生粋の日本人である私が初めてクリスマスという行事に出会ったのはそう、奇しくも初めてペット犬に出遭った頃に重なる。
私の幼稚園はお寺さんの庭先に園舎があった位だから、行事は入園式直後の4月8日のお釈迦様の花祭りを皮切りに色々あったが、クリスマス会の記憶はない。
父親の仕事上のパートナーの子供達がカトリックの学校に通っていたので、そちらの家族と合同で「子供クリスマス会」が帝国ホテルのバイキング・クリスマス・ディナーで始まったのである。ここで幼い私は様々な事を学んだ。女の子の素敵なドレスは当たり前で私は毎年レースで飾られたワンピースを買って貰えるのが待ち遠しかった。5歳年上の姉は好みがシンプルでいつも彼女が飾り気のないワンピースを買って貰っているのを見て「折角なのに、何であんな普通の、新しいだけで普段と変わらない服を選ぶんだろう」幼い私はそう思ったものである。
むこうの小6の男の子がネクタイを忘れてホテルで借りていたのをよく覚えている。「ノータイではダイニングルーム入る事もダメなんだ!」私は少しずつ初歩的なマナーを学んだものである。
やがて子供全員(私の11歳上の兄は既に社会人だった!)の義務教育を終える頃、このクリスマス会はクローズされた。そして私自身がキリスト教の学校に進学して色々な行事に出会っていった。まさにペギー葉山が歌う「学生時代」であった。ペギーさん自身があの時代は女学校で共学ではなかったから、まあ、私の頃はもう既に女学校ではなかったので姉のように慕う人はいなかったが、恋人のように思いを馳せる人は・・・ ♪その美しい横顔 姉のように慕い・・・ ではなく、♪その格好いい横顔、恋人のように慕い・・・ ああ、でも・・・居眠りしてる・・・慕うどころじゃない!見つかるよ!起きて!・・・
私が半世紀近く何気なく過ごしやって来たクリスマス行事にも様々な思い出がある。高校時代はやはり学生生活絡みで、あの歌が語ってくれる。曲を手がけた人も歌った人も先輩ならではの表現だといつも思っている。
とっても印象に残っているのは南半球に渡ってからである。夏のクリスマスの感動は12月というフェスティブ・シーズンが始まると、住宅街にクリスマス・キャロル(キャロルは祝歌)が流れ、暗くなるに連れて南十字星は燦然と輝き始める事だった。普段、何でもない様に歩いている道の十字路で歌う賛美歌はかつて私が礼拝堂で義務的に日本語で歌っていたものとメロディーを共にしていた。
クリスマス・キャロルにも勝る出来事はイブに起きた。初めてのクリスマス・イブに目を丸くしっ放しの私が帰宅したのはもう既にクリスマス・デーになっていた。ホスト・ファミリーというか私の豪両親と行動を共にして帰宅した時、未成年の私以外はみなほろ酔い気分だった! パパが車を車庫に入れている?間に玄関の鍵を開けて入ろうとした途端、ママが何かに躓いた。「大丈夫?」と聞く私にEverybody loves somebody・・・ と酔っ払いのディーン・マーチンの真似をしながら、手に何か拾い上げた。「あなたに~!」本当に私宛だった。リボンで気取った小さな包みにはカードが付いていた。
☆☆☆Dear Mikko, Merry Christmas to you! Love from Noreen ☆☆☆
留学最初の日の隣席人、Noreenという女の子からだった。海外の慣わしに感激した夜だった。以来、彼女と私の友情は今でもメールを通して続いている。どの学友よりも長く続いている。恐らく、あのクリスマス・イブの出来事、日本娘とっては大きな出来事だった小さな贈り物が二人の絆を毎年強めてくれているのだろう。
帰国後日本で迎えたクリスマスの思い出は、古都京都の教会で迎えたイブの事である。ミサを終えて教会の外に出た二人に思いがけない初雪が・・・ 初めてのホワイト・クリスマスだった。
それから数十年、子供中心のクリスマスは当然、典型的な日本版と外国版のコラボだった。
そして、今年、ワンちゃん中心の私はカードならぬカレンダー作りに丹精込めて、クリスマス・イブの朝を迎えた。ワンちゃん仲間にワンダフル・カレンダーを発送し、夜はシャンパン(Veuve Clicquot)を飲み、息子が料理したロースト・ディッシュを賞味し、更には娘がフルーツケーキを用意してくれた。「亭主元気で留守がいい」の典型的な家族だが、私が倒れてからは二人の子供が采配を振るって外出は25日に、と決めてくれている。父親に習わずとも、父親の上をいく息子のシャンパン栓抜きはブラボーを叫びたい程見事だった!最近の我が家はイブと当日を分けずに、クリスマス・イブ・サパーとクリスマス・ディナーを一夜で一度に味わう事になっている。
節目々々のクリスマスはどれも記憶に新しく蘇る。今年も私のクリスマスページにひとつ大きな記憶が残る事になった。
NB:ワンダフル・カレンダー到着のメッセージが続々・・・
私の幼稚園はお寺さんの庭先に園舎があった位だから、行事は入園式直後の4月8日のお釈迦様の花祭りを皮切りに色々あったが、クリスマス会の記憶はない。
父親の仕事上のパートナーの子供達がカトリックの学校に通っていたので、そちらの家族と合同で「子供クリスマス会」が帝国ホテルのバイキング・クリスマス・ディナーで始まったのである。ここで幼い私は様々な事を学んだ。女の子の素敵なドレスは当たり前で私は毎年レースで飾られたワンピースを買って貰えるのが待ち遠しかった。5歳年上の姉は好みがシンプルでいつも彼女が飾り気のないワンピースを買って貰っているのを見て「折角なのに、何であんな普通の、新しいだけで普段と変わらない服を選ぶんだろう」幼い私はそう思ったものである。
むこうの小6の男の子がネクタイを忘れてホテルで借りていたのをよく覚えている。「ノータイではダイニングルーム入る事もダメなんだ!」私は少しずつ初歩的なマナーを学んだものである。
やがて子供全員(私の11歳上の兄は既に社会人だった!)の義務教育を終える頃、このクリスマス会はクローズされた。そして私自身がキリスト教の学校に進学して色々な行事に出会っていった。まさにペギー葉山が歌う「学生時代」であった。ペギーさん自身があの時代は女学校で共学ではなかったから、まあ、私の頃はもう既に女学校ではなかったので姉のように慕う人はいなかったが、恋人のように思いを馳せる人は・・・ ♪その美しい横顔 姉のように慕い・・・ ではなく、♪その格好いい横顔、恋人のように慕い・・・ ああ、でも・・・居眠りしてる・・・慕うどころじゃない!見つかるよ!起きて!・・・
私が半世紀近く何気なく過ごしやって来たクリスマス行事にも様々な思い出がある。高校時代はやはり学生生活絡みで、あの歌が語ってくれる。曲を手がけた人も歌った人も先輩ならではの表現だといつも思っている。
とっても印象に残っているのは南半球に渡ってからである。夏のクリスマスの感動は12月というフェスティブ・シーズンが始まると、住宅街にクリスマス・キャロル(キャロルは祝歌)が流れ、暗くなるに連れて南十字星は燦然と輝き始める事だった。普段、何でもない様に歩いている道の十字路で歌う賛美歌はかつて私が礼拝堂で義務的に日本語で歌っていたものとメロディーを共にしていた。
クリスマス・キャロルにも勝る出来事はイブに起きた。初めてのクリスマス・イブに目を丸くしっ放しの私が帰宅したのはもう既にクリスマス・デーになっていた。ホスト・ファミリーというか私の豪両親と行動を共にして帰宅した時、未成年の私以外はみなほろ酔い気分だった! パパが車を車庫に入れている?間に玄関の鍵を開けて入ろうとした途端、ママが何かに躓いた。「大丈夫?」と聞く私にEverybody loves somebody・・・ と酔っ払いのディーン・マーチンの真似をしながら、手に何か拾い上げた。「あなたに~!」本当に私宛だった。リボンで気取った小さな包みにはカードが付いていた。
☆☆☆Dear Mikko, Merry Christmas to you! Love from Noreen ☆☆☆
留学最初の日の隣席人、Noreenという女の子からだった。海外の慣わしに感激した夜だった。以来、彼女と私の友情は今でもメールを通して続いている。どの学友よりも長く続いている。恐らく、あのクリスマス・イブの出来事、日本娘とっては大きな出来事だった小さな贈り物が二人の絆を毎年強めてくれているのだろう。
帰国後日本で迎えたクリスマスの思い出は、古都京都の教会で迎えたイブの事である。ミサを終えて教会の外に出た二人に思いがけない初雪が・・・ 初めてのホワイト・クリスマスだった。
それから数十年、子供中心のクリスマスは当然、典型的な日本版と外国版のコラボだった。
そして、今年、ワンちゃん中心の私はカードならぬカレンダー作りに丹精込めて、クリスマス・イブの朝を迎えた。ワンちゃん仲間にワンダフル・カレンダーを発送し、夜はシャンパン(Veuve Clicquot)を飲み、息子が料理したロースト・ディッシュを賞味し、更には娘がフルーツケーキを用意してくれた。「亭主元気で留守がいい」の典型的な家族だが、私が倒れてからは二人の子供が采配を振るって外出は25日に、と決めてくれている。父親に習わずとも、父親の上をいく息子のシャンパン栓抜きはブラボーを叫びたい程見事だった!最近の我が家はイブと当日を分けずに、クリスマス・イブ・サパーとクリスマス・ディナーを一夜で一度に味わう事になっている。
節目々々のクリスマスはどれも記憶に新しく蘇る。今年も私のクリスマスページにひとつ大きな記憶が残る事になった。
NB:ワンダフル・カレンダー到着のメッセージが続々・・・