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(写真はドイツ寂光寺の坐禅風景)
3月31日付けの中外日報に、現大乗寺山主の東隆眞老師が『弟子丸泰仙老師ヨーロッパ布教50年によせて』という記事を寄稿しておられました。
私は永平寺安居4年目(平成3年:1991年)の夏から秋にかけての3ヶ月間、研修安居僧として本山から単独でヨーロッパに派遣され、各国の禅道場の摂心(4ヶ所)や坐禅会(5ヶ所)に参加させて頂きましたが、この記事を読みながらその際のことをいろいろと思い出し、当時、『傘松』に4回にわたって連載させて頂いた自分の随筆も読み返してみました。
今から10年前、2007年に、フランスの禅道尼苑で行われた曹洞宗ヨーロッパ国際布教40周年記念行事に私も参加させて頂き、彼の地で知り合った人々と旧交を温めたことでしたが、随筆を書いたのは、そのまた16年も前のことになるので、自分自身、書いた内容をかなり忘れてしまっていたし、当時と今とでは彼の地の事情もだいぶ変わっているでしょうが、寮生諸君に、当時のヨーロッパの禅の現場がどういう状況であったか、また、寮監が若い頃にどういうことを考えていたかを知ってもらうことにも多少の益はあろうかと思い、『柳はヴェール 花はルージュ』と題したその随筆を、全文ここに掲載することにします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
柳はヴェール 花はルージュ -欧州研修安居雑感- (1)(ドイツ編)
ハンブルク空港で
これはおかしい。いくら待っても私の荷物が出て来ない。ぽかりぽかりと荷物を吐き出す、ゴムのピラピラの付いたコンベアーの口に一生懸命目を凝らすが、一向にあの黒のばかでかいスーツケースは出てくる気配がない。ゴウンゴウンという音の中、荷物を手にした乗客が一人去り、二人減り、私を含めた立ちん坊が5人ほどになった時、とうとう機械はキュルル・・ときしんで止まってしまった。
係の女性に駆け寄って尋ねる。あのう、私の荷物が出て来ないんですが・・。
「ああ、恐らく経由地のパリに積み残して来たんでしょう。出口の先にオフィスがありますから、そちらで手続きなさってください。大丈夫、出てきますよ。」
はあ、そういうものですか・・。なんだか随分あっさり片づけられてしまったものだが、本当に出て来るんだろうか。あの中には法要用衣裳一式と、監院老師から各道場への親書、応量器、祖山行法指南(乾)(坤)、坐蒲、お土産等々、これからの旅に必要欠くべからざる物が詰まっているというのに。
パスポートやカードの類はいつも身につけているからとりあえず身分証明はできるし、ここで買えるものならなんとかならなくもないが、ハンブルクの紳士服店に坊さんの大衣がぶら下がっているとも思えない。ああ、のっけから困ったことに・・と思いつつ出口へ向かっていると、こちらに向かって手を振っている二つの人影が目に入った。これからお世話になる寂光寺の堂頭、天龍テンブロウ師夫人のロランスさんとメンバーの一人であるライモンさんである。
「随分荷物が少ないんですね。」
いえ、そうじゃないんです・・。
寂光寺へ
ライモンさんの駆る、彼が邦貨24万円ほどで購入したという中古のベンツの中、ロランスさんとの再会を喜ぶ。この人とは、2年前に天龍師とともに永平寺で会っている。
急な角度の瓦屋根の街並みを過ぎ、30分も北に走ると、牛が草を食むのどかな田園風景が広がる。更に1時間、私達はユトランド半島の付け根、シェーンベーケンの寂光寺に到着した。
寂光寺は、昔、この辺りの地主の持ち物だった二つの建物を、天龍師のグループが2年前に買い取り改装したもので、その敷地は5.5ヘクタールに及ぶ。不動産の代金の半分は支払い済みだが、残りの半分は何十年かのローンになっているという。赤煉瓦造りの門をくぐり抜け、車が本館に着くと、堂頭の天龍師がにこやかに出迎えて下さった。
