
西行は質素な身なりを纏う漂泊の歌人を連想するが、
実際は広大な荘園などを保有する裕福な身分で有った。
地方を行脚した時も、
例えば奥州では藤原秀衡の館に逗留するなど、
地方の有力者を訪れている。
又、京都にあっては、瀟洒な庵を幾つか構え、
吉野にも讃岐にも庵を構えていた。
先述の待賢門院の女御堀河と兵衛姉妹、待賢門院の皇女上西門院、
俊成、寂然など交流範囲も広い。
西行は、
一首作るのに一体の仏像を彫る、
という心境で歌を詠んだと言うから、
西行の歌への打ち込み方は尋常ではない。
謂わば、命がけの歌作りだったのであろう。
この書は西行と伝えられているが、
藤原定家の書とほぼ断定されている。
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