書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

臨書  米フツ書 蜀素帖(三)

2013-05-08 08:48:27 | Weblog

略伝(つづき)

地方の割合低い官吏を転任するが南方が多く、米芾は江南の山水を愛した。

彼は非常に書画がうまかった上に鑑識にすぐれていたため、

崇寧3年(1104年)の書画学(宮廷美術学校)設立の際には書画学博士となった。

そして、徽宗の側近に仕えて書画の鑑定にあたり、のちに礼部員外郎[7]に抜擢された(この官職名がかつて南宮舎人といったので米南宮と呼称された)。

徽宗の厖大な書画コレクションを自由に利用できたことにより、古典を徹底的に組織的に研究した。

彼は名跡を臨模し、鑑定をし、収集をし、そして鑑賞した書画についての多くの記述を残した。

その著録はきわめて科学的であり、今日でも正確で信頼のおけるものである。

 

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