天龍師と会うのはこれで3度目である。ひとしきり思い出話に花を咲かせ、施設を案内されてから、4人のルームメイトに紹介された。明日から摂心が始まる。
坐禅堂で
寂光寺の摂心は、10日間をひとまとまりとして、これを5回繰り返す。10日間の前半は準備期間と称して、行鉢を含め1日8炷の坐禅の他に、午前・午後の作務が入る。6日目は放参日で、続く3日が本摂心。1日10炷を坐るが、午後には作務がある。
薄手のカーペットを敷き詰めた広い坐禅堂に、40人程の参加者が面壁して坐っている。皆、背筋がしゃきっと伸びて大変坐相が良い。中には肩に力が入っていたり、バランスがおかしい人もいるが、これは初心者らしい。
どれほど坐禅をしたかということは、はっきりと坐相に現れるもので、これは隠しようがない。以前、風邪薬かなにかのCMで、修行僧が数人坐禅を組む場面があり、役者さんに混じって本物の僧侶がこの中にいたのだが、坐相が他とあまりに違い過ぎるので、一番目立たないところに置かれた、という話を聞いたことがあるが、いかにもありそうなことである。
脚の短い者のひがみかも知れないが、どうしても脚が細くて長いこの人達の方が、結跏趺坐が組みやすいように思われる。ただ、正座の時には、スネの特に長い人は踵から先が後ろに突き出してしまっており、体重が全部ふくらはぎにかかって来るから、さぞ足先の血の巡りが悪くなるだろう、と気の毒にも思う。
堂内ではしわぶきひとつ聞こえない。張り詰めた中にも調和の取れた空気が、この80畳ほどの空間を占めている。ときおり聴こえる小鳥のさえずりで、時が止まっているのでないことがわかる。皆、それぞれの自分を抱えてここに集い、坐りこんでいる。
「禅」はわからない?
部屋に戻って考えた。
ときおり、「外国人には禅が本当にはわからない」という人がいる。なるほど、外国人、ことに西洋人の中には「ゼンは超能力開発の手法のひとつだ」とか、「東洋の美意識のことだ」という風に「わかっちゃいない」人もいる(無論ここにいる人達はそうではない)が、これは禅に対する単なる誤解であって、「わからない」ということを意味しない。「外国人にはわからない」という人には「わからない」という根拠を示してもらいたい。「禅は伝統的な日本の国民文化だから」というのなら、これは的はずれである。禅と禅文化とははっきり区別しておかなくてはならない。
茶の湯、生け花、焼き物、墨絵といった芸術から、数々の武道、日常の作法、料理にいたるまで、禅は日本の文化に非常に大きな影響を及ぼしていることは確かだが、こういったものは禅の周辺の物であって禅そのものではない。ついでに言わせてもらえば、これら周辺の事物についても「外国人にはわからない」は暴言だろう。なるほど文化は人間の精神的所産の蓄積だから、生まれてから長い年月をかけてその環境なりに人間の内に形成され、フィードバックされていくもので、外部の人間にとって一朝一夕には獲得しにくいとはいえようが、これも後天的に努力によって不可能とはいえないし、また、数は多くはないが、鋭い直観によって外からこれに切り込んで来る人もいるものである。
ある文化のコンテンツは、外部の人間には根底のところで絶対にわからないというのなら、日本人についても当然それが当てはまることになるわけで、そうなると海外で認められているという海外の文化に関する芸術家達、例えば、古くは藤田嗣治画伯や、最近では諏訪内晶子さんたちは、一体何が認められているということになるのだろうか。絵画やヴァイオリンは文化の中に入らないのだろうか。「認めた」人達の目が節穴だったことになるのだろうか。あるいは、その文化に対する誤解や曲解の仕方の素晴らしさが「認められた」とでもいうのだろうか? 確かに異文化の理解は難しいことではあろうが、不可能を前提としてしまっては何も始まらない。
