『信長考記』

織田信長について考える。

閑話 信長最後の敵は「将軍」②

2014-01-23 07:18:39 | 信長
 天正九年(1581)の京都馬揃えの直後、朝廷は信長に左大臣としての復官を求めていますが、信長はそれを断っています。※

 翌天正十年(1582)の「三職推任」はそれを踏まえたものであり、中でも、武田氏を滅ぼした甲州攻めの勝利に対し「関東打はたされ珎重間」として「将軍」への就任を求めているのは、よいよ西国平定に向かう信長に対し将軍職を与えることを認めたものと考えられます。
 おそらくその切欠は、甲州攻めの勝利に対し、信長が嫡男・信忠に自らが持つ「天下の儀」を与奪する旨を伝えたとされる出来事であり(『信長(公)記』)、同行していた太政大臣の近衛前久や勅使として派遣された誠仁親王の義弟である万里小路充房らからその意向が伝えられたのでしょう。

 信忠は、天正三年(1575)に正五位下に叙され、出羽介次いで秋田城介に任官されると信長から織田家の家督を譲られており、翌四年には従四位下、従四位上、同五年には正四位下そして従三位への昇叙とともに左近衛中将に任官されており、稀代の昇進を遂げています。
 また、そのころから信忠は父に代わり前線での指揮を取るようになっていますが、同六年の信長の「両官辞任」の直前、一門、重臣からなる大軍を率いて大坂への出陣を行っているのは(『信長(公)記』・『兼見卿記』)、それまでの信長の先例からすれば、昇叙、昇官へのデモンストレーションに相違ありません。
 
 しかし「顕職は信忠に譲られたい」との信長の申し出は実行されず、信忠の昇進も打ち止めとなっています。 
 信長の発言は、それに対する再アピールであり、それが「三職推任」となったのは、やはり朝廷が信長自身にも復官を求めていたのではないかと考えられます。 まずは信長自身が「将軍」に就きそれを信忠に譲る。もしくは、信長は関白もしくは太政大臣に就き信忠が将軍に就く、そういうシナリオではなかったでしょうか※。

 実は、その「三職推任」こそが光秀に謀反を決意させる切欠になったのではないかと考えられます。
 なぜなら、もしそれを信長が受けた後に謀反を起こせば、それは単なる「主殺し」から「将軍暗殺」、延いては「朝敵」の汚名を着る行為となる訳で、それまでに事を起こさなければならないとのプレッシャーを光秀に与えたのではないでしょうか。

 皮肉にも信長は、欲していた「将軍」という肩書きに殺されたと言えます。


※信長より「誠仁親王への譲位」が条件としてだされ、「金神」を理由に朝廷が拒否したとする説と、逆に信長が取り下げたとする説がありますが、もとより信長自身にその気がなかったと見るべきでしょう。
※『尋憲記』天正二年(1574)三月二十四日条には、信長が「近衛」の家督を継承し関白に推す動きがあることや、次男信雄が将軍になるのではとの噂が記されています。

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