今となっては崩落してしまった本部壕が、
「下の壕」と呼ばれていたのに対し、
碑が建っているこの手術場は「上の壕」とも呼ばれていたらしいです。
では実際どのような場所だったかについて、
以下に引用させていただきます。
山第一野戦病院・上の壕
(中略)
山第一野戦病院の本部壕と上の壕・新城・東風平・の各分院は、激戦のなかを六月の初旬まで機能し、数限りない負傷者の悲惨なドラマが展開されました。
富盛の上の壕「手術場」とも呼ばれていました。下の壕の西へおよそ八十メートルほど上がった高台にあり、石粉(いしぐー)の採石のため掘られた場所をさらに掘り込んだ壕で下の壕と同じに、竹を組んだ二段ベッドが五十~六十床ほど、壁際に沿って一列に奥へと続いていました。
別掲 『白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』
駐車場やトイレの近くに位置し、
公園への階段を登っていく途中にありますので、
そういった意味では非常にわかりやすい場所です。
そして2021年現在はいろんな案内板が設置されていて、
「白梅」の足跡がわかりやすくなっております。
平和学習でも使われているような賑わいもあるみたいですね。
ちなみにですが90年代当時、
八重瀬町で食用菊の栽培をしている方と知り合いになり、
生まれも育ちも八重瀬町みたいだったので、
ついでにという感じで、
この壕のことを詳しく伺おうと思ったのですが、
その方は壕の存在自体を知りませんでした。
その当時自分は20代後半で、
自分より少し年下って感じの年齢でした。
無関心さや無知に対し、
その方を責める気なんて毛頭ございません。
特別な関心や興味をもっていない限り、
これはこれで普通なことなのかとも思います。
ただ、いま改めて思うと、
90年代当時は学校での平和学習とかそういったものは、
あまり実施されていなかったんじゃないかと思います。
次回以降に続きます。