話を元に戻せば、私にとって禅とは、言葉の束縛を離れ、無我を学び実践してゆく、その生き方である。この意味において、禅はこの人には妥当してこの人には当てはまらない、などということはない。人間として生まれ、その環境で通用している言葉を習得するうちに自我を生じ、それに対立する外界を概念で細分化、固定化するという過程を経て来た人なら、例外なく禅の意味するところがわかり、これを実践出来る可能性を持っている。だから禅がわからない、ということは・・・
「ソーホーさん、作務の時間ですよ。」
あれ、もうそんな時間ですか。
典座のミヒャエル氏
私の作務は、私自身の希望で典座寮の手伝いにしてもらった。私は祖山で庫院配役になったことはないが料理は好きで、以前からヨーロッパの厨房と料理法には興味津々だったのである。
丁寧な指導を受け、見たこともない野菜を、ドイツ風のやり方で刻み、料理してゆくのは、私にとって作務というよりは心が弾む趣味の時間である。肉体的には楽ではないが、少しも辛くは感じられない。
4人の寮員は、私と話す時は皆英語で喋ってくれるが、彼ら同士では当然のことながらドイツ語になる。ドイツ語がさっぱりわからない私は、最初の頃、彼らの会話はチンプンカンプンだったが、それでも「夕食(アーベンテッセン)」「塩(ザルツ)」「ジャガイモ(カルトーフェルン)」という具合に、だんだんと語彙が増えて行くにつれ、交わされる会話は概ね料理に関する事だから、漠然とながらそのやりとり意味が察せられるようになったのはありがたい。
典座のリーダーのミヒャエルさんは50代の数学者で、コンピューターの会社に勤務している。摂心の参加者には英語を話す人が多かったので、色々な人と言葉を交わすことができたが、とりわけ英語が上手で気さくなこの人はよく話につきあってくれた。ライオンのような野太い声で、ミヒャエルさんは様々な問題について語る。
「この間、船で旧東独に旅行してきたんだが、異様な感慨に打たれた。上陸してみると、空気は濁っていて街は灰色、人々の顔には生気がない。数十年振りに昔のガールフレンドが西側に来たんだが、すっかり人が変わってしまっていた。いつもなにかに怯えているようにおどおどして・・それを見ていて悲しかった。外国から見れば、分断されていた国が再統合されたんだから結構なこと、と映るかも知れないが、ことはそう簡単じゃあない。旧西側は『俺達は勝者だ』という優越感に浸り、旧東側は強烈な敗北意識にうちひしがれ、特に年配の人は『一体、自分の人生は何だったんだ』という虚無感と絶望のうちに生き甲斐を見失っている。こんな中、旧西側には『東のやつらは汚い』だとか、『トラバント(旧東の国産車)なんて車じゃない』といった差別意識が芽生えてきている。国家レベルでも、世界最悪といわれる旧東独の公害の克服や、再統合に要する財源の確保など、問題は山積みだ・・」
ミヒャエルさんの話は、EC統合や移民、外国人労働者問題、地球環境問題にも及ぶ。無論、断片に過ぎないが、ドイツ国民から直接聞くドイツの抱える問題に関するコメントには、アジアの東端に聞こえてくるマスコミの報道からだけでは読み取り切れない凄味がある。
これは私の印象だが、ドイツに限らず、ヨーロッパの人々が禅堂に集まる理由のひとつには、こういった社会的要因があるようだ。一寸先が見えない現代世界の激動の焦点にあって、自らの生存の危機を肌で感じ取っているこの人達は、従来の思想や価値観では現在の行き詰まりを根本的に克服し得ないと感じ、個人の問題としてだけではなく、全人類的な意識の改革による世界の存続を祈りつつ、その実践の端緒として坐禅に参ずるのだろう。
我が国に目を転じれば、反戦運動は欧米ほど目立たないものの、いわゆる先進諸国の例に漏れず、危機意識から環境問題が大きくクローズアップされてきた結果、エコロジー運動が急速に勢いを得て来ているが、こういった社会的な角度から禅に接近して来る人の話は、本山にいても聞いたことがない。あるいはあえてそれを動機として挙げないのかも知れないが、個人的な悩みの解決のために、または人生の転機になればと、坐禅に来られる方が多いようである。善し悪しをいうのではない。もとより善し悪しなどない。ヨーロッパにもこちらが主であるタイプの人は多いが、しかしこの違いの原因には一考の価値がある。
