可為色
渾沌不分
故道徳之者
永渾成
先天地生
其気体也
道而形
其遅速固未可得而未天体
又永久焉
趙之謙紹介(4)
趙は、詩書画篆刻のいずれも才能を発揮しましたが。これらの趙の芸は、今日でも心慕熱中する人は枚挙に暇がありません。中国では呉昌碩・趙時綱(ちょうじこう)、我が国では河井荃廬翁・西川寧先生らが作品の上でも実践した人として特に挙げられましょう。なかでも西川先生は、自家薬籠中のものにした趙書を昇華させて西川書法として人々を魅了しました。趙書の独特の書きぶりは、のちに「北魏書(ほくぎしょ)」と呼ばれましたが、趙が北魏碑の中でも最も尊重したのが鄭道昭(ていどうしょう)のものであることを西川先生は指摘(『西川寧著作集』1、鄭道昭に関する小記と摩崖)されています。趙の書は、はじめ顔真卿(がんしんけい)を学び、のちに包世臣・張琦(ちょうき)の書論や阮元(げんげん)の「南北書派論(なんぼくしょはろん)」を読んで北碑を学んだとされます。包世臣は鄭書について「鄭文公碑(ていぶんこうひ)の字、独り真正(しんせい)なり。而して篆勢(てんせい)・分韻(ふんいん)・草情(そうじょう)畢(ことごと)く其の中に具(そな)わる。」(『安呉論書』歴下筆譚)と述べて、篆書の勢(すがた)・八分の韻(リズム)・草書の情(あじわい)が一体化しているとしています。こうした包の主張も趙の鄭書尊重の裏付けの一つでしょう
# 趙之謙紹介は 遠藤昌弘著作選 臨書探訪82 を引用させていただいて居ります。
可為色
渾沌不分
故道徳之者
永渾成
先天地生
其気体也
道而形
其遅速固未可得而未天体
又永久焉
趙之謙紹介(3)
趙の著書には、魏・斉の石刻の異体字を研究した『六朝別字記(りくちょうべつじき)』、孫星衍(そんせいえん)の『寰宇訪碑録(かんうほうひろく)』を増補した『補寰宇訪碑録(ほかんうほうひろく)』、詩集には『悲盦居士詩賸(ひあんこじしよう)』があります。生涯を通して作られた書画は『悲盦賸墨(ひあんようぼく)』(東京堂出版 復刻)・『二金蝶堂遺墨(にきんちょうどういぼく)』(二玄社 復刻)また『趙之謙書画集』(東方書店)・『趙之謙作品集』(東方書店)で、印は『二金蝶堂印譜』・『呉趙印存』・『趙撝叔印譜』また中国篆刻叢刊『趙之謙』(二玄社)で見ることができます。
# 趙之謙紹介は 遠藤昌弘著作選 臨書探訪82 を引用させていただいて居ります。
可為色
渾沌不分
故道徳之者
永渾成
先天地生
其気体也
道而形
其遅速固未可得而未天体
又永久焉
趙之謙紹介(2)
号にもちいられた冷・悲・悶は、そのまま趙の生涯を表しています。
青年の「冷」は、妻子を抱えて生計のために印書画を作るという不本意な売芸生活を厭世的に表現しています。
中年の「悲」は、洪秀全(こうしゅうぜん)が起こした太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)の騒乱のうちに妻と娘が病没し、三十四歳にして天涯孤独の身の上を文字に託しました。
二年後の三六歳には「无悶(悶无し)」となって、趙の心に平安が訪れます。
この転機となったのが三十四歳十二月の北京行きでした。
この北京への旅は、科挙試験のためのものでしたが、ここで出会った沈樹鏞(しんじゅよう)・胡澍(こじゅ)・魏錫曽(ぎせきそう)と試験準備もそこそこに昼夜を問わず金石談議に没頭することになります。
同治(どうち)四年の会試にはじめての受験しましたが失敗して、この年の末に北京を離れて帰郷するまでの三年間ほどが趙にとってもっとも充実した期間で、ついには无悶の境地に到りました。
これより四六歳(同治一三年)までに四度受験し、年号が光緒にかわって四九歳(光緒三年)五度目の受験に失敗して、ついに進士への道を断念しました。
趙は一度目の会試で得ていた国史館謄録(こくしかんとうろく)という資格で、鄱陽県(はようけん 江西省・こうせいしょう)の知県として五〇歳にしてはじめて任官したあとは奉新県(ほうしんけん 江西省)の知県をへて、光緒一〇年(1884)五六歳で城南県(じょうなんけん 江西省)の知県として官舎で亡くなりました。
# 趙之謙紹介は 遠藤昌弘著作選 臨書探訪82 を引用させていただいて居ります。
![]() |
臨書のすすめ |
手島 右卿 | |
日貿出版社 |
可為色
渾沌不分
故道徳之者
永渾成
先天地生
其気体也
道而形
其遅速固未可得而未天体
又永久焉
趙之謙(ちょうしけん)は道光(どうこう)九年(1829)に生れました。
同時代の書の名人と謳われた、包世臣(ほうせしん)・呉讓之(ごじょうし)・何紹基(かしょうき)は年長にあたり、呉昌碩(ごしょうせき)はやや後輩です。
呉讓之や何紹基などは実際に会って、その時の交流の様子が残っていますが三十歳もはなれています。
出身地である紹興(しょうこう 浙江省・せっこうしょう)は、紹興酒に代表される酒造の土地柄の商業の町でした。 魯迅の出身地でもあります。
字ははじめ益甫(えきほ)のちに三十歳頃からは撝叔(きしゅく)といいました。
号は二十代中ごろからは冷君(れいくん)、三十代中ごろからは悲盦(ひあん)また无悶(むもん)といいました。
太素之先
幽清元静
冥黙市象
厥中惟虚
厥外惟无
如是久焉
斯以溟涬
盖乃道之
根根既建
自无生有
太素始萌
趙之謙(1829-1884)
紹興の裕福な家庭に生まれた。
長髪族の乱への遭遇、生家の没落、愛妻の死など、
若くして困苦を経験した。
元来、生来精気旺盛な性格が、
この困苦を逆手に取った如く、
その感情を書画にぶつけたのではないかといわれる。
その辺りが日本人の琴線に触れるのであろうか、
彼に対する日本人の評価は狂的に高い。
![]() |
古典を極める 臨書〈下〉古代書・行書・草書 |
高橋 蒼石,渡部 半溟 | |
天来書院 |