Hi Everyone・・・
新年早々、父親の死・・・早すぎる・・・
父は、元航空自衛隊で勲章をもらったエリート中のエリートです。
なんでお国のために一生懸命働いてきた人たちが早く亡くなり、
なんで人を騙すような悪い人たちが長生きするのだろう・・・
神様は間違ってる・・・本来は、逆だよ・・・
皮肉にも父が亡くなったのは、クズ元彼の誕生日・・・
なんの意味があるのだろう・・・
約半年前、父は、誤嚥を起こし、危篤ながらも持ちこたえました。
しかし、そこから食べれない日々が続き、胃ろうをしました。
胃ろうをしても食べることは出来ず、
使えない筋肉がどんどん父を弱らせていきました。
父は、話すことも出来なかったため、痛みを母に伝えようにも
伝えれなかったと思います。
痛みを我慢するしかない日々が続き、
痰吸引を行いながら点滴で少ない栄養を入れながら
頑張って生きてくれました。
令和7年2月3日の夜、父の弟、叔父から電話が入りました。
私は、うすうす感じていました・・・
恐る恐る電話をとると、
「すぐ帰ってきてほしい。どうしても長女のお前に
父と最後、会ってほしいんだ・・・」と・・・
ほんまに最後になってしまうという恐怖と、
父に会いたいという想いが葛藤して、
数時間でも早く帰省したかったのですが、夜の運転は危険な上、
翌日には、私の病院の予約が入っているという状況で・・・
タイミングが合わないながらも最善は尽くしました。
なんとか、2月3日の午前11時過ぎ頃、出発することが出来、
いつもは途中で一泊するところを
雪が降る状況もあり、とにかくノンストップで車を走らせ続けました。
おかげで夜22時頃には、到着出来、
母も叔父も翌日、父に会いに行けばいいとは言われたのですが、
私は、すぐ会いに行きたいと言い、
連れて行ってもらいました。
父は寝ていたのですが、声をかけると、起きてくれました。
すぐに、声をあげて泣いてました・・・
声を出すのも痛くてしんどいだろうに、
「あ~」って何度も言いながら・・・
私には、「ありがとうのあ」に聞こえました・・・
そして、息子の名前を何度も連呼して泣いていました・・・
最後に私に会えた嬉しさと痛みが増す中、
一生懸命、息子に会いたい気持ちが抑えられなかったようで、
興奮気味になっていたので、息があがり、痰がどんどんあがってきて・・・
痰吸引をしたら、少し楽にはなったようで、
最後に大きく息を吸い込んだのが最後でした・・・
ほんまにあっという間で・・・
大きく息を吸い込んだ時、魂が抜けたのを私は見ました・・・
悲しい・・・ツラい・・・というより、えっ?と、茫然としました・・・
一人で死ぬのは、ツラくて悲しいだろうと私は思い、
最後までそばにいると言ったのですが、
母の思いは違い、「帰るよ」と言われて帰らされました。
母曰く、父さんは、死ぬところを見られたくなかったというのです・・・
それに、一人体制では寝れないから二人体制じゃないといけないから
母の身体が持たないと・・・きっと、母も父の死を見届けるのは
ツラく悲しいものがあったのでしょう・・・
実家に帰った数時間後に、施設から午前2時半ごろ電話があり、
「脈が取れません。」と連絡が入りました・・・
父は、私の到着を苦しい中、待っててくれたのだと思いました・・・
いつも私を心配してくれてたので
最後、会えて良かったと思いました・・・
でも・・・いつも私はアンカーなんだなという辛さ・・・
これも宿命なんでしょうけど・・・
何にもしてやれなかったけど、最後の親孝行として
長女としての役目は果たせたと思います。
それから数日間は、父の遺体のある部屋で、母と友人と一緒に寝ました。
不思議と、親の遺体って怖くないんです。親ですからね・・・
色んな父との思い出が、ほんま走馬灯のように巡るんです。
こんな日がくることも覚悟できてたはずなのに、
実際にこんな日がくると、とても受け入れ難いことなんです・・・
棺に、ご遺体を運ぶ時は、ほんまに亡くなったんだという実感が
一気に寄せてきて、想像以上のショックを受けました・・・
ほんまに、これで最後なんや・・・という実感。
ほんまに、もう二度と会えないんやという実感・・・
写真の中の父は幸せそうな顔してはるのに・・・
現実は、ただただ寝てるように見える。
一人、お風呂場で私は泣きじゃくりました。
