3月下旬というのは、
沖縄の慶良間諸島に米軍が次々と上陸した時期でした。
今から75年前、
事実上沖縄戦が開始された時期でもありました。
そして渡嘉敷島をはじめとした数々の島にて、
凄惨な「集団自決」という悲劇がありました。
ということでありますから、
沖縄タイムスや琉球新報では、
「集団自決」に関する記事が掲載されておりましたね。
自分も有料記事以外は拝見させていただきました。
その記事に対する内容はともかく、
なぜか両紙とも「集団自決」(強制集団死)という表現を、
足並みをそろえようにして一律に使っていますね。
これは両新聞に限ったことではなく、
沖縄ではごく普通に併記している現象が起こっております。
もう、かれこれ10年ぐらい前からだと思いますが、
記憶違いだったらごめんなさい。
しかし「自決」と「強制」を併記するって、
常識的に考えたらおかしくないですか?
二つの意味合いは本来なら、
完全に相反するものなんですよね。
「自決」の意味は「自ら決すること」であって、
「強制」の意味は説明するまでもありません。
これはバランスを考えた結果なのでしょうか?
いやいや、
両紙の沖縄戦に対する主義主張をつぶさに観察すれば、
バランスなんて一切考えていないと思います。
ま、これをわかりやすくいうと、
日本軍はウチナンチュ~を虐殺した「敵」なのですから…
ではでは、
なぜ相反する意味をわざわざ使用しているのでしょうか?
これはあくまでも個人的な意見ですが、
本当は日本軍の「強制」と明記したいのだけども、
「何らかの理由」によって、
それができないのではないかと思っています。
では「一体、何らかの理由とは何だ?」ということになりますが、
それは単純に「強制」であるという事実がないから…
あったとしても非常に弱いインパクトでしかないから…
ということになると思います。
強制の事実…
つまり日本軍によって強制されたと主張・糾弾したいのに、
それができないがゆえ、
苦肉の策として併記しているのではないかと思うのです。
「強制の事実がないなら強制じゃないのでは?」
と、普通に素直に考える方がいるかと思われますし、
むしろそれが一般的常識ではないかとも思われますが、
このような「歴史認識問題」においては、
これがなかなか一筋縄ではいかないのです。
「南京大虐殺」「従軍慰安婦問題」に加えて、
この「集団自決」という歴史認識問題の共通点は、
日本軍や日本の「戦争責任の追及が目的」です。
つまり、日本軍や日本は先の戦争で「悪いこと」をした、
という行為・行動を白日の下に晒し、
その責任を追及し、糾弾することが目的なのです。
そうでありますから、
「従軍慰安婦」ではその強制連行が糾弾され、
「集団自決」も同じように日本軍が強制したとして、
「強制集団死」となってくるのです。
しかし、
「命令されたんだ!強制だ!」と最初は糾弾しておりましたが、
よくよく調べてみると、その「強制」が疑わしいものとなっていきます。
「集団自決」の場合、
ここでは渡嘉敷島に限定しますが、
最初は「住民は自決せよ!」という、
明らかな軍の命令があったとされていたのですが、
「そんな命令は出していない」という、
元指揮官の証言が出てくるのです。
しかも「住民は自決せよ!」といった命令は、
実は誰も聞いていないのです。
「命令を聞いた」という証言が軍・官・民ともども、
どういうわけか全くないのです。
非常に不可解な現象が起こっているのです。
ごくごく常識的に考えれば、
「命令を出していない」という当事者の証言と、
「命令を聞いていない」という当事者の証言とを考慮すれば、
「自決命令」はなかったのではないかということになります。
「強制はなかった」ともいえるわけです。
しかし、しかし、しか~し、
彼ら彼女らの目的はあくまで「戦争責任の追及」であります。
日本軍の悪行三昧を糾弾するのが目的であります。
それなのに「命令・強制」がなかったとすれば、
その目的を達成することができません。
そうでありますゆえに、
どうしても「強制」でなければならないのです。
裏を返せば「日本軍は常に悪でならなければいけない」のです。
そういったジレンマのせいで「自決」と「強制」といった、
全く相反する意味を併記しているのではないかと思うのです。
さらには「強制」という文字を使うことによって、
別の効果を生み出すことができます。
「強制」とはすなわち、悪いことですよね?
それが持つイメージとしては、
少なくとも好印象は持たれないかと思われます。
「集団自決」に(強制集団死)を付け加えれば、
その「強制」が持つ意味合いによって、
なんとなく「悪いイメージ」が付け加えられている…
のではないでしょうか。
特に「集団自決」の内情を知らない方々にとっては、
事実かどうかは全く関係なく、
その「悪いイメージだけ」が植えつけられるような気がします。
つまり、これは印象操作なのです。
そういった意味では、
日本軍や日本を糾弾することが可能になっていきます。
しかし、繰り返しになりますが、
これは単なる印象操作であり、あるいはプロパガンダであって、
歴史学という学問・学術研究ではありません。
ジャーナリズムでもありません。
まったく似て非なるものなのです。
そうやって自らの主張への賛同を、
隠密的に誘導しているのです。
今風にいえば「ステマ」ですかね…
このようなことが両紙に限らず、
沖縄の教育界や歴史学界全体で、
日々行われているような気がしてなりません。
非常に残念であります…
ちなみに、
強制の事実があったら「それでよし」
強制の事実がないのなら「それでよし」
というのが自分なりのスタンスです。
事実ではないことを事実だと強弁する人たちには、
全く賛同する気にはなれません。
右翼も左翼もネトウヨもパヨクも全く関係ありません。
加えてマスメディアもね…
なお、この件に関しましては当ブログ、
「言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」」
「誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」」
にて、自分なりに考察してまいりました。
お暇なら読んでくださいな。