コロナでは、政府のやり方に色々と批判が出ている最近。
日本の政治って、曖昧さの上になりたっている部分が多い・・・と思うことがある。
本当に曖昧なのか、あるいは本当はハッキリしてる情報があるのに単に表に出さないだけなのか、実のところはわからない。
ある意味、それも曖昧ではある。
だが、コロナ対応がうまくいかないのは、曖昧さでやってきたツケが次々と露呈して破たんしてきてるように思えるのは私だけ?
基準があるのかないのか・・それも曖昧。
決めるのが嫌なのか、それとも決められないのが体質なのか、それはわからない。
平常時なら曖昧さでもやっていけるのかもしれない。
少なくても国民に情報を開示しないで。
基準をはっきりさせると、自身の首をしめることになるかもしれないし、なにより特定の人が責任をとらされるのを回避するためなのかもしれない。
曖昧というのは、責任回避のためではないか。
だが、その曖昧さはコロナ相手では通用しなかった。
コロナは、感染してるか、してないか・・ではっきりしてるから。そこに曖昧さはない。
コロナ禍というのは平時ではない。文字通り緊急時なのだ。
日本は、平時と緊急時の区別があまりできてないのではないか。
政策もそうだが、国民の意識も。その国民の中には、当然政治家も含まれる。
そう考えると、政府が国民に自粛を呼び掛けてるのに、政治家が自ら自粛要請を破るケースが出てくるのにも説明がつく。
一般人が、自粛要請に従わない人が多いのも説明がつく(もちろん、守っている政治家も一般人もちゃんといるけどね)。
頼みの綱であるはずの貴重なワクチンを無駄に捨てたり、保管方法を間違えたりするのにも説明がつく。
いずれも、平時と緊急時の区別がついてないとしか思えない。
何か対策を考える時、「○○○がどうのこうの」「○○○があるから、それはできない」というふうに原則論を持ち出す人がいて、結局何もできず、有効な対策がうてていないことがある。
平時なら原則論は大事にできるし、しかもそれが大事である場合は多い。
でも、困るのは緊急時であっても平時のように原則論を持ち出してきて譲らない人は多いこと。
平時には有効な原則論も、緊急時には、役に立たないことがあると思う。それどころか、事態収拾の妨げになり、その結果事態を収拾させることができなくなることもある。
その結果、悪い状態が長く続き、その悪影響が多方面に及び、結果的に損害が大きくなるばかりになり。
ともかく、緊急時は、平時とは違うのだ。
そのへんの区別が出来ないと、何も変わらないのではないか。
いつか平時に戻ったら、また原則論を復活させればいいのでは。
あくまでも、緊急時の特別措置で。
緊急事態宣言期間中というのは、文字通り「緊急時」なのだ。平時ではない。
ともかく、「緊急時」という事態が、「緊急時」になっていないように見えて仕方ない。軽く見えてしまう。
ある意味、「緊急時」というものを、今の日本はなめていないだろうか。
ともかく、あまりにもいつまでたってもラチがあかない状況の中にいると、ついこんなことを書きたくもなってくる・・・。
本当は、こんなネタは書きたくないのだが・・。
ワクチンがある国は、すでに元の状態に戻す道筋に入っているのに。
ワクチンがなくても、厳しい対策でコロナを抑えてきた国もあるというのに。
そのへん、なにやらくやしい。
そして・・日本という国が悲しい。
新手の感染病に対する対策、対応、環境、心構えが、ほとんど後進国だった事実に。
私は日本を買いかぶっていたのだろうか。
今後のためにも、一度自信を失い、そこから現状を把握し、そこから学んで、今後に活かしていってもらうことを願うのみ。
まさか、それすら「できない」と言わないでほしい。「○○があるから、それはできない」などという言葉は、今は聞きたくない。口実をつけて、さぼって何も改善しないでいるだけではないか・・・と思いたくなってくるから。
その時点で思考停止しないでほしい。
先延ばしするだけでは、これまでと変わらない「その先」があるだけではないだろうか。
なぜなら、それではこれまでと何も変わらないから。
ということは、今後も同じことを繰りかえす・・ということになるから。
「平時は○○があることで難しくても、緊急時にはそこをなんとかしなければいけない。そのためにはどうするか。」そんな議論こそ、緊急時には必要なのではないか。
今後の日本のためにも、そのへんよく考えないといけないと思えて仕方ない。
対岸の火事は幻想だった。