話が戻るが、海外からみて禅のお膝元ということになっている日本では、禅というと一般に、「深山に隠棲して個人的に『悟り』を得ること」という風に解釈されているのが実情ではなかろうか。欧米と違って、何百年にもわたって寺の外から坊さんの行状を見てきた日本人がこういうイメージを持ち、それが定着してきたのは無理からぬことかも知れないが、今の世にそのイメージから脱皮できないというのは、どこに原因があるのだろうか。
ミヒャエル「石松」
寂光寺のスタッフの中には、典座のミヒャエルさんの他にもう一人ミヒャエルさんがいる。この人は空手の有段者で、日本人の経営する道場に通うなどして武道に励むうち、禅にふれてこれに精進し、現在、ハンブルク市内の道場を任されている。ドイツ人にしては小柄なミヒャエルさんは、明るく、裏表のない一本気な性格で、動きははしっこく、自分では喧嘩っぱやいという。他人の面倒見もよく、私も随分お世話になった。
英語を話す時に少し吃ったり、天龍師を親分と慕っていつも師の傍らにおとなしく畏まっている様子が森の石松を彷彿とさせたので、私は心中この人を「ミヒャエル石松」と呼んでいた。そう思うと天龍師の方も、思慮深くて情に厚い次郎長親分に見えてくるのがおかしい。
寂光寺滞在最後の日、無事届けられたスーツケースを転がしながら天龍師や参加者の皆に別れの挨拶をしたあと、このミヒャエルさんとライモンさんに、ハンブルク駅まで車で送ってもらった。車中、ミヒャエルさんが突然叫んだ。
「あ、いけない、ソーホーさんに弁当作ったの渡すように頼まれていたのに、持って来るの忘れた! ああ、ごめんねえ、ソーホーさん、いやあ、しまった・・」
駅に着いて荷物をホームまで運んでもらい、発車まで少し間があったのでライモンさんと立ち話をしている間に、ミヒャエルさんの姿が見えなくなった。時間が来たので車両に付いているステップを昇ると、ミヒャエルさんが駆け戻って来た。息を切らして私に紙袋を差し出す。私はそれをステップの上から受け取った。
「ソーホーさん、あの、これ、弁当忘れちゃって悪かったから、買ってきたから、電車の中で食べて、ね、旅はまだ長いから気をつけて!」
ドアが閉まって電車が動き出した。袋を開けてみたら、ソーセージのサンドイッチが2つとチョコレートが入っていた。
彼はやっぱり石松さんだった。
(次回はフランス禅道尼苑)
3月31日付けの中外日報に、現大乗寺山主の東隆眞老師が『弟子丸泰仙老師ヨーロッパ布教50年によせて』という記事を寄稿しておられました。
私は永平寺安居4年目(平成3年:1991年)の夏から秋にかけての3ヶ月間、研修安居僧として本山から単独でヨーロッパに派遣され、各国の禅道場の摂心(4ヶ所)や坐禅会(5ヶ所)に参加させて頂きましたが、この記事を読みながらその際のことをいろいろと思い出し、当時、『傘松』に4回にわたって連載させて頂いた自分の随筆も読み返してみました。
今から10年前、2007年に、フランスの禅道尼苑で行われた曹洞宗ヨーロッパ国際布教40周年記念行事に私も参加させて頂き、彼の地で知り合った人々と旧交を温めたことでしたが、随筆を書いたのは、そのまた16年も前のことになるので、自分自身、書いた内容をかなり忘れてしまっていたし、当時と今とでは彼の地の事情もだいぶ変わっているでしょうが、寮生諸君に、当時のヨーロッパの禅の現場がどういう状況であったか、また、寮監が若い頃にどういうことを考えていたかを知ってもらうことにも多少の益はあろうかと思い、『柳はヴェール 花はルージュ』と題したその随筆を、全文ここに掲載することにします。
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柳はヴェール 花はルージュ -欧州研修安居雑感- (1)(ドイツ編)
ハンブルク空港で
