書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

後醍醐天皇・置文

2007-08-21 08:14:02 | Weblog

後醍醐天皇(1283-1339)
元弘の変で隠岐島に流罪となるが、
名和一族の働きで隠岐島から脱出し再び挙兵する。
足利高氏が天皇方に味方するなどして北条氏を滅亡させる。
建武の新政を開始するが、
武家を排除した公家中心の政権運営が各方面、特に武士勢力の不満を呼び離反した足利軍に敗北し吉野にて南朝を開く。

多くの女性との間に多くの皇子をもうける。

中宮・藤原禧子:1女。
中宮・子内親王:1女。
阿野廉子:後村上天皇(義良親王)、恒良親王、成良親王など3男2女。
藤原為子(兄・後二条の側室):尊良親王・宗良親王など2男1女。
遊義門院一条(父・後宇多の側室):世良親王を始め2男1女。
民部卿三位(祖父・亀山の側室):護良親王など2男1女。
従二位大納局(後宇多天皇の侍女):1女。

この中で興味を惹かれるのが阿野廉子である。
阿野廉子は新待賢門院といい、三位局とも呼ばれた。
例の待賢門院に似た名にも興味を持ったが、意外な事を知った。
「阿野」に見覚えがあったが、まさかあの阿野全成の末裔とは・・
前述したが、阿野全成は源義経の兄に当たり常盤御前の次男、
頼朝の兄弟で唯一子孫を残していることになる。
全成の娘の子・藤原実直が阿野家を起こし、その末裔が廉子である。
中宮・藤原禧子から後醍醐天皇の寵愛をもぎ取り、天皇とともに隠岐に流された。隠岐から京都に戻る途中、天皇が愛する別の女性を海に突き落としたという程の激しい気性であったらしいが、「悪禅師」と異名をとった全成の血を引いているのであろう。

読み:
右国家鎮之本

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