朝は晴れていた。気持ちのよい五月晴れ。そこここを開け、大気を入れる。しかし、飛行機の音がうるさい。確かに増えている。まとめて飛ぶ。以前よりずっと低い位置を旅客機が行き、高度を下げると、小名木川のほうへ飛んで行くのも、二度ばかり見た。
そして、地震。
いまは? 雨。入道雲もなく、雷の音。変なお天気、それにしても天気予報がよくあたる。
おとなしくベッドにいよ。ベッド周りを天国にしてはいけない、のだが、読みもしない本を積み上げ、老眼鏡を2種類、薬やマスクの箱と、すぐごちゃごちゃ。
老人にはというか、私には過去しかない。でまた、過去の話を。
肖像画は、母方の祖父である。
でも、私は会ったことがない。
母が16歳のときに亡くなり、その後、苦労したという。
母の母である祖母は、この人の二番目の妻であり、19歳も年齢が違っていた。
最初の妻は、ある日、竈(かまど)の前で、変な咳をしているのを祖父が聞きとがめ、
「おまえ、労咳(ろうがい)だな」と言うと、すぐさま「実家に帰れ」と帰してしまった。
祖母は「その話を聞いて、冷たいお人やなあと思った」と話していた。
結核は、当時は死に至る病い、しかも伝染する。
診療に来る患者に伝染ってはいけない、という決断だった。
明治の半ば、尾張藩の下士だった祖父は東京へ医学を勉強しに行った。行きは徒歩か駕篭を使ったが、帰るときは鉄道が通っており、汽車で帰って来た。
母の実家には、母の弟(私には叔父)家族が住んでおり、幼いころ、母に連れられて、よく行ったから、その家の間取りなどは、目に浮かんでくる。
いつも裏口から入り、土間と板の間のあるところで、母は自分の母親や弟の嫁と女同士の話をよくしていた。従妹たちと遊んでいたとき、正面の玄関が開いており、ふらりと入ると、高い寝台状の台があり、床は白いタイル張りだった。たぶん、そこが診察室だったのだろう。
祖父の書いた家の履歴書がある。宝暦年間から始まり、養子ばかりで、繋がっている。名古屋の蓬左文庫には、代々の家臣の記録(名寄帳)が残っている。おまけに、古文書からワープロ文字にもしてある。祖父の履歴書に出てくる名前をすべて確認してきたことがある。
ちゃんと生きていたんだ、と嬉しかった。
「サムライ・ダイアリー」の朝日文左衛門さんを探すのも面白いだろう。
おやおや、今度は陽がさしてきた。