これはおかしい。いくら待っても私の荷物が出て来ない。ぽかりぽかりと荷物を吐き出す、ゴムのピラピラの付いたコンベアーの口に一生懸命目を凝らすが、一向にあの黒のばかでかいスーツケースは出てくる気配がない。ゴウンゴウンという音の中、荷物を手にした乗客が一人去り、二人減り、私を含めた立ちん坊が5人ほどになった時、とうとう機械はキュルル・・ときしんで止まってしまった。
係の女性に駆け寄って尋ねる。あのう、私の荷物が出て来ないんですが・・。
「ああ、恐らく経由地のパリに積み残して来たんでしょう。出口の先にオフィスがありますから、そちらで手続きなさってください。大丈夫、出てきますよ。」
はあ、そういうものですか・・。なんだか随分あっさり片づけられてしまったものだが、本当に出て来るんだろうか。あの中には法要用衣裳一式と、監院老師から各道場への親書、応量器、祖山行法指南(乾)(坤)、坐蒲、お土産等々、これからの旅に必要欠くべからざる物が詰まっているというのに。
パスポートやカードの類はいつも身につけているからとりあえず身分証明はできるし、ここで買えるものならなんとかならなくもないが、ハンブルクの紳士服店に坊さんの大衣がぶら下がっているとも思えない。ああ、のっけから困ったことに・・と思いつつ出口へ向かっていると、こちらに向かって手を振っている二つの人影が目に入った。これからお世話になる寂光寺の堂頭、天龍テンブロウ師夫人のロランスさんとメンバーの一人であるライモンさんである。
「随分荷物が少ないんですね。」
いえ、そうじゃないんです・・。
寂光寺へ
ライモンさんの駆る、彼が邦貨24万円ほどで購入したという中古のベンツの中、ロランスさんとの再会を喜ぶ。この人とは、2年前に天龍師とともに永平寺で会っている。
急な角度の瓦屋根の街並みを過ぎ、30分も北に走ると、牛が草を食むのどかな田園風景が広がる。更に1時間、私達はユトランド半島の付け根、シェーンベーケンの寂光寺に到着した。
寂光寺は、昔、この辺りの地主の持ち物だった二つの建物を、天龍師のグループが2年前に買い取り改装したもので、その敷地は5.5ヘクタールに及ぶ。不動産の代金の半分は支払い済みだが、残りの半分は何十年かのローンになっているという。赤煉瓦造りの門をくぐり抜け、車が本館に着くと、堂頭の天龍師がにこやかに出迎えて下さった。
天龍師と会うのはこれで3度目である。ひとしきり思い出話に花を咲かせ、施設を案内されてから、4人のルームメイトに紹介された。明日から摂心が始まる。
坐禅堂で
寂光寺の摂心は、10日間をひとまとまりとして、これを5回繰り返す。10日間の前半は準備期間と称して、行鉢を含め1日8炷の坐禅の他に、午前・午後の作務が入る。6日目は放参日で、続く3日が本摂心。1日10炷を坐るが、午後には作務がある。
薄手のカーペットを敷き詰めた広い坐禅堂に、40人程の参加者が面壁して坐っている。皆、背筋がしゃきっと伸びて大変坐相が良い。中には肩に力が入っていたり、バランスがおかしい人もいるが、これは初心者らしい。
どれほど坐禅をしたかということは、はっきりと坐相に現れるもので、これは隠しようがない。以前、風邪薬かなにかのCMで、修行僧が数人坐禅を組む場面があり、役者さんに混じって本物の僧侶がこの中にいたのだが、坐相が他とあまりに違い過ぎるので、一番目立たないところに置かれた、という話を聞いたことがあるが、いかにもありそうなことである。
脚の短い者のひがみかも知れないが、どうしても脚が細くて長いこの人達の方が、結跏趺坐が組みやすいように思われる。ただ、正座の時には、スネの特に長い人は踵から先が後ろに突き出してしまっており、体重が全部ふくらはぎにかかって来るから、さぞ足先の血の巡りが悪くなるだろう、と気の毒にも思う。
堂内ではしわぶきひとつ聞こえない。張り詰めた中にも調和の取れた空気が、この80畳ほどの空間を占めている。ときおり聴こえる小鳥のさえずりで、時が止まっているのでないことがわかる。皆、それぞれの自分を抱えてここに集い、坐りこんでいる。
「禅」はわからない?
部屋に戻って考えた。
ときおり、「外国人には禅が本当にはわからない」という人がいる。なるほど、外国人、ことに西洋人の中には「ゼンは超能力開発の手法のひとつだ」とか、「東洋の美意識のことだ」という風に「わかっちゃいない」人もいる(無論ここにいる人達はそうではない)が、これは禅に対する単なる誤解であって、「わからない」ということを意味しない。「外国人にはわからない」という人には「わからない」という根拠を示してもらいたい。「禅は伝統的な日本の国民文化だから」というのなら、これは的はずれである。禅と禅文化とははっきり区別しておかなくてはならない。
茶の湯、生け花、焼き物、墨絵といった芸術から、数々の武道、日常の作法、料理にいたるまで、禅は日本の文化に非常に大きな影響を及ぼしていることは確かだが、こういったものは禅の周辺の物であって禅そのものではない。ついでに言わせてもらえば、これら周辺の事物についても「外国人にはわからない」は暴言だろう。なるほど文化は人間の精神的所産の蓄積だから、生まれてから長い年月をかけてその環境なりに人間の内に形成され、フィードバックされていくもので、外部の人間にとって一朝一夕には獲得しにくいとはいえようが、これも後天的に努力によって不可能とはいえないし、また、数は多くはないが、鋭い直観によって外からこれに切り込んで来る人もいるものである。
ある文化のコンテンツは、外部の人間には根底のところで絶対にわからないというのなら、日本人についても当然それが当てはまることになるわけで、そうなると海外で認められているという海外の文化に関する芸術家達、例えば、古くは藤田嗣治画伯や、最近では諏訪内晶子さんたちは、一体何が認められているということになるのだろうか。絵画やヴァイオリンは文化の中に入らないのだろうか。「認めた」人達の目が節穴だったことになるのだろうか。あるいは、その文化に対する誤解や曲解の仕方の素晴らしさが「認められた」とでもいうのだろうか? 確かに異文化の理解は難しいことではあろうが、不可能を前提としてしまっては何も始まらない。
話を元に戻せば、私にとって禅とは、言葉の束縛を離れ、無我を学び実践してゆく、その生き方である。この意味において、禅はこの人には妥当してこの人には当てはまらない、などということはない。人間として生まれ、その環境で通用している言葉を習得するうちに自我を生じ、それに対立する外界を概念で細分化、固定化するという過程を経て来た人なら、例外なく禅の意味するところがわかり、これを実践出来る可能性を持っている。だから禅がわからない、ということは・・・
「ソーホーさん、作務の時間ですよ。」
あれ、もうそんな時間ですか。
典座のミヒャエル氏
私の作務は、私自身の希望で典座寮の手伝いにしてもらった。私は祖山で庫院配役になったことはないが料理は好きで、以前からヨーロッパの厨房と料理法には興味津々だったのである。
丁寧な指導を受け、見たこともない野菜を、ドイツ風のやり方で刻み、料理してゆくのは、私にとって作務というよりは心が弾む趣味の時間である。肉体的には楽ではないが、少しも辛くは感じられない。
4人の寮員は、私と話す時は皆英語で喋ってくれるが、彼ら同士では当然のことながらドイツ語になる。ドイツ語がさっぱりわからない私は、最初の頃、彼らの会話はチンプンカンプンだったが、それでも「夕食(アーベンテッセン)」「塩(ザルツ)」「ジャガイモ(カルトーフェルン)」という具合に、だんだんと語彙が増えて行くにつれ、交わされる会話は概ね料理に関する事だから、漠然とながらそのやりとり意味が察せられるようになったのはありがたい。
典座のリーダーのミヒャエルさんは50代の数学者で、コンピューターの会社に勤務している。摂心の参加者には英語を話す人が多かったので、色々な人と言葉を交わすことができたが、とりわけ英語が上手で気さくなこの人はよく話につきあってくれた。ライオンのような野太い声で、ミヒャエルさんは様々な問題について語る。
「この間、船で旧東独に旅行してきたんだが、異様な感慨に打たれた。上陸してみると、空気は濁っていて街は灰色、人々の顔には生気がない。数十年振りに昔のガールフレンドが西側に来たんだが、すっかり人が変わってしまっていた。いつもなにかに怯えているようにおどおどして・・それを見ていて悲しかった。外国から見れば、分断されていた国が再統合されたんだから結構なこと、と映るかも知れないが、ことはそう簡単じゃあない。旧西側は『俺達は勝者だ』という優越感に浸り、旧東側は強烈な敗北意識にうちひしがれ、特に年配の人は『一体、自分の人生は何だったんだ』という虚無感と絶望のうちに生き甲斐を見失っている。こんな中、旧西側には『東のやつらは汚い』だとか、『トラバント(旧東の国産車)なんて車じゃない』といった差別意識が芽生えてきている。国家レベルでも、世界最悪といわれる旧東独の公害の克服や、再統合に要する財源の確保など、問題は山積みだ・・」
ミヒャエルさんの話は、EC統合や移民、外国人労働者問題、地球環境問題にも及ぶ。無論、断片に過ぎないが、ドイツ国民から直接聞くドイツの抱える問題に関するコメントには、アジアの東端に聞こえてくるマスコミの報道からだけでは読み取り切れない凄味がある。
これは私の印象だが、ドイツに限らず、ヨーロッパの人々が禅堂に集まる理由のひとつには、こういった社会的要因があるようだ。一寸先が見えない現代世界の激動の焦点にあって、自らの生存の危機を肌で感じ取っているこの人達は、従来の思想や価値観では現在の行き詰まりを根本的に克服し得ないと感じ、個人の問題としてだけではなく、全人類的な意識の改革による世界の存続を祈りつつ、その実践の端緒として坐禅に参ずるのだろう。
我が国に目を転じれば、反戦運動は欧米ほど目立たないものの、いわゆる先進諸国の例に漏れず、危機意識から環境問題が大きくクローズアップされてきた結果、エコロジー運動が急速に勢いを得て来ているが、こういった社会的な角度から禅に接近して来る人の話は、本山にいても聞いたことがない。あるいはあえてそれを動機として挙げないのかも知れないが、個人的な悩みの解決のために、または人生の転機になればと、坐禅に来られる方が多いようである。善し悪しをいうのではない。もとより善し悪しなどない。ヨーロッパにもこちらが主であるタイプの人は多いが、しかしこの違いの原因には一考の価値がある。
話が戻るが、海外からみて禅のお膝元ということになっている日本では、禅というと一般に、「深山に隠棲して個人的に『悟り』を得ること」という風に解釈されているのが実情ではなかろうか。欧米と違って、何百年にもわたって寺の外から坊さんの行状を見てきた日本人がこういうイメージを持ち、それが定着してきたのは無理からぬことかも知れないが、今の世にそのイメージから脱皮できないというのは、どこに原因があるのだろうか。
ミヒャエル「石松」
寂光寺のスタッフの中には、典座のミヒャエルさんの他にもう一人ミヒャエルさんがいる。この人は空手の有段者で、日本人の経営する道場に通うなどして武道に励むうち、禅にふれてこれに精進し、現在、ハンブルク市内の道場を任されている。ドイツ人にしては小柄なミヒャエルさんは、明るく、裏表のない一本気な性格で、動きははしっこく、自分では喧嘩っぱやいという。他人の面倒見もよく、私も随分お世話になった。
英語を話す時に少し吃ったり、天龍師を親分と慕っていつも師の傍らにおとなしく畏まっている様子が森の石松を彷彿とさせたので、私は心中この人を「ミヒャエル石松」と呼んでいた。そう思うと天龍師の方も、思慮深くて情に厚い次郎長親分に見えてくるのがおかしい。
寂光寺滞在最後の日、無事届けられたスーツケースを転がしながら天龍師や参加者の皆に別れの挨拶をしたあと、このミヒャエルさんとライモンさんに、ハンブルク駅まで車で送ってもらった。車中、ミヒャエルさんが突然叫んだ。
「あ、いけない、ソーホーさんに弁当作ったの渡すように頼まれていたのに、持って来るの忘れた! ああ、ごめんねえ、ソーホーさん、いやあ、しまった・・」
駅に着いて荷物をホームまで運んでもらい、発車まで少し間があったのでライモンさんと立ち話をしている間に、ミヒャエルさんの姿が見えなくなった。時間が来たので車両に付いているステップを昇ると、ミヒャエルさんが駆け戻って来た。息を切らして私に紙袋を差し出す。私はそれをステップの上から受け取った。
「ソーホーさん、あの、これ、弁当忘れちゃって悪かったから、買ってきたから、電車の中で食べて、ね、旅はまだ長いから気をつけて!」
ドアが閉まって電車が動き出した。袋を開けてみたら、ソーセージのサンドイッチが2つとチョコレートが入っていた。
彼はやっぱり石松さんだった。
(次回はフランス禅道尼苑)