父が苦しみから解放されて良かったという思いもあれば
ほんまに父の命尽きたという現実に気持ちが追いつかない・・・
色んな思いが巡ります・・・
私が父を介護していたら、もっと父は生きれたのだろうか・・・とか・・・
でも、私が親の立場だったら、子供に面倒見てもらうのは
恥ずかしいかなと思ったりして、受け入れられず何も出来なかったんです。
もし、私が死んだら、こんな豪華なお葬式、誰もしてくれないだろうなと
思うと、父は立派な人だったんだなと思いました。
亡くなってからも新たな勲章をもらいました。
ご遺体にも敬意を払ってもらえて幸せです。
幸いにも火葬もまちまちの中、3日で対応していただけました。
今年は、ものすごく亡くなる方が多いらしく、
最長10日待ちの火葬だと聞きました。
骨もどこが悪かったのだろうというくらい
とても立派で、綺麗なしっかりしたお骨でした。
あの筋肉質な父が、最後には、骨と皮だけで
半年も生きた証は、素晴らしさを物語っていました。
最後まで我慢強い人だったな・・・
我々が想像するよりも痛さは酷かっただろうに・・・
最後の父の服装は、私の夢に出てきた「Yシャツ」でした。
それを見た時は、ほんまに驚きました。
父は、私にお知らせにきてた・・・
それもわかっていたのに・・・
「あとは、頼む・・・」と言わんばかりに・・・
父さん・・・私には何にも出来ないよ・・・
ただ、独り身の叔父さん(父の弟)とは
支え合って生きてくから安心してね。
最後まで、父さんに良い報告が出来なかったことも心残りです・・・
「今の地で、夢も成功して、人に恵まれて
楽しくやってるから安心してね」と最後言いたかったのに・・・
父さんがくれた言葉を胸に、
最後まで私は諦めないからね!
私が諦めそうになったら、天から私を守ってね!
父さんには、尊敬と感謝しかありません。
自由にさせてくれてありがとう!
また来世で会おうね!
Thank you for reading today too.![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0230.gif)
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新年早々、父親の死・・・早すぎる・・・
父は、元航空自衛隊で勲章をもらったエリート中のエリートです。
なんでお国のために一生懸命働いてきた人たちが早く亡くなり、
なんで人を騙すような悪い人たちが長生きするのだろう・・・
神様は間違ってる・・・本来は、逆だよ・・・
皮肉にも父が亡くなったのは、クズ元彼の誕生日・・・
なんの意味があるのだろう・・・
約半年前、父は、誤嚥を起こし、危篤ながらも持ちこたえました。
しかし、そこから食べれない日々が続き、胃ろうをしました。
胃ろうをしても食べることは出来ず、
使えない筋肉がどんどん父を弱らせていきました。
父は、話すことも出来なかったため、痛みを母に伝えようにも
伝えれなかったと思います。
痛みを我慢するしかない日々が続き、
痰吸引を行いながら点滴で少ない栄養を入れながら
頑張って生きてくれました。
令和7年2月3日の夜、父の弟、叔父から電話が入りました。
私は、うすうす感じていました・・・
恐る恐る電話をとると、
「すぐ帰ってきてほしい。どうしても長女のお前に
父と最後、会ってほしいんだ・・・」と・・・
ほんまに最後になってしまうという恐怖と、
父に会いたいという想いが葛藤して、
数時間でも早く帰省したかったのですが、夜の運転は危険な上、
翌日には、私の病院の予約が入っているという状況で・・・
タイミングが合わないながらも最善は尽くしました。
なんとか、2月3日の午前11時過ぎ頃、出発することが出来、
いつもは途中で一泊するところを
雪が降る状況もあり、とにかくノンストップで車を走らせ続けました。
おかげで夜22時頃には、到着出来、
母も叔父も翌日、父に会いに行けばいいとは言われたのですが、
私は、すぐ会いに行きたいと言い、
連れて行ってもらいました。
父は寝ていたのですが、声をかけると、起きてくれました。
すぐに、声をあげて泣いてました・・・
声を出すのも痛くてしんどいだろうに、
「あ~」って何度も言いながら・・・
私には、「ありがとうのあ」に聞こえました・・・
そして、息子の名前を何度も連呼して泣いていました・・・
最後に私に会えた嬉しさと痛みが増す中、
一生懸命、息子に会いたい気持ちが抑えられなかったようで、
興奮気味になっていたので、息があがり、痰がどんどんあがってきて・・・
痰吸引をしたら、少し楽にはなったようで、
最後に大きく息を吸い込んだのが最後でした・・・
ほんまにあっという間で・・・
大きく息を吸い込んだ時、魂が抜けたのを私は見ました・・・
悲しい・・・ツラい・・・というより、えっ?と、茫然としました・・・
一人で死ぬのは、ツラくて悲しいだろうと私は思い、
最後までそばにいると言ったのですが、
母の思いは違い、「帰るよ」と言われて帰らされました。
母曰く、父さんは、死ぬところを見られたくなかったというのです・・・
それに、一人体制では寝れないから二人体制じゃないといけないから
母の身体が持たないと・・・きっと、母も父の死を見届けるのは
ツラく悲しいものがあったのでしょう・・・
実家に帰った数時間後に、施設から午前2時半ごろ電話があり、
「脈が取れません。」と連絡が入りました・・・
父は、私の到着を苦しい中、待っててくれたのだと思いました・・・
いつも私を心配してくれてたので
最後、会えて良かったと思いました・・・
でも・・・いつも私はアンカーなんだなという辛さ・・・
これも宿命なんでしょうけど・・・
何にもしてやれなかったけど、最後の親孝行として
長女としての役目は果たせたと思います。
それから数日間は、父の遺体のある部屋で、母と友人と一緒に寝ました。
不思議と、親の遺体って怖くないんです。親ですからね・・・
色んな父との思い出が、ほんま走馬灯のように巡るんです。
こんな日がくることも覚悟できてたはずなのに、
実際にこんな日がくると、とても受け入れ難いことなんです・・・
棺に、ご遺体を運ぶ時は、ほんまに亡くなったんだという実感が
一気に寄せてきて、想像以上のショックを受けました・・・
ほんまに、これで最後なんや・・・という実感。
ほんまに、もう二度と会えないんやという実感・・・
写真の中の父は幸せそうな顔してはるのに・・・
現実は、ただただ寝てるように見える。
一人、お風呂場で私は泣きじゃくりました。
父が苦しみから解放されて良かったという思いもあれば
ほんまに父の命尽きたという現実に気持ちが追いつかない・・・
色んな思いが巡ります・・・
私が父を介護していたら、もっと父は生きれたのだろうか・・・とか・・・
でも、私が親の立場だったら、子供に面倒見てもらうのは
恥ずかしいかなと思ったりして、受け入れられず何も出来なかったんです。
もし、私が死んだら、こんな豪華なお葬式、誰もしてくれないだろうなと
思うと、父は立派な人だったんだなと思いました。
亡くなってからも新たな勲章をもらいました。
ご遺体にも敬意を払ってもらえて幸せです。
幸いにも火葬もまちまちの中、3日で対応していただけました。
今年は、ものすごく亡くなる方が多いらしく、
最長10日待ちの火葬だと聞きました。
骨もどこが悪かったのだろうというくらい
とても立派で、綺麗なしっかりしたお骨でした。
あの筋肉質な父が、最後には、骨と皮だけで
半年も生きた証は、素晴らしさを物語っていました。
最後まで我慢強い人だったな・・・
我々が想像するよりも痛さは酷かっただろうに・・・
最後の父の服装は、私の夢に出てきた「Yシャツ」でした。
それを見た時は、ほんまに驚きました。
父は、私にお知らせにきてた・・・
それもわかっていたのに・・・
「あとは、頼む・・・」と言わんばかりに・・・
父さん・・・私には何にも出来ないよ・・・
ただ、独り身の叔父さん(父の弟)とは
支え合って生きてくから安心してね。
最後まで、父さんに良い報告が出来なかったことも心残りです・・・
「今の地で、夢も成功して、人に恵まれて
楽しくやってるから安心してね」と最後言いたかったのに・・・
父さんがくれた言葉を胸に、
最後まで私は諦めないからね!
私が諦めそうになったら、天から私を守ってね!
父さんには、尊敬と感謝しかありません。
自由にさせてくれてありがとう!
また来世で会おうね!
Thank you for reading today too.
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