみならず、すべての存在を表しています。
>このひろがりのすべてのものと
>目にはみえないすべてのことが
>かかわりあって私ができて
>なにかかけたら私はいない
この世界にはさまざまなものが、おのおの別個に存在しているようにみえますが、仏教では、実際にはそのもの単独で存在し、他からなんの影響も受けず、また他に影響を与えず、なんの変化もしないものごとは存在せず、すべての事物、現象は、相互に関係しあうことによって仮に現れているととらえます。
例えば、人間としての「私」は、皮膚の内側だけで存在しているのではありません。「私」を取り巻く空気がなければ、「私」は呼吸ができずに死んでしまうし、水や食べ物がなければ命を保てない。生命を維持するのに適切な気温、湿度、気圧がなければ生きられない。また、人間の場合、「私」をとりまく社会がなければ生存できない。また、時間軸で考えれば、両親、遡って祖先、祖先を支えた環境がなければ、「私」はここにこうして「いる」ことはできない。これらの関係(縁)が一つでも欠けたら「私」は「私」として現象できない、ということをここで述べています。
>はてない時空のつらなりに
>今だけ姿を結んだ私
>私はかけらで私はすべて
>私はいるのに私はいない
無限の時間と空間の微細な一隅に、人智をはるかに超えた複雑極まりない関係性において、「私」という現象は存在しています。そして、「私」をAとした場合、AはBとの関係において存在し、BはCとの関係において存在し、という風にその関係は無限に連鎖してゆき、結局のところ、自と他との区別はなくなり、一が全体となり、全体が一ということになります。華厳経というお経では、このことを指して「一即一切 一切即一」といっています。
「かけら」(宇宙の片隅の一現象)としての「私」は、無限の連鎖の全体である「すべて」でもあり、「すべて」は関連しあっているので「かけら」に収束するともいえます。また、「私」という個の現象は、同時に全体でもあるので、「かけら」としての「私」は「いない」ともいえます。
>ここに私がいる
>そこにあなたがいる
この2行は最初のパラグラフのリフレインですが、今回は最初と違って、次の2行を導き出すための布石になっています。
>あなたがいるから私がいる
>あなたがいないと私もいない
すべての事象はお互いに関係することによって生じているのだから、相互に関係することがなければ、事象は生じないということを、「あなた」と「私」という言葉で象徴してここでいいたいのです。
恋愛関係における「あなたなしでは生きてはいけない」というような意味ではもちろんありませんが、そういう含みも持たせた言葉の遊びの部分でもあります。
>風が街を吹き抜ける
>月が夜空にかかる
この2行は最初のパラグラフの3行目と4行目のリフレインですが、最初のパラグラフでは、単に情景を述べているにすぎなかったものが、ここでは後の2行の呼び水になっています。
>私は風 私は月
「私はかけらで私はすべて」であるのなら、「私」が「風」であり、「月」であるともいえます。無限の連鎖のうちに「私」も「風」も「月」もあるのですから。
>けれど私は私
私たちは具体的な「物」(これを『色:しき』といいます)に囲まれて生活していますが、今まで見て来たように、個々の「物」は、それぞれ本質的には永遠不滅の実体を持っているわけではなく、他の「物」との関係性(縁)において存在しています。このあり方を「空」といい、「我々はこの世界のものごとのそれぞれに実体があると思っているが、実はその本質は空である」ということを「色即是空」といいます。
世界の本質は空ですが、我々が現実に生活している現象界は、縁(様々な相互関係)によって実体化した物質(色)の世界でもあります。このことを「空即是色」といいます。
「けれど私は私」とは、この「空即是色」を私流にいった言葉です。
私たちは物質の世界に生き、日々、さまざまな具体的な問題に行き当たって、悩みながら暮らしているが、この世界の本質は空であり、悩みも苦しみも、そして悩み苦しむ「私」も、実は一時的に縁によって生じたものであって、変わらない実体など持たないということを知った。このことを踏まえた上で、私は現実の世界の「私」に戻り、身につけた智慧をもとに、この迷いの世界である現実の中で精一杯生きて行こう、という一種の決意表明のようなものをこの言葉に込めました。
以上、意を尽くせませんが、大まかに作意を綴らせて頂きました。ご協力、どうぞよろしくお